texted a ANANYA

メディスンカード・リーディング
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10月のメディスン

 

どうもです。

10月のメディスン出してみました。以下。

 

 

★10月のメディスン★

 

 

キーワードは支度、準備、下ごしらえ。

必要な作業を実際にはじめる、手を動かす。

 

イメージとしては、休耕地の稼働に向けての下地づくり。

で、まずは眺めてみる、現場、現状を把握する、みたいな感じ。

 

 

休耕地、というと、定義がちょっとずれてしまうかもですが、

いまは育ててない土地、空けてある土地、植えるつもりだけどなんらかの理由で植えられない、植えてない、でも手放さない手放せない土地、

あるいはいつかなんか植えたいなーと思いつつ、とにかくキープしてる土地、みたいなイメージ。

 

で、もしかしたら、本来こっちが種を撒かれ、育て咲かせるべくあった土地なのかもしれない、

あるいはそろそろこっちを稼働させるときなのかもしれない、そんな雰囲気なのかも。

 

さらにいうと、そうであろうとなかろうと、もしかしたらはずれているかもしれないけれども、

こっちに種をまいてみたかった、ここで育つ何かをみてみたかった、とずっと、もしくはぼんやりとでも思っていた土地、

頭の片隅なのかこころの奥なのか、とにかくあり続けていた土地、

そこを思い切ってつかってみるための準備、をするときなんじゃないかと。

 

 

ひとによって、みんなそれぞれ立ち位置やこれまでの道程のようなものはちがうから、

そのひとにとっての準備の仕方、プロセスもちがうし、ちがって当然ですよね。

 

だからひととくらべることなく、ひとの目を気にする必要もなく、

というか自分とその土地との関係、

気にするのはこっちだと。

 

頭とこころ、はたらかせるならその土地どうつかうのかと、

己と土地、とりあえずいまどうなってんのか、まわりの誰かや何かじゃなく、

そっちをみないとはじまんねえじゃんよと。

 

とりあえずそれをみてたら、どんな準備が必要かって、考えるまでもなく自然に発生すると思うんです。

まさにその種のなかにすべてがあり、そこから発芽ってすでにたぶんはじまってる。

 

 

その土壌を知ること。

つまりまずは土地の様子はどんなか、土OKか、雑草抜くとこからか、それはそのひとの感覚と土地の状態で変わってくるし、

いつかと思いながら、とりあえず毎日土をならしているひとと、なんにもしてなかったひとではちがうじゃないですか。

 

そこをくらべたってしょうがない、いまいるところからはじめるしかないし、

逆にいえばいつだって、いまいるところからはじめられるんだもん。

実際、雑草生やしたままやってく農法だってあるわけじゃん。

 

たとえば、はじめたいのはやまやまだけど何植えたらいいかわからないとか、どう植えればいいかわからない、

というのも自分じゃん、自分と土地の関係じゃん、だから一回眺めてみる、ちゃんとみてみる、自分と土地を、

その種の感触をたしかめながら。

 

 

とにかく眺めてみる。

ちゃんと、自分と土地、そして種をみてみる。

その“考え”“思い”はほんとうなのか、その理由はなんなのか。

 

雑草生やかして作業遅らせてんのはもしかすると自分かもしれない、

実は土地をつかうのが、種をまくのがこわいのかもしれない、

あるいは、その土地、ほんとは必要ないのかもしれない、

それに気づきたくないから、

実は動かさなくて済むようにしてるだけなのかもしれない。

 

 

だからまあ、しのごの言わずに、とりあえずみてみようよと。

“みる”ということがきびしかったり面倒だったりするのかもだけど、

でも結局は、自分がらくに、スムーズに暮らすための調査なんですよね、それ。

 

 

とにもかくにも The POWER of NOW!!!

 

 

そう、いろいろ書いてますけど、

種も土地も、ちゃんと最初っから持ってる。

蒔いて育てられる分の種を全員携えて生まれてきてる。

 

というか、自分が種そのものだと思うんですよね。

 

 

というわけで、また〜。

素敵な週末を〜〜〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

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重箱の隅、母の遺品・3

 

片づけがひと段落して、“空いたスペース”と“自覚的に残しているもの”にフォーカスしてみると、気づきがどんどん起きてきて、あああれってそういうことか、これってそうだったんだ等々、沈んでいたものが水面に続々顔を出してきた感じ、なのでお昼休憩利用してやっぱり忘れないうちに書いてしまいます。

 

とりあえず、

裁縫用品を整理するなかで、自分が無意識に母から引き継いできたものについて書いているわけですけれども、彼女が亡くなった直後は形見分けなどもあったし、家族で結構大々的な整理はしたんですよね、でも当時あったものを思い返してみると、彼女がまだ生きていたにしろ、使い切れないだろうと思うものが、裁縫用品以外にもあったよなと。

 

自分のことをみてみると、どこに住んでいても感じていたのは、常に部屋がせまい、というか、収納スペースが足りないこと。

ひとりで住んでいても、ひとりじゃなくても、とにかく自分のものがきれいに納まらない、なにかしらはみ出してしまう。

 

で、その要因はいくつかあるにしろ、いちばんの理由は自分の理想とする家に住むことを含め、そうした生活、ストレスなく暮らせる状況をつくることができていないからだと思っていたんです。

さらにいえば、ではそれって結局、どんな感じなのか、というか、ヴィジョンとしてしっかりイメージしたこともなかった。

そして、それにもちゃんと原因があるわけなんですよ。

 

このヴィジョンについては、とりあえずちょっと置いておきますが、

とにかく今回、その考えは少なくとも、収納問題解決への完全なるアンサーではなかったと気づいた。これは、自分にとってはものすごい大きなことで、価値観の転倒、といったらちょっとちがってくるかもですけど、確実に自分の住居観はもちろん、働きとか生活に対する考え方の根本を揺るがすような気づきなんですよマジに(笑)!

 

というか、これはほんとに根深い問題で、いろんなことにつながってるんですね。

まず、使い切れないほどの量をストックしてしまうことについて考えてみると、そこから見えるのは、やっぱり不足の意識だと思うんです。

 

たしかに自分が小さいころ、ものには限りがあり、目の前にあるうちに手に入れておかなければならないこと、いつ必要なものがなくなるかわからないことなど、戦時中に母が体験したことから導き出された持論を、繰り返し聞かされていた。

 

自分ではそんな自覚はなかったものの、貝塚のように発見された空き瓶はさすがにいまは整理されてますけども、そこかしこに「つかうつもり」という名目のもとにストックされたものがひっそりと、ではなく、結構な主張をもって鎮座してたわけです。

 

これは物理的なものとしてとってもわかりやすく反映されてるけれども、ことの起こりは彼女の持論、別の言い方をすれば信念、いわゆるビリーフなんですね。それが世界をつくってる。

 

 

ボタンや糸をひとつひとつ眺めながら、どんどん気づきが起こっていって、ああ自分はいま、自分のものではなくて、母ののこしたものを整理しているんだなあと、今回はじめて自覚したんです。

いつの間にか、それらは自然と自分の生活にスライドして意識するまでもなく自分のものになっていたけれども、実はそうではなかったんだと。

 

 

メディスンを書くときに、よく「自分以外の誰かや何かの」というフレーズを出しますけど、まさにこれなんですね。

今回の場合は物理的なものを通して見えてきたけれど、逆に言えば、そういった“物理的な現実”が展開したその起こりはなんだったのか。

考え方、ものの見方、捉え方、ほんとに条件反射、反応でしかない感情の発生や行動、態度、言動に至るまで、いつの間にか自分のそれになっているけれど、ほんとに最初っから自分発だった? という問いかけ。

 

これまで自分でさんざん書いておきながらこれですからね、、そしてこれもまったくもってエゴ/マインドなんですよね、どれほどもっともらしくかつ自然にみえても。。

 

 

と、

母の裁縫用具を整理することからみえてきたいろんなこと、不足の意識についてなど、もっと複雑にまだまだいろんな信念や感情が乗っかっていて、母の幼少期の体験とその後や、父との関係等々、いろんなものがからんでるんですね。さらに、別の性質にもつながったり重なったりしていく。

で、終わりがないので、とりあえず今回は、いろいろはしょってわかりやすい部分を書いてみました。

 

そう、ここで終わりではないんですね、

言ってみれば、ここまではいろんなワークをやったり、なんらかのセッションを受けたり本を読んだり、内観に慣れてくると見えやすくなってくる段階。

 

もちろん、それはすごい大事で大きなことだし、かなり核心へと続く扉ではある。

でも話が変わってしまうけど、特にセルフワークをされてる方で途中で行き詰まったりするのって、実はこのあとからだったりする。

 

 

と、セルフワークのやり方については、特にフラワーエッセンスの方などからときどきご質問いただくので書いてみたいのですが、別の方向に行ってしまうのでまた別の機会にしますけれども、

方向という意味でいえば、

自分がこれまで見てきた景色、明日も見続ける風景、さらに向かっていく、向かおうとしている場所、

それって、ほんとにそこか??  というのはもう一回、立ち止まってみてみるといいんじゃないですかね。

 

というか、それの繰り返しが実は人生、というものだったり、とちょっといいこと言ってる風で適当に書いてるんですけど(笑)、

この感覚、すごいメディスンぽいんで、近々また出そうと思ってます。

 

というわけで、また。

季節楽しみつつ、やっぱり片づけ、整理、いまベストと思います!

 

 

 

ではでは、

Have a wonderful time〜〜!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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重箱の隅、母の遺品・2

 

とりあえず発掘&廃棄作業がひと段落して、まだ掘りたいところはあるのですが、家具の移動やひさびさに金槌ぶん回して棚つくったりしてるうちに仕事がまた詰まってきつつ、でも次のプラン&勉強もしつつ、みたいな感じであっという間に10月に入り、近日中、ではなくなってしまいましたけど、いい加減、前回の続きを書いてみます。

 

まず、タイトルの「母の遺品」。

今回、主に整理したのは裁縫用品だったのですが、自分がこどものころから見ていたし、いっしょに何かつくるときにつかったりもしたし、学校で家庭科の授業がはじまれば借りたりもしていたので、特に母が使っていたもの、という意識や自覚もなくそのまま自然に自分にスライドしてきたものたちだったんですね。

 

それらはこれまでも何度か整理してはいたものの、母はもともと洋裁の学校に通っていて、縫製の仕事をしたりもしていたので、まあかなりいろんなものがこまかくあって、というか、死んだ直後に整理したときには、布を含めたらもう膨大な量で、彼女が逝ってから30年ちょっと経つのですが、自分の代でも絶対に使い切れないほどの糸やボタン類が残っていたんです。

 

いままでずっと、引っ越せば何の疑問もなくダンボールに詰めては次の家に運び、押入れだの棚だのに収納し、を繰り返してきて、そして今回、なぜいまなのかはわかりませんが、それこそボタンひとつひとつ手にとって、いる、いらない、にわけてみたのです。

 

なかには、買った服についていた補修用の小さな布とボタンの組み合わせがあって、ああこれあの服のやつだ、と、もはやいつ手放したのかさえ覚えていない服のそれだったり、外されたボタンから服、その服にまつわる記憶、そのときのいくつかのシーンや感情を思い出したり等々、そこに宿るストーリーがどんどん思い出されてくるんですよね。

 

それは、あえて意識しなければあたりまえに、何の疑問もなく常に起こっていることで、ふと思い出してはまた忘れ、それこそ次の家に移動するように、また頭のどこかにしまわれて、もしかするともう二度と思い出すことはないかもしれないけれど、脳のなかに残り続けてはいく。そう、意図しようがしまいが、残っていくんです。

 

さらにその記憶がまた無自覚、無意識に、その後のあれこれに実は関わり続けてもいたりする。

思い出さなくても、そうとはわからなくても。

 

 

糸やボタンや布をひとつひとつ整理しながら思ったこと思い出したことは、ほんとにいくつもあるんですけど、そのひとつとして、彼女はほんとうにたくさんのものをストックしていたなということ。

 

裁縫用品に限らず、たとえば包装紙やリボン、文房具、それから食器、寝具等々、思い返してみると、自分がはじめて実家を出たときの荷物の量、尋常じゃなかったんですよね、いまならよくわかるけれども、布団3組くらいあったと思うし(笑)、当時借りたアパートの部屋なんて、完全にキャパオーバーですよ、なんでうちの家族は誰もそれについて何も思わなかったんだろう…。

 

そして、このブログをPCでご覧になってる方は、右のほうにレコメン本のコーナーがありますが、かなり以前に紹介しましたけどもカレン・キングストンの本、あれを最初に読んで、もう7ページ目くらいで部屋を片づけはじめたときのこと。

 

ここにも書いたかもですが、これだけの瓶をいったいどうしようと思っていたのか、、というくらいたくさんのジャムだのピクルスだのの空き瓶が棚から出てきたとき、自分はだめなのかもしれない…と、かなりショックを受けたわけですが(笑)、思えばこの余分にとっておくという性質、母親から引き継いできたものなんですよね。

 

まったく無意識に、そうすることがあまりにもあたりまえで、むしろ普通、自然なことだと思ってやってるから、それが尋常じゃないと気づかない、というか疑問にも思わない。

なんか多いなあとか入りきらないなあと思ったら、減らすよりそれを保管するスペースを拡張する方向で考えるし、また次の家に普通に運んでしまうんですな。

 

 

このことに気づいたとき、なんというか、自分のいろんなことが結構ぱしっ、とつながったんですよね。

それは、物理的なものだけではなくて、思考のパターンから自分のものごとに対する反応、性質もそうだし、

いわゆる豊かさというものにも、すごいつながってるなと思ったんです。

 

 

と、なんかもったいつけてる風ですまん、ですが、

また長くなってきたので、続きは後日に。

ちょっとねー今週もめちゃいそがしいんですが、なるべく次回は早めに書きます、気づいたこと思ったこと、すごいあるから自分で忘れないためにも。。

 

 

というわけで連休まっただなかですけれども、

お休みの方、すんごい素敵気候ですし、ぜひ行楽など楽しんでくださいませ(でも、荷物の整理もいいかもね笑)。

お仕事の方、わたしも仕事なんで、ときどき香ってくる金木犀の匂いに癒されながらやっていきましょう!

 

 

ではではまた〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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重箱の隅、母の遺品・1

 

ここのところ毎日、仕事以外の時間はずっと部屋の整理をしていて、とりあえずこれが収束するまでほかのことはできないというか止まらない、堰を切ったようにといいますがそんな感じかも、そのくらい仕事のきりがついたらもう延々とやってる、いやむしろ整理の合間に仕事してるといってもいい、というくらいの勢いなんですけども、こう書くとなんかすごい集中力あるっぽくみえたりするのかもですが、結局のところ時間をはじめあらゆる配分とか割合とか適度適量といったものがよくわかってないだけなのだと実感します、その出てくるいろんなものを眺めてみるととてもよくわかる。

 

ときどきめちゃめちゃいそがし〜、となるのも、まあほんとにそういうときもあるんですけど、それにしてもやっぱり配分もっとできるはずなんだよね、絶対。

 

 

とはいえ、こうしたことも、とどのつまりはなんらかの要因があって、たとえば部屋の片づけが極端にできないというご相談もよくありますけども、その他もろもろの計画が立てられないとかなぜか一歩踏み出せない、先延ばしにしたいわけじゃなくてもなってしまうといった、「わかってるしやりたいんだけれどもできない」って、そうなる理由というのがあるんですよね、だからどれだけ言われようと自分を責めようとも、できないもんはできないんだと。

 

なんてことも、整理しながら気づくこと多々で、よく部屋と頭のなかはいっしょといいますけど、ほんとだね(半笑い)という感じであります。

 

 

さらに自分、「最近また大々的な片づけを〜」って結構な割合で言ってる気がするんですけど、いままでのそれは目に見える部分をこう、ブルでざっくり掘ってかっさらってく感じ、あるいはもう廃棄は決まってるけど実際に動かせてなかったものを集めてグッバイする感じだったのが、今回は完全に重箱の隅をつつく感じ、素敵な見出し的に言えば、「隠れていた部分に光を当てる!」がテーマなのです! 

 

だから時間がかかってるんですな、ある意味発掘したものに付着した泥をハケで落としてく作業にも近く、結構しんどい。

 

 

で、重箱を開きその隅に近づくたびに、気づきはもちろんのこと、面白かったのが、腰を据えて整理をはじめてから2、3日、やたらと怒りが出てきたんですよね。

 

最初にカセットテープの整理をはじめたんですけど、そのテープにまつわる記憶をいろいろ思い出したりというのはまああるじゃないですか、でもそれとはとりあえず直結はしていないことで思い出したできごととか、つい最近のことに対してとか、その対象は無作為なんですけど結構強い怒りが出てきて、そんなときはそこから離れて自分をみるわけですが、なんか自分すごい怒ってるなあと、実はいろいろがまんしてたんだなあと。

できごとそれ自体、というよりも、感情のつながりから呼び起こされる記憶、みたいな感じで、いろいろ出てくるんですね。

 

 

ものを動かすって、ほんとに物理的にエネルギーを動かすことなんですよね、それにともなって、当然だけれどもその周囲のエネルギーも動く、変わる。

特にずっと動かしてないものって、やっぱり理由があるし、それはさまざまですけど、動かすにはそれだけパワーが必要な気がして、ますます動きを止めるべく先送りにしたりする。

 

よく自分を変えたい、変わりたいというじゃないですか、でもそうしないのって、背後にはいろんな理由があって、変化に対する抵抗が起こってる、現状のままはいやだしわかってるんだけど、動けない、動かせない、といった状態が続く、続いてく、というよりも、実は自分が続けてる。

 

 

と、長くなってきたので、その理由、たとえば自分の場合のとあるケース、みたいなことを次回書きます、絶対書きます! 書きますなるべく近日に!

 

 

というわけで、とりあえずまた☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(きのうの補足的に)人間!生きもの!

 

きのうの補足的にすこし。

 

まず玄米のこと。

わたしの場合は、どのくらい食べていたかはもうずいぶん前のことなのであんまり覚えてないですが、少なくとも半年は日々食べ続けてのやっぱりNG、でした。

 

で、そのあとのテキストで、「食べておなかこわしたら〜」「肌にぶつぶつが出たら〜」と書きましたが、これは玄米を食べて、といってるわけではなくて、何かを食べたときに、もっというと誰かがいいと言っていたから、のような“知識”や“頭”で選んで食べてもからだが……だったら、ということです。

 

 

でも、たとえば、それこそ玄米とかそうだと思いますけど、からだの毒素が排出される過程というもの、いわゆる好転反応とかめんげんとか浄化と呼ばれる現象が、おなかこわすとかぶつぶつが出るというかたちで起こることはありますよね。

で、やがて落ち着いて健康の循環、リズムができてくるという流れが起こるひともいる、ケースもある。

 

とはいえ、実際ほんとにそうした反応なのかどうかも、からだをよくみて感じていたら、やっぱりわかると思うんですよ。

 

 

それからもうひとつ、補足的に書いておきたいなと思ったことが、「動物を食べるかどうか問題」。

きのうもすこし書きましたけど、肉は食べないけど魚は食べる、それから、四つ足は食べないけど二本足は食べる。

 

実はこれ、実際に質問をされて、なんで足の数で食べるか食べないかを決めるんだろう、と不思議だったんです。

 

で、その方がなぜそうされてるのかは聞かなかったのですが、ちょっと気になったので、この四つ足は食べないということについてあとで調べてみたところ、諸説あるみたいで、代表的なところでは、人間との感情的な理解ということのようなのですが、うーん鶏も結構伝わり合うぜ? と思うんですよ。魚もそうだと思うし。

 

さらに、この動物食べるかどうか問題で必ず出てくる、じゃあ植物はどうなのか問題。

植物も、話しかけるとぐんぐん成長したりするし、意識や感情的な反応についての実験証明とかありますもんね。

 

 

いや揚げ足をとりたいわけではないんです、実際この問題、議論するとかほんと不毛だと思うし、

結局、相反する主張が出てくるというのは、そもそもこれって脳、頭から判断される概念、観念、価値観、つまり人間ならではの見解、選択なんですよね。まさに二元性。

 

 

実際の動物をみてみたらわかるけども、動物はかまわず襲うし血したたらせて食うよね相手を。

あんなにかわいいねこちゃんだって、ねずみややもりをすごいいたぶるじゃん、以前住んでいた家で同居してたねこちゃんなんてもうしょっちゅうでしたよ、そのたびに「なんでそんなことすんのやめなよ!」「にゃー!」みたいなやりとりがありましたよね。

 

とにかくそれを残酷とみるのは人間だからだし、もちろん、だから残酷と思ってはいけないとかそういうんじゃないですよ、というかそういう発想がそもそも頭の話で、つまり考えとか論をかぶせてきたら、同調だろうが相対だろうが頭だしもっといったらエゴ/マインドなんですよ、で、それが人間。

 

 

でも、動物同士でも、犬とねこちゃんがすごいなかよしとか、鳥とねこちゃんがすごいなかよしとか、全然別の生きものが育てるとかたくさんあるじゃないですか、それって、もともと備わってる本能、あいつは敵、というそのもっと奥にあるものですよね。

 

 

結局われわれ人間、備わった脳の機能、マインド、感情、それがあるからこそのあれこれであり、

知識とか頭でどうこうした判断をとっぱらったら、動物食べないというのも、根底には全生命の交差するエリアにある何か、だと思うんです。

 

そしてそこには“反”も“禁”もないんですよ。“対”がない。

それは考えた何か、ではないから。

 

 

というわけで、また〜!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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全人類の最大公約数

 

先日、友だちのお店に行った帰りに、ふと思いついて、そこから近いオーガニック商品のお店に寄って、食べものの本をみたりしてたんですけども、置いてあるのは当然マクロビとか、自然療法としての食事についてのものじゃないですか、で、ここ数ヶ月(といっても、まだ3ヶ月くらいか、、と思うとやっぱり時間の感覚って雰囲気ですな)の自分の食生活はその対極といってもいいあり方で、とはいえ、目指してるのはどちらも「健康」であって、結局のところすごいざっくり言ったらそのちがいはルートなんですよね、その背景の考察にしたがって導き出されたルート、といったほうがいいですかね。

 

またこまかく書くと長くなる&ややこしくなるんでいろいろすっ飛ばして結論にいっちゃいますが、

というかわたしの出した結論ですよ、

とりあえず、全人類すべてに合うやり方はない、すんごい煮詰めてったら最大公約数の図のあのまんなかのエリアが肉眼でみえるのかな? くらいのなんかがあるのかもしれないけど、いやむしろ、論としての「すべてに合うやり方はない」がそこに入るのかも? って、またややこしくなってきたね(笑)、とりあえず、瞬間的、期間的にそれはあるかもしれないけど(おお、“時間”が出てきましたね)、普遍的にはないんじゃないかと思うんですよ。

 

 

そのお店にはマクロビ、自然療法食以外に、ネイティブアメリカンの教え的なとこから書かれた食についてのお話がのってる本があって、そういえば自分もネイティブ〜のごはん本持ってたじゃん! とうちに帰ってひさびさにみてみたら、基本穀物、肉、豆なわけですよ。

 

で、ほかに健康としての食を挙げるならアーユルヴェーダの食事法とかすごいじゃないですか、前に書いたかどうかわからないけれども、ホットオレンジジュースにブラックペッパーとか、ホットミルクにギーたっぷりとか、では薬膳はどうかといったら枸杞だのナツメだの緑豆だのよくみつけたね! というメンバーにくわえて、風邪のときには鶏肉とかさ、もう世界の食事の全ジャンルを一同に会したら、なんかもうすごいメンツが勢ぞろいなわけですよ、土とか虫もエントリーされるしさ、どうなのよもう。

 

 

なんでこんなこと考えてるかというと、ひとつはやっぱり、自分に合うものってなんだろうというごく日常の生活のことが発端ですが、リーディングやフラワーエッセンスのご相談のなかで、食べものや食べ方に関する話が結構出てくるんです。

 

たとえば完全なヴィーガンの方、ベジの方、ローの方、玄米食の方、肉を食べる方、肉は食べないけど魚は食べる方、このあたりがジャンル分けとして代表的なところかと思うんですが、もっとこまかくいくと四つ足の肉は食べない、五葷は食べない、乳製品をとらない、でもこれはヴィーガン的な問題ではなく成分の話だったり、もっともっとあるよね、とにかくいろいろなわけですよ。

 

 

で、わたしは玄米がからだに合わないんですね、好き嫌い抜きに、ダイレクトにからだにくるのでだめなんです。

これは、マクロビもされてる整体の先生に実際に相談もして、たしかに合わないのでやめたほうがいいとのことで、それ以来、自然食系のお店に行ったときとかは食べますけど、家では食べない。

 

その話をすると、玄米食の方で、じゃあ自分もやめたほうがいいのか、と不安そうに質問される方がときどきいるんですね。

で、「でも自分は好きだから」とか、「でも自分には合ってるんです」とか、いやいやだったらそれでいいじゃないかと。あなたは好き、あなたは合う、わたしは合わない、って、それぞれ自分の話をしてるだけであり、無理してどちらかに合わせる必要ってあるの? と。それ、からだじゃなくって頭の話だよねと。

もっというと、自分のことでさえなくなってしまうよねと。

 

 

これって、食べもののことだけじゃないですよね。

そして、好き嫌い、合う合わないからも離れて、頭のなかの“正しさ”ではかってたりする。

 

からだを基準に考えると、善とか悪とか正とか誤とかなんの意味ももたなくなる。

というか、なかったことに気づく。

誰がなんといおうとそれ食っておなかこわしたら正も義もなくアウトじゃん。

肌にぶつぶつがあのひとには出なくても自分に出たらそれは自分のなかでなんか起こってるんだよ。

それ、食べものじゃなくても全部そうですよね。

でしょ?

 

 

わたしは海外に行くと、すごいらくなんです。

お通じがさらによくなるし、カンとかもどんどん冴えてく感じ。

それはなぜだろう、と思ったら、

自分とひとはちがうということがとてもはっきりしてるからなんだなと。

ちがってて当然であたりまえで、それで全然OKなんだと。

 

 

想像してみたらさあ、最大公約数の図、数学で習ったポピュラーな例ではAとBという二つの楕円であらわされてますけど、

全人類の人数分の楕円が交差するエリアだよ? どうなのよ、どんくらいなのよ???

 

 

とはいえ、

食事の方法や食べものにどのくらいの公約があるのかは別として、

物質というものに限定せずに全人類の楕円を交差させてできるまんなかのエリア、

そこに入るのは、いったいどんなものなんだろう。

 

って想いを馳せてみたりすると、ちょっと楽しくなりますな(笑)。

 

 

というわけで、9月に入りましたけど、

今月は自分のいちばん好きな月なので、

なんか楽しいことがたくさんあるといいなと思いつつ、

いい感じの今月で☆

 

ではまた〜〜〜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | 食べもののこと | comments(0) | - | - |
9月、新しいサイクルに向けてのメディスン

 

「言葉と何か、3」を書きたいなと思いつつ、

最近、ヤマアラシのトピックをよく目にするので、これはもう間違いなくメディスンだな、と。

 

そんなわけで急ですけどもお伝えしたく、凝縮バージョンのメディスンを。

 

きのうくらいから、わかりやすく変わり目の気配が&ちょうど来週から9月、水星の影響があるかもですけどまた新しいサイクルに入る感があるので、そこに向けてという感じで。

 

 

 

★9月、新しいサイクルに向けてのメディスン★

 

こどものころの何か、いまもこれからも、

この先何があろうともけして消えることのない無垢さ、

純粋さ、誰もおかすことのできない聖域、

そこに確かにある何か。

 

間違いなく知っています、

その頭のなか、次々に生まれくる言葉をすり抜けて、

そこはそれらの言葉とは無縁で、

言葉それ自体を超えていて、

というかほんとうは言葉にはできないもの、

けれど間違いなく結晶されて必ず届くもの、

すぐに、すでに、届いているもの。

 

水のなかに舞い上がる砂がゆっくりと底に戻るのを待つ、

そこに訪れる、いやほんとうは最初からずっとそうだった静けさ、その音、

こどものころ、わたしたちはみんなそれを聴いていたし、

その音を言葉にかえ世界のすべてと話していたんです。

 

それはいまも消えていません。

わからなくてもいいし、探す必要もない。

聴くだけ。それだけ。

 

ただ楽しくて、喜びしかなくて、

きらきらと輝く、輝いている。

 

それはいまもここにあるし、

これからも、何があろうとも、

けして消えることがない。

 

わたしたちは、その成分と同じものでできているから。

 

 

**************************

 

というわけで、just as you are!

残りの夏を、新しいサイクルを、自分を☆

 

 

いい感じの週末を〜☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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言葉と何か、2〜制限、自由、バランス

 

楽しかった先週末の余韻にひたる間もなく、日曜日から少しずつ雨脚強まり月曜から暴風域、昨夜ようやく台風の目に入り、つかの間の静けさ、という感じ(自分の状況を天気にたとえています)。

確か水星逆行中ですよね、仕事の締め切り、延びるどころか早まってるんですけどなんなんすかねこれは。

 

それはさておき、暴風域とはいえ、ここ最近は自宅作業なので、ごはんもいい感じで食べてます。

ちょうど先日、糖質についての栄養学の講座に行って、もっと成分や別の角度からの知識を学んだので、早速食べ方をためしてみたり。

 

これについてはしばらくやってみて、シェアするといいかもと思ったらまた書きたいと思いますが、先日書いた言葉と何か、コミュニケーションのことについて、食べものに関することでも感じたことがあるので、今日はそれを。

 

 

先日、現地色の高いネパール料理屋さんに行ったんですけど、カレーはやっぱり穀物といっしょに食してなおおいしい!わけじゃないですか。

そしてインドでいうミールスやターリーのようなセット、糖質率当然高いでも食べたいに決まってるわけじゃないですか。

あの銀色に輝くお盆の上に並ぶ小さな丸い器たちと彩り、たぶん、あの形状と並びが食欲をかきたてる何かを起こしてると思う。

 

しかし、まさにその数時間前、講座でさんざんからだへの影響の話を聞いたあとだったこともあり、やっぱり穀物抜いてアラカルトでいこうか迷っていると、特に食事制限などはしていない友人が多少イラついたのか、「そんなにストイックにいくなら食べられるものだけ選べば? 」と言ったんです。で、即座にわたしは「全然ストイックじゃないよ、肉だよ、肉を選ぶんだよ? 肉をおなかいっぱい食べるんだよ?」と、なかばムキになってかえしたんです。

(※注:糖質制限食=肉のみではありません、念のため)

 

このときに感じたのが、おたがい、相手の言葉からのイメージで話してるなと。

 

たとえば、その友人に限らず、自分の食実験の話を誰かにすると、反応がだいたい似てるんですよね。

なかでも主に共通しているのが、「それってどうなの?」 というつっこみがうまくいかない感(笑)。

 

これは、あくまで自分のこれまで実際に経験した、計画的なダイエットなどを含め、何か特定の食事法を行っていないひとたちに多くみられる反応ということですけど、

すごいはしょっていうと、肉を食べない、よりも、野菜を食べないとか、よりヘルシーな食事法のほうが、第一印象として懐疑的だったり否定感を持ちやすいんじゃないかと。

もっというと、マクロビとかヴィーガン、という言葉だけで嫌悪感をもつひともいたり。

 

逆に、野菜をほとんど食べず、肉中心、というかジャンク色の強い食べ方については、少なくとも肉否定派よりもあたりがやわらかい印象。

 

これ、さっきも書きましたけど、あくまでも自分の経験ですよ、しかもマクロビとかやってない、あえていうなら普通にごはんを食べてるひとたち。もちろん、肉食に対してかなり辛辣な姿勢をもつひともいるし。

 

 

とにかく、ここではどちらがいいとかわるいとかの是非を問いたいわけではないので、その推察などはしませんけれども、とにかくポイントとなるのは「制限」という言葉、概念から引き起こされる何かだと思うんですよね。

 

 

その理由のひとつが、さっき書いた「それってどうなの?」 というつっこみがうまくいかない感。

 

 

「糖質制限食」。これ自体について知らないひとにとって、まずどこに引っかかるか、というか、やっぱりイメージだと思うんですよね、知っていればそれ自体と直結するけれど、知らない場合は想像するしかない。それも自発的にというより、もう脳のはたらきで自動的に、いってみれば計算が起こるんだと思う。

 

で、その言葉と自分のなかのデータ、つまり記憶とのすり合わせが行われてそこに紐づく感情→< >→アクション(この場合は会話)、という具合に一連の動きが起こる。

 

記憶が瞬時に別の記憶を呼び起こしたり、そこから起こる思考、逡巡といった動きが入ったりもしますが、

感情の次の< >は、そうした記憶からのつながりではなく、その感情や出てきた思考について一度立ち止まる、観察する、われにかえる、もっというと“いまここにとどまる”感じで入れてみたんですけど、

もうほとんどの場合< >はすっ飛ばされていて、ほんとうの意味では会話にはなっていないんですよね、あくまでも自分の私的な記憶からのあれこれをもとにしたイメージによる言葉、行動でしかない。極端な言い方かもしれませんけども、相手の言葉にリアクションしてるわけではなかったりする。

 

って、仕組みとかを書いてるとまたどんどん長くなる&脱線していきそうなのではしょって簡単に書きますと、

 

とにかく「糖質制限食」、糖という栄養素を制限すること、そのなかにはいろんなやり方があり、どれを選ぶかは自分の自由、食べたければなんでも食っていい、特に肉、たまご、チーズを食う、むしろ食う、コーヒー飲んだりするのもいい、しかもバターやココナッツオイルを入れて飲むいわばフレーバーコーヒー、そう、バターはOK、マーガリンは糖質関係なく別の意味でNG! 完全にガチでやるなら制限するものは多々ある、でも糖の量というだけなら食ったらいいんじゃん? お酒? 飲んでいいのよ、でもバランスよ、ただなんでも制限するだけじゃだめなの、バランスが大事なのよ!

 

こんな風に説明すると、みんな、うーん、、、となるんですね(笑)、自由があるので思うようにつっこめないし、バランスが大事って、ほんとに大事、っつーかおのれをバランスするためにやってんだからさ(笑)。

 

そう、結局、「自由」ということにつきると思うんです。

最初は「制限」という概念に身構える、そこに肉野菜問題があり、無意識に自分の、しかも無自覚にある条件やポリシー(まあ、これがエゴの代表ですね)に反するかどうか、というか、反するにちがいない、とその時点ですでに“判断”が起こっている。

 

書いてて思いましたけど、その条件やポリシー、つまり「普段自分がしていること」もっといえば「正しいと思っていること、守ってるもの」を揺るがされるかもしれない、ということのほうに、強い反応が起こるのかもしれない。

 

そして「バランス」というワードも実は強い。

実際、「自由」というものって、結構抵抗をもつんですよね、自主制限たくさんしてるし、他人にも制限を求める、まさにポリシーに反するかどうか。

そこでバランスというものが出てくる、文字通りバランスして両方立ててくれたりする。

 

 

ほんとは前回の続きで言語について書こうと思ってたんですけど、食べものと言語って、結構相反する強い反応が起こりやすいトピックな気がするんです。

それって、深くいくと、生命の危機に関連してるといってもいい。

特に食べものは、愛情というものにとても深くかかわってる。

 

けど、それもまたイメージに還元されうるんじゃないかなと、

脳の仕組みといった構造的なことはあるにしても、そんなふうに思います。

 

うーん、でも一概にはいえないなあ、いろんなものが多面的というか多層というか多次元的にかかわってるから。

 

これは、さっきの自由というものと、バランスというものにも通じる、

地球とか三次元に生きる人間ならではの話ですな。

「からだ」なんですよね。

 

 

 

というわけで、また長くなっちゃいましたが、

とりあえず今日はこんな感じで。

 

制限については、もっともっとありますけども、なんとなくポイントをつかんで気づきに役立てていただければ幸いです。

 

東京、また夏が戻ってきた感じでうれしいですけど、

熱中症かなり注意な気配あからさまなので、

気をつけつつ。。

 

あーそうね、わたし毎夏ポカリ必携なんですけど、糖抜きポカリあるといいなあ。

 

ではまた☆

 

あ、悩んで選んだ\糖質バンザイ/ネパールメシのっけときます。

真ん中の岩のようなものはディードというそばがきみたいなもの、真ん中の液体はギーです。

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | - | comments(0) | - | - |
言葉と何か、

 

今月前半、自分基準ですけどかなり仕事をしていてブログ更新できず、チェックしてくださってる方々、すみません。

というか、今月書くのはじめてなんだ、うわーびっくり。。

 

ひさしぶりなのに早速食べものの話からいきますけど、

普段は2食なのに、出かける前にパンを、それも食べとかないと動けなくなったらいやだから、みたいな理由で、味わうよりいれとく、とか、やはり疲れもあって、とにかくおなかがいっぱいになればいいみたいな食べ方になるんですよね、自分は。

なので、忙しいとむしろ体重が増加傾向にある気がします。

 

 

書いてて思いましたけど、なんか食べ方がサバイバルっぽい、でも実際に肉体としてのサバイブではないので太るのかも。つかってるのからだよりも脳だもんね。

 

 

自分がとりいれてる糖質制限って、ただ炭水化物や糖質を減らすというより、高たんぱく質をたくさんとりましょうという方法、

で、食のこととは別件で遺伝子や神経伝達物質や分泌物のことを少しずつ勉強してるんですが、遺伝子って実のところたんぱく質ですよね、で、海外のサイトをみてると当然ながらproteinと表記されてる。

 

プロテインという言葉に置き換わると、すぐに結びつくのがわたしの場合はスポーツ関連、筋肉をより鍛える、みたいなイメージ。

だから、自分にはあんまり関係ないように思ってたんですよね。なんか、普通の生活をしてるひとには特別視する必要のない物質という感じで。

 

ところが、そんなことは全然なく、まだ全然勉強中&用語覚えるだけで……なので、たいしたことも言えないんですけど、とにかく自分のからだというものの主な成分なんだと。

たぶん学校で習ってたと思うんですけど、もう全然忘れてましたよね、すいません、という感じです。

 

 

プロテインといえば、で、もうひとつ思い出したこと。

 

ロスで滞在していたホテルの住人のひとり、ブラックとホワイトのハーフかもしくはプエルトリカンかなと思うんですけど、キッチンでごはんをつくってたら、ものすごい数のたまごを彼がゆでてたんですよね、で、こんなにどうするんだろう、と思っていたら、察したように「驚いたか? これはプロテインだ、もちろん一度に全部食べるわけじゃないぜ、俺はクレイジーじゃない」と言って、たまごいっぱいの大きなボウルを抱えて颯爽と去っていったんです。

 

彼はほとんど誰とも話さず、黙々といつもちょっと偏った感じのものをつくっていて、いつだったかスムージーを大量につくっていたときに、思い切って「あなたはアスリートなの?」と聞いてみると、ものっすごい怪訝そうな顔をされて(笑)、「アスリート? お前何言ってんだよ、全然そんなんじゃない」とのことで、そのあとすごい早口でいろいろ言ってたんですけどよくわからず、最後に「まあ、気にするな」と言って去っていきました(笑)。

 

いま思うと、間違いなく彼は糖質をおさえた高たんぱく質食をとっていたわけで、ああいまだったらいろいろ聞きたいことあったのになーと。

 

 

そのホテルに滞在していた日本人は、クラスメイトとほかに長期滞在、というかほぼ住んでる男性たちが4名くらい(年齢ばらばら)、それにアメリカ、ハワイ、アフリカ、そのほかどこ出身か聞いてないひともたくさんいるんですけど、ほぼ住んでるひとたちが多く、年齢もバックグラウンドもそれぞれで楽しかったです。というか、すごいキャラの立ったひとたちばっかり(笑)。

 

食事は共同キッチンがあるので、行くと誰かがいて、どのスーパーが安いかとか、それはどこで売ってるのかとか情報交換やおかず交換したり、楽しかったですね。

 

日本人のひとたち以外は誰も日本語を話すひとがいなかったので英語で会話、というか、どの国でもそれは同じですよね。

 

 

よく自分は英語ができないから、というひとが多いですけど、それってちょっとちがうなと思う。

できないんじゃなくて、つかわないだけだと思うんです。

 

わたしは全然ネイティブじゃないし、勉強という感じでしっかりどこかで学んだこともないし、独学といえるほどでもない自習による実践とフィーリングスピーキングです。

でも、声をかける、行きたいとこはひとりでどんどん行く、どうしても好奇心が勝ってしまう。

 

話してるとわかってくるし覚える、わからないことは、知りたかったらわかるように何度も聞く、それでもわからなかったらわからないことを伝える。で、ごめんね、って言う。

するとあやまることはないよって言ってくれるよね、だいだいのひとは。

 

って書いてみて思ったんですけど、こういうコミュニケイトのやり方、日本ではあんまりできてないな、って。

それはなぜなのか。

 

 

と、長くなったので、この言葉とコミュニケーションのこと、また書こうと思います。

いろいろ思うことありますよね。

 

 

というわけで、ひとまずまた。

明日あさっては仕事なしで、午後はちょっとした勉強、夜はひさびさの友人らと連日晩メシの会の予定で、

楽しんでこようと思います。

 

 

東京はずっとくもり雨&湿気がひどくて別の生きものになりそうな感じですが、

この圧にもっていかれませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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食べもの、細胞、直感/直観と、8月のふんわりメディスン

 

ちょっと間が空きましたけど、今月は編集仕事をメインに、リーディング、エッセンス関連のほか、いろんなひととの再会、荷物整理、きのうは友人のお墓まいりなど、どんな月だったかと振り返ってみるとなんでしょうね、そうだなやっぱり再び感の強い月でしたかねいろんな意味で。

 

積極的に知ろうと思わなかったことを何気なく調べてみたらあっという間にはまってしまって、なんかずいぶん若いときの、あの根拠なき自信からくる行動力や情熱みたいなものを思い出したり、またちょっと大々的な荷物整理をし出したのもそうだと思うし、ごぶさたしてたひとと会って思い出すこと、いまの自分とこれからを見直してみたりと、気づくことが多かったです。

 

 

こういうことも、結構食べものと関連してたりするのかもな、と、こじつけるわけではないんですけど、やっぱりからだの実際の動き、感情、思考のパターンと栄養の成分、ホルモンバランス、つまり神経伝達物質、遺伝子というのはもう物理的に関連してるじゃないですか、そのからだの仕組みのすごさというのを自分を実験台にしつつ、勉強したこと、学んでること、つまり知識とあわせて検証してみると、その関連が実感できるわけで、やっぱり食べものってすげえな、と。

 

当然のことですけど、思考パターンが変われば行動が変わるし、みえてくる景色、世界は変わらざるを得ない。

 

 

そもそも、食べものって結局、ダイレクトにからだにいくわけじゃないですか、それがそのまま自分の一部になる、自分をつくってるといってもいい。

 

口に入って食道通ってそれぞれの成分が各臓器に向かって、その間にも別の何かとくっついたり離れたりほかのものになったりさらに振り分けられたりして外に出ていくものもあってという結構複雑なプロセスでまわっていて、

パーフェクトな感じでそれが行われればいいけれど、成分によっては血管詰まらせたりしかるべき分泌物を止めることになったり逆に出しすぎてしまったり、それは物理的な肉体だけでなく精神的にも響いてくるわけで、めちゃめちゃ自分全体にかかってくるでしょ、

そのくらいやっぱり自分なんですよね、食べものによって常に常につくられ続けてる自分。

 

そう思えば自分に何入れてくか、というか、自分を何でつくっていこうか、で、なんでこれが食べたいんだろうとか、からだ的にはとっくにお休みモードのなかいきなりがつんとメシ投下したくなる衝動それはなぜ、とかなんかいろいろみえてくるじゃん、と。

 

 

以前、何かで読んだか誰かから聞いたのか忘れてしまったんですけど、生まれてはじめて食べるものとか、もう何年も食べていないものを食べると、細胞が活性するという話。

 

学術的なこと、専門的なことは調べていないので恐縮ですけど、自分という枠でとらえたらそりゃそうだよね、って。

海外とかわかりやすいと思いますけど、はじめての土地に立ったら、感覚の変化、絶対起こってるのわかるもんね。

 

 

実際、食べものを自覚的に、というか、フードチェックしないまでも、からだの感覚をよくみてみると、その食べものをほんとに欲しているのか、それとも脳、つまりストレスや自分では検証されているわけではない知識だけで選んでいるのか、少なくともそれはわかると思うんです。

で、実際食べてみたあとの自分の感覚の変化もやり過ごさずに感じてみたら、合ってるのかどうかがよりわかってくる。

 

そうして自分の感覚というものに意識的になってみると、食べものだけじゃなく、身の回りにあるもの、着るものもそうだし、仕事や人間関係も間違いなく見え方が変わってくるし、もっといえば見方が変わってくる、余計な何かをはさまないで直感/直観的になっていくと思うんです。

 

 

なんというか、やっぱり、自分にド正直になることだと思うんです。

頭で無理やり押し切ったり押し込めたり無視したりしないで、ほんとのとこどうなのよ? って、自分見据えてく感じ。

 

 

って、こんなこと書いてますけど、いやいや自分もまだまだこわいと感じてることもあるし、できたら避けたいことも多々ありますよ、

でも、なんか、避けてくことにむしろ疲れてきたかな、と。道はよけずに通れたほうが実はらくなんじゃないか、と。

なんか、そんなふうになってきてますね。

 

とはいえ、別に体当たりする必要なんてないし、ぶっ壊してくみたいなやり方じゃなく、もっとあると思うんですよね行き方。

で、その方法、実はわりと身近にいろいろあるかもよ? って。

 

 

ちなみに糖質制限食、まだ続けてますが、先週はおいしいパンをたくさん入手してしまったのでパン祭りもやりましたし、外食とかお弁当日が結構あったので、ハンバーガーもハンバーグも米もパスタも入れましたし、アイスも食ってますけど何か? って感じです☆

 

 

というわけで、また。

8月〜は、なんとなくですけど、ド正直に、徹底的に自分に対し自覚的にいらない方向きっちり捨ててけば、かなりいい感じの追い風がもってってくれんじゃね? 感を感じてます。

↑これ8月のふんわりメディスンです。

 

 

ではでは、熱中症に気をつけつつ、

いい感じの毎日を〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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