texted a ANANYA

メディスンカード・リーディング
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先月くらいからちょっとずつ生活のパターンを切り替えていって、先月末から新しい仕事のスターターという感じでかなり詰まっていて、生活のペースが結構変わってきて、時間の配分がずいぶん整理されてきたもののまだ身体も頭も慣れていなくて、最近ようやくちょっと落ち着いてきたかな、という感じでひさびさに書いてます。

 

自分がそんなふうに移行中だとやはり似た感じのひとが集まってくるのか、先月末で会社をやめて来月の3月くらいまで中国〜インド〜インドネシア〜ベトナムあたりを放浪するという友人と先日ぎりっぎりのタイミングでごはんを食べたんですけど、

実際、そういう感じの旅って、20代のころはよくあったけれども、そのころってインプットというか、どちらかといえばいろんなものを吸収してく感じがするけど、この年に出る旅って、むしろ捨ててく、削いでいくって感じがするんですよね、

これはいるいらないって確かめる、なんというか若いときが粘土よる自分像制作なら、壮年は木から掘り出すみたいな。

 

まあ、旅はいつでも楽しいですけどもね。

 

引っ越しもそうですけど、やっぱり移動するとエネルギーが相当動くし、いろんなタイミングが重なればその分増幅もする、もちろん自分の意図したものとはちがうこともあるし、むしろ逆に作用することだってある。

でも、それだって動かしてみなければわからない。

 

自分のことでいえば、今年のロス行き、すごく大きな経験だったけれども、じゃあ勉強したことをそのままやるかといえば、そうではない、むしろそこでみたもの、いわゆる知識として教わったことではなくて自ら知ったことのほうで少なくともわたしは動いていってる。

 

じゃあそれほど大きな移動距離がないとだめなのか、といえば全然そんなことはなくて、ほんとに部屋の配置を変えるだけでも、なんというか“隙間”ができたりする。

 

もちろん完全に直結、即はしないかもしれない、でもそこに通ずる何か、実際、わらしべ長者的につながってくことがほとんどだったりする気がするんですけど、だいたいにおいてひとって、わら1本見せられたら全然ちがうじゃん!やっぱこんなんじゃだめなんだよ! って“ジャッジ”して決めつけてしまう、そこで意味を固定してしまうんですよね、

でもさ、いやいやわらしべ、次どういくんだろうと思うとかなり楽しいし後々すげえひろがりあったりするぜ逆に、って思うんですよ。

 

 

結局のところ、自分のみたいように、自分の動かしたいようにことが運ばれなければアウト、でいると、そこで世界のひろさも固定されてしまうんですよね。

 

いま思い出しましたけど、まだ10代のときのバイト先の社長との面談で、目の前にガラスのコップを置かれて、「これ何に見える?」って聞かれたときに、コップだけど、花瓶にしてもいいかもですねみたいな返事をしたんですよね、そしたらわたし採用されたんですけど(笑)、社長いわく、これがコップにしかみえないなら、そのひとは世界をそれ以外の目でみることはできないんだよみたいなことを言っていて、まだ若きわたしはたいへん感銘を受けたものでした(笑)。

 

でも、いま思えば、そういうこと言う大人に会っておけてよかったな、って思います。

 

 

というわけで、特に何書こうと決めずに書いてみたのですが、わらをただわらとしてみるな、と。わらとしてみたらわらとして終わるんだと。

 

まあそんな感じで(笑)、

11月ももうすぐ後半ですが、いい感じで毎日を過ごしていきたいですな。

 

ではまた〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
who did you vote for?

 

毎日雨続きで部屋の湿度がもうやばい、投票の封筒も券もなんだかやわらかくなってしまってましたが投票用紙はすべすべしてましたね、やっぱり環境によってそんなとこにもちがいが出るよねーとこれは素材のちがいだろうと思いますので完全なるこじつけなんですけれども、とりあえず前回の選挙より投票所、ひとがいましたうちの地区、時間帯にもよるのかもですが、とはいえこの天候にもかかわらず。

 

 

さて前回、10月のメディスン出しましたけど、友人、知人からは離婚と結婚、退職などの話を立て続けに聞いたり、

リーディングのセッションを受けてくださった方は引っ越しややはり転職、病気治癒に向けての計画など、

そして自分は生活&仕事の態勢の抜本的な見直しのため、結構長くやらせていただいていたお仕事を今回で降りる決意&新しい仕事の追加等、なんかそんな動きになってます。

 

それにたぶんともなってだと思いますが、すごい深い過去の何かが出てきてるな、と。

 

これまで、まあいろいろワークやほかの方からセッション受けたりなんだかんだやってきたけども顔を出してくれそでくれない、というか、まあ直面するのがほんとに嫌なんでしょうね、というかものっすごい恐怖なんでしょうね自分、

 

しかしその片鱗が海面からチラリ見えるサメなのかクジラなのかそれともまったく別のものなのか生き物でさえないのかはまだわかりませんけど、以前よりもチラ見せ度が上がってきてる感がましていて、

もう逃さねえぞとトリシューラ片手に仁王立つ自分と、

やっぱ無理、こんなん見つけちゃったらいろんなものがこわれてしまう〜〜と怯える自分、

それをとりなす自分、何か策を練ろうとする自分、ただおろおろする自分、

で、それら全自分を見ている自分、、という具合にもう完全なる自分曼荼羅というか、自分of自分の縮図、それも動く、つまり万華鏡、みたいな、ああいわゆるあのむかしの六道絵とかって、本来ああした地獄という場があるわけじゃなく腸環境ならぬ己の内環境の分類なんじゃね? とか思ってみたり、って書くとなんかすごいっぽいですけども、程度の差はあれ、人間全員に、日常的に起こってることですよね、そのキャラとか感情がその都度変わったりして、つまりやっぱり万華鏡!

 

 

と、毎度趣旨がずれていってるかもですが、

まあ、ほんとに、そのたくさんの自分のなかの誰の声にしたがってくのか、それによって、目の前の風景が変わっていくんですよねー。

 

誰についていくか、次の角を曲がるのか、

そして先へと続く道が変わってく。

同時に、やっぱり恒常性の問題や、どうしてもそこにとどまっていたい自分というものの頑固さ、このゆるぎなさを転換すると決めたら、ちょっとどうなっちゃうの??

と希望やわくわく感よりも恐怖が先行してしまうんでしょうな、それはとてもよくわかる。

 

とはいえ、

また来週から感覚が結構変わっていくと思うし、そんなふうになんらかの応援みたいなものって、絶対にある。実は結構ある。

 

それをみつけるのも結局のところ、どの話に乗っかってくのか、というか、それってほんとにそうなの? と。

見極めていきたいものですね。

 

 

というわけで、なんか無理やりっぽく終わりますけれどもまた!

選挙行かれてない方、行ってほしいな、と思います。

関係なくないんですよね、ちゃんとリンクしてる。

エネルギーです。

 

 

 

 

 

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10月のメディスン

 

どうもです。

10月のメディスン出してみました。以下。

 

 

★10月のメディスン★

 

 

キーワードは支度、準備、下ごしらえ。

必要な作業を実際にはじめる、手を動かす。

 

イメージとしては、休耕地の稼働に向けての下地づくり。

で、まずは眺めてみる、現場、現状を把握する、みたいな感じ。

 

 

休耕地、というと、定義がちょっとずれてしまうかもですが、

いまは育ててない土地、空けてある土地、植えるつもりだけどなんらかの理由で植えられない、植えてない、でも手放さない手放せない土地、

あるいはいつかなんか植えたいなーと思いつつ、とにかくキープしてる土地、みたいなイメージ。

 

で、もしかしたら、本来こっちが種を撒かれ、育て咲かせるべくあった土地なのかもしれない、

あるいはそろそろこっちを稼働させるときなのかもしれない、そんな雰囲気なのかも。

 

さらにいうと、そうであろうとなかろうと、もしかしたらはずれているかもしれないけれども、

こっちに種をまいてみたかった、ここで育つ何かをみてみたかった、とずっと、もしくはぼんやりとでも思っていた土地、

頭の片隅なのかこころの奥なのか、とにかくあり続けていた土地、

そこを思い切ってつかってみるための準備、をするときなんじゃないかと。

 

 

ひとによって、みんなそれぞれ立ち位置やこれまでの道程のようなものはちがうから、

そのひとにとっての準備の仕方、プロセスもちがうし、ちがって当然ですよね。

 

だからひととくらべることなく、ひとの目を気にする必要もなく、

というか自分とその土地との関係、

気にするのはこっちだと。

 

頭とこころ、はたらかせるならその土地どうつかうのかと、

己と土地、とりあえずいまどうなってんのか、まわりの誰かや何かじゃなく、

そっちをみないとはじまんねえじゃんよと。

 

とりあえずそれをみてたら、どんな準備が必要かって、考えるまでもなく自然に発生すると思うんです。

まさにその種のなかにすべてがあり、そこから発芽ってすでにたぶんはじまってる。

 

 

その土壌を知ること。

つまりまずは土地の様子はどんなか、土OKか、雑草抜くとこからか、それはそのひとの感覚と土地の状態で変わってくるし、

いつかと思いながら、とりあえず毎日土をならしているひとと、なんにもしてなかったひとではちがうじゃないですか。

 

そこをくらべたってしょうがない、いまいるところからはじめるしかないし、

逆にいえばいつだって、いまいるところからはじめられるんだもん。

実際、雑草生やしたままやってく農法だってあるわけじゃん。

 

たとえば、はじめたいのはやまやまだけど何植えたらいいかわからないとか、どう植えればいいかわからない、

というのも自分じゃん、自分と土地の関係じゃん、だから一回眺めてみる、ちゃんとみてみる、自分と土地を、

その種の感触をたしかめながら。

 

 

とにかく眺めてみる。

ちゃんと、自分と土地、そして種をみてみる。

その“考え”“思い”はほんとうなのか、その理由はなんなのか。

 

雑草生やかして作業遅らせてんのはもしかすると自分かもしれない、

実は土地をつかうのが、種をまくのがこわいのかもしれない、

あるいは、その土地、ほんとは必要ないのかもしれない、

それに気づきたくないから、

実は動かさなくて済むようにしてるだけなのかもしれない。

 

 

だからまあ、しのごの言わずに、とりあえずみてみようよと。

“みる”ということがきびしかったり面倒だったりするのかもだけど、

でも結局は、自分がらくに、スムーズに暮らすための調査なんですよね、それ。

 

 

とにもかくにも The POWER of NOW!!!

 

 

そう、いろいろ書いてますけど、

種も土地も、ちゃんと最初っから持ってる。

蒔いて育てられる分の種を全員携えて生まれてきてる。

 

というか、自分が種そのものだと思うんですよね。

 

 

というわけで、また〜。

素敵な週末を〜〜〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | メディスン | comments(0) | - | - |
重箱の隅、母の遺品・3

 

片づけがひと段落して、“空いたスペース”と“自覚的に残しているもの”にフォーカスしてみると、気づきがどんどん起きてきて、あああれってそういうことか、これってそうだったんだ等々、沈んでいたものが水面に続々顔を出してきた感じ、なのでお昼休憩利用してやっぱり忘れないうちに書いてしまいます。

 

とりあえず、

裁縫用品を整理するなかで、自分が無意識に母から引き継いできたものについて書いているわけですけれども、彼女が亡くなった直後は形見分けなどもあったし、家族で結構大々的な整理はしたんですよね、でも当時あったものを思い返してみると、彼女がまだ生きていたにしろ、使い切れないだろうと思うものが、裁縫用品以外にもあったよなと。

 

自分のことをみてみると、どこに住んでいても感じていたのは、常に部屋がせまい、というか、収納スペースが足りないこと。

ひとりで住んでいても、ひとりじゃなくても、とにかく自分のものがきれいに納まらない、なにかしらはみ出してしまう。

 

で、その要因はいくつかあるにしろ、いちばんの理由は自分の理想とする家に住むことを含め、そうした生活、ストレスなく暮らせる状況をつくることができていないからだと思っていたんです。

さらにいえば、ではそれって結局、どんな感じなのか、というか、ヴィジョンとしてしっかりイメージしたこともなかった。

そして、それにもちゃんと原因があるわけなんですよ。

 

このヴィジョンについては、とりあえずちょっと置いておきますが、

とにかく今回、その考えは少なくとも、収納問題解決への完全なるアンサーではなかったと気づいた。これは、自分にとってはものすごい大きなことで、価値観の転倒、といったらちょっとちがってくるかもですけど、確実に自分の住居観はもちろん、働きとか生活に対する考え方の根本を揺るがすような気づきなんですよマジに(笑)!

 

というか、これはほんとに根深い問題で、いろんなことにつながってるんですね。

まず、使い切れないほどの量をストックしてしまうことについて考えてみると、そこから見えるのは、やっぱり不足の意識だと思うんです。

 

たしかに自分が小さいころ、ものには限りがあり、目の前にあるうちに手に入れておかなければならないこと、いつ必要なものがなくなるかわからないことなど、戦時中に母が体験したことから導き出された持論を、繰り返し聞かされていた。

 

自分ではそんな自覚はなかったものの、貝塚のように発見された空き瓶はさすがにいまは整理されてますけども、そこかしこに「つかうつもり」という名目のもとにストックされたものがひっそりと、ではなく、結構な主張をもって鎮座してたわけです。

 

これは物理的なものとしてとってもわかりやすく反映されてるけれども、ことの起こりは彼女の持論、別の言い方をすれば信念、いわゆるビリーフなんですね。それが世界をつくってる。

 

 

ボタンや糸をひとつひとつ眺めながら、どんどん気づきが起こっていって、ああ自分はいま、自分のものではなくて、母ののこしたものを整理しているんだなあと、今回はじめて自覚したんです。

いつの間にか、それらは自然と自分の生活にスライドして意識するまでもなく自分のものになっていたけれども、実はそうではなかったんだと。

 

 

メディスンを書くときに、よく「自分以外の誰かや何かの」というフレーズを出しますけど、まさにこれなんですね。

今回の場合は物理的なものを通して見えてきたけれど、逆に言えば、そういった“物理的な現実”が展開したその起こりはなんだったのか。

考え方、ものの見方、捉え方、ほんとに条件反射、反応でしかない感情の発生や行動、態度、言動に至るまで、いつの間にか自分のそれになっているけれど、ほんとに最初っから自分発だった? という問いかけ。

 

これまで自分でさんざん書いておきながらこれですからね、、そしてこれもまったくもってエゴ/マインドなんですよね、どれほどもっともらしくかつ自然にみえても。。

 

 

と、

母の裁縫用具を整理することからみえてきたいろんなこと、不足の意識についてなど、もっと複雑にまだまだいろんな信念や感情が乗っかっていて、母の幼少期の体験とその後や、父との関係等々、いろんなものがからんでるんですね。さらに、別の性質にもつながったり重なったりしていく。

で、終わりがないので、とりあえず今回は、いろいろはしょってわかりやすい部分を書いてみました。

 

そう、ここで終わりではないんですね、

言ってみれば、ここまではいろんなワークをやったり、なんらかのセッションを受けたり本を読んだり、内観に慣れてくると見えやすくなってくる段階。

 

もちろん、それはすごい大事で大きなことだし、かなり核心へと続く扉ではある。

でも話が変わってしまうけど、特にセルフワークをされてる方で途中で行き詰まったりするのって、実はこのあとからだったりする。

 

 

と、セルフワークのやり方については、特にフラワーエッセンスの方などからときどきご質問いただくので書いてみたいのですが、別の方向に行ってしまうのでまた別の機会にしますけれども、

方向という意味でいえば、

自分がこれまで見てきた景色、明日も見続ける風景、さらに向かっていく、向かおうとしている場所、

それって、ほんとにそこか??  というのはもう一回、立ち止まってみてみるといいんじゃないですかね。

 

というか、それの繰り返しが実は人生、というものだったり、とちょっといいこと言ってる風で適当に書いてるんですけど(笑)、

この感覚、すごいメディスンぽいんで、近々また出そうと思ってます。

 

というわけで、また。

季節楽しみつつ、やっぱり片づけ、整理、いまベストと思います!

 

 

 

ではでは、

Have a wonderful time〜〜!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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重箱の隅、母の遺品・2

 

とりあえず発掘&廃棄作業がひと段落して、まだ掘りたいところはあるのですが、家具の移動やひさびさに金槌ぶん回して棚つくったりしてるうちに仕事がまた詰まってきつつ、でも次のプラン&勉強もしつつ、みたいな感じであっという間に10月に入り、近日中、ではなくなってしまいましたけど、いい加減、前回の続きを書いてみます。

 

まず、タイトルの「母の遺品」。

今回、主に整理したのは裁縫用品だったのですが、自分がこどものころから見ていたし、いっしょに何かつくるときにつかったりもしたし、学校で家庭科の授業がはじまれば借りたりもしていたので、特に母が使っていたもの、という意識や自覚もなくそのまま自然に自分にスライドしてきたものたちだったんですね。

 

それらはこれまでも何度か整理してはいたものの、母はもともと洋裁の学校に通っていて、縫製の仕事をしたりもしていたので、まあかなりいろんなものがこまかくあって、というか、死んだ直後に整理したときには、布を含めたらもう膨大な量で、彼女が逝ってから30年ちょっと経つのですが、自分の代でも絶対に使い切れないほどの糸やボタン類が残っていたんです。

 

いままでずっと、引っ越せば何の疑問もなくダンボールに詰めては次の家に運び、押入れだの棚だのに収納し、を繰り返してきて、そして今回、なぜいまなのかはわかりませんが、それこそボタンひとつひとつ手にとって、いる、いらない、にわけてみたのです。

 

なかには、買った服についていた補修用の小さな布とボタンの組み合わせがあって、ああこれあの服のやつだ、と、もはやいつ手放したのかさえ覚えていない服のそれだったり、外されたボタンから服、その服にまつわる記憶、そのときのいくつかのシーンや感情を思い出したり等々、そこに宿るストーリーがどんどん思い出されてくるんですよね。

 

それは、あえて意識しなければあたりまえに、何の疑問もなく常に起こっていることで、ふと思い出してはまた忘れ、それこそ次の家に移動するように、また頭のどこかにしまわれて、もしかするともう二度と思い出すことはないかもしれないけれど、脳のなかに残り続けてはいく。そう、意図しようがしまいが、残っていくんです。

 

さらにその記憶がまた無自覚、無意識に、その後のあれこれに実は関わり続けてもいたりする。

思い出さなくても、そうとはわからなくても。

 

 

糸やボタンや布をひとつひとつ整理しながら思ったこと思い出したことは、ほんとにいくつもあるんですけど、そのひとつとして、彼女はほんとうにたくさんのものをストックしていたなということ。

 

裁縫用品に限らず、たとえば包装紙やリボン、文房具、それから食器、寝具等々、思い返してみると、自分がはじめて実家を出たときの荷物の量、尋常じゃなかったんですよね、いまならよくわかるけれども、布団3組くらいあったと思うし(笑)、当時借りたアパートの部屋なんて、完全にキャパオーバーですよ、なんでうちの家族は誰もそれについて何も思わなかったんだろう…。

 

そして、このブログをPCでご覧になってる方は、右のほうにレコメン本のコーナーがありますが、かなり以前に紹介しましたけどもカレン・キングストンの本、あれを最初に読んで、もう7ページ目くらいで部屋を片づけはじめたときのこと。

 

ここにも書いたかもですが、これだけの瓶をいったいどうしようと思っていたのか、、というくらいたくさんのジャムだのピクルスだのの空き瓶が棚から出てきたとき、自分はだめなのかもしれない…と、かなりショックを受けたわけですが(笑)、思えばこの余分にとっておくという性質、母親から引き継いできたものなんですよね。

 

まったく無意識に、そうすることがあまりにもあたりまえで、むしろ普通、自然なことだと思ってやってるから、それが尋常じゃないと気づかない、というか疑問にも思わない。

なんか多いなあとか入りきらないなあと思ったら、減らすよりそれを保管するスペースを拡張する方向で考えるし、また次の家に普通に運んでしまうんですな。

 

 

このことに気づいたとき、なんというか、自分のいろんなことが結構ぱしっ、とつながったんですよね。

それは、物理的なものだけではなくて、思考のパターンから自分のものごとに対する反応、性質もそうだし、

いわゆる豊かさというものにも、すごいつながってるなと思ったんです。

 

 

と、なんかもったいつけてる風ですまん、ですが、

また長くなってきたので、続きは後日に。

ちょっとねー今週もめちゃいそがしいんですが、なるべく次回は早めに書きます、気づいたこと思ったこと、すごいあるから自分で忘れないためにも。。

 

 

というわけで連休まっただなかですけれども、

お休みの方、すんごい素敵気候ですし、ぜひ行楽など楽しんでくださいませ(でも、荷物の整理もいいかもね笑)。

お仕事の方、わたしも仕事なんで、ときどき香ってくる金木犀の匂いに癒されながらやっていきましょう!

 

 

ではではまた〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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重箱の隅、母の遺品・1

 

ここのところ毎日、仕事以外の時間はずっと部屋の整理をしていて、とりあえずこれが収束するまでほかのことはできないというか止まらない、堰を切ったようにといいますがそんな感じかも、そのくらい仕事のきりがついたらもう延々とやってる、いやむしろ整理の合間に仕事してるといってもいい、というくらいの勢いなんですけども、こう書くとなんかすごい集中力あるっぽくみえたりするのかもですが、結局のところ時間をはじめあらゆる配分とか割合とか適度適量といったものがよくわかってないだけなのだと実感します、その出てくるいろんなものを眺めてみるととてもよくわかる。

 

ときどきめちゃめちゃいそがし〜、となるのも、まあほんとにそういうときもあるんですけど、それにしてもやっぱり配分もっとできるはずなんだよね、絶対。

 

 

とはいえ、こうしたことも、とどのつまりはなんらかの要因があって、たとえば部屋の片づけが極端にできないというご相談もよくありますけども、その他もろもろの計画が立てられないとかなぜか一歩踏み出せない、先延ばしにしたいわけじゃなくてもなってしまうといった、「わかってるしやりたいんだけれどもできない」って、そうなる理由というのがあるんですよね、だからどれだけ言われようと自分を責めようとも、できないもんはできないんだと。

 

なんてことも、整理しながら気づくこと多々で、よく部屋と頭のなかはいっしょといいますけど、ほんとだね(半笑い)という感じであります。

 

 

さらに自分、「最近また大々的な片づけを〜」って結構な割合で言ってる気がするんですけど、いままでのそれは目に見える部分をこう、ブルでざっくり掘ってかっさらってく感じ、あるいはもう廃棄は決まってるけど実際に動かせてなかったものを集めてグッバイする感じだったのが、今回は完全に重箱の隅をつつく感じ、素敵な見出し的に言えば、「隠れていた部分に光を当てる!」がテーマなのです! 

 

だから時間がかかってるんですな、ある意味発掘したものに付着した泥をハケで落としてく作業にも近く、結構しんどい。

 

 

で、重箱を開きその隅に近づくたびに、気づきはもちろんのこと、面白かったのが、腰を据えて整理をはじめてから2、3日、やたらと怒りが出てきたんですよね。

 

最初にカセットテープの整理をはじめたんですけど、そのテープにまつわる記憶をいろいろ思い出したりというのはまああるじゃないですか、でもそれとはとりあえず直結はしていないことで思い出したできごととか、つい最近のことに対してとか、その対象は無作為なんですけど結構強い怒りが出てきて、そんなときはそこから離れて自分をみるわけですが、なんか自分すごい怒ってるなあと、実はいろいろがまんしてたんだなあと。

できごとそれ自体、というよりも、感情のつながりから呼び起こされる記憶、みたいな感じで、いろいろ出てくるんですね。

 

 

ものを動かすって、ほんとに物理的にエネルギーを動かすことなんですよね、それにともなって、当然だけれどもその周囲のエネルギーも動く、変わる。

特にずっと動かしてないものって、やっぱり理由があるし、それはさまざまですけど、動かすにはそれだけパワーが必要な気がして、ますます動きを止めるべく先送りにしたりする。

 

よく自分を変えたい、変わりたいというじゃないですか、でもそうしないのって、背後にはいろんな理由があって、変化に対する抵抗が起こってる、現状のままはいやだしわかってるんだけど、動けない、動かせない、といった状態が続く、続いてく、というよりも、実は自分が続けてる。

 

 

と、長くなってきたので、その理由、たとえば自分の場合のとあるケース、みたいなことを次回書きます、絶対書きます! 書きますなるべく近日に!

 

 

というわけで、とりあえずまた☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(きのうの補足的に)人間!生きもの!

 

きのうの補足的にすこし。

 

まず玄米のこと。

わたしの場合は、どのくらい食べていたかはもうずいぶん前のことなのであんまり覚えてないですが、少なくとも半年は日々食べ続けてのやっぱりNG、でした。

 

で、そのあとのテキストで、「食べておなかこわしたら〜」「肌にぶつぶつが出たら〜」と書きましたが、これは玄米を食べて、といってるわけではなくて、何かを食べたときに、もっというと誰かがいいと言っていたから、のような“知識”や“頭”で選んで食べてもからだが……だったら、ということです。

 

 

でも、たとえば、それこそ玄米とかそうだと思いますけど、からだの毒素が排出される過程というもの、いわゆる好転反応とかめんげんとか浄化と呼ばれる現象が、おなかこわすとかぶつぶつが出るというかたちで起こることはありますよね。

で、やがて落ち着いて健康の循環、リズムができてくるという流れが起こるひともいる、ケースもある。

 

とはいえ、実際ほんとにそうした反応なのかどうかも、からだをよくみて感じていたら、やっぱりわかると思うんですよ。

 

 

それからもうひとつ、補足的に書いておきたいなと思ったことが、「動物を食べるかどうか問題」。

きのうもすこし書きましたけど、肉は食べないけど魚は食べる、それから、四つ足は食べないけど二本足は食べる。

 

実はこれ、実際に質問をされて、なんで足の数で食べるか食べないかを決めるんだろう、と不思議だったんです。

 

で、その方がなぜそうされてるのかは聞かなかったのですが、ちょっと気になったので、この四つ足は食べないということについてあとで調べてみたところ、諸説あるみたいで、代表的なところでは、人間との感情的な理解ということのようなのですが、うーん鶏も結構伝わり合うぜ? と思うんですよ。魚もそうだと思うし。

 

さらに、この動物食べるかどうか問題で必ず出てくる、じゃあ植物はどうなのか問題。

植物も、話しかけるとぐんぐん成長したりするし、意識や感情的な反応についての実験証明とかありますもんね。

 

 

いや揚げ足をとりたいわけではないんです、実際この問題、議論するとかほんと不毛だと思うし、

結局、相反する主張が出てくるというのは、そもそもこれって脳、頭から判断される概念、観念、価値観、つまり人間ならではの見解、選択なんですよね。まさに二元性。

 

 

実際の動物をみてみたらわかるけども、動物はかまわず襲うし血したたらせて食うよね相手を。

あんなにかわいいねこちゃんだって、ねずみややもりをすごいいたぶるじゃん、以前住んでいた家で同居してたねこちゃんなんてもうしょっちゅうでしたよ、そのたびに「なんでそんなことすんのやめなよ!」「にゃー!」みたいなやりとりがありましたよね。

 

とにかくそれを残酷とみるのは人間だからだし、もちろん、だから残酷と思ってはいけないとかそういうんじゃないですよ、というかそういう発想がそもそも頭の話で、つまり考えとか論をかぶせてきたら、同調だろうが相対だろうが頭だしもっといったらエゴ/マインドなんですよ、で、それが人間。

 

 

でも、動物同士でも、犬とねこちゃんがすごいなかよしとか、鳥とねこちゃんがすごいなかよしとか、全然別の生きものが育てるとかたくさんあるじゃないですか、それって、もともと備わってる本能、あいつは敵、というそのもっと奥にあるものですよね。

 

 

結局われわれ人間、備わった脳の機能、マインド、感情、それがあるからこそのあれこれであり、

知識とか頭でどうこうした判断をとっぱらったら、動物食べないというのも、根底には全生命の交差するエリアにある何か、だと思うんです。

 

そしてそこには“反”も“禁”もないんですよ。“対”がない。

それは考えた何か、ではないから。

 

 

というわけで、また〜!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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全人類の最大公約数

 

先日、友だちのお店に行った帰りに、ふと思いついて、そこから近いオーガニック商品のお店に寄って、食べものの本をみたりしてたんですけども、置いてあるのは当然マクロビとか、自然療法としての食事についてのものじゃないですか、で、ここ数ヶ月(といっても、まだ3ヶ月くらいか、、と思うとやっぱり時間の感覚って雰囲気ですな)の自分の食生活はその対極といってもいいあり方で、とはいえ、目指してるのはどちらも「健康」であって、結局のところすごいざっくり言ったらそのちがいはルートなんですよね、その背景の考察にしたがって導き出されたルート、といったほうがいいですかね。

 

またこまかく書くと長くなる&ややこしくなるんでいろいろすっ飛ばして結論にいっちゃいますが、

というかわたしの出した結論ですよ、

とりあえず、全人類すべてに合うやり方はない、すんごい煮詰めてったら最大公約数の図のあのまんなかのエリアが肉眼でみえるのかな? くらいのなんかがあるのかもしれないけど、いやむしろ、論としての「すべてに合うやり方はない」がそこに入るのかも? って、またややこしくなってきたね(笑)、とりあえず、瞬間的、期間的にそれはあるかもしれないけど(おお、“時間”が出てきましたね)、普遍的にはないんじゃないかと思うんですよ。

 

 

そのお店にはマクロビ、自然療法食以外に、ネイティブアメリカンの教え的なとこから書かれた食についてのお話がのってる本があって、そういえば自分もネイティブ〜のごはん本持ってたじゃん! とうちに帰ってひさびさにみてみたら、基本穀物、肉、豆なわけですよ。

 

で、ほかに健康としての食を挙げるならアーユルヴェーダの食事法とかすごいじゃないですか、前に書いたかどうかわからないけれども、ホットオレンジジュースにブラックペッパーとか、ホットミルクにギーたっぷりとか、では薬膳はどうかといったら枸杞だのナツメだの緑豆だのよくみつけたね! というメンバーにくわえて、風邪のときには鶏肉とかさ、もう世界の食事の全ジャンルを一同に会したら、なんかもうすごいメンツが勢ぞろいなわけですよ、土とか虫もエントリーされるしさ、どうなのよもう。

 

 

なんでこんなこと考えてるかというと、ひとつはやっぱり、自分に合うものってなんだろうというごく日常の生活のことが発端ですが、リーディングやフラワーエッセンスのご相談のなかで、食べものや食べ方に関する話が結構出てくるんです。

 

たとえば完全なヴィーガンの方、ベジの方、ローの方、玄米食の方、肉を食べる方、肉は食べないけど魚は食べる方、このあたりがジャンル分けとして代表的なところかと思うんですが、もっとこまかくいくと四つ足の肉は食べない、五葷は食べない、乳製品をとらない、でもこれはヴィーガン的な問題ではなく成分の話だったり、もっともっとあるよね、とにかくいろいろなわけですよ。

 

 

で、わたしは玄米がからだに合わないんですね、好き嫌い抜きに、ダイレクトにからだにくるのでだめなんです。

これは、マクロビもされてる整体の先生に実際に相談もして、たしかに合わないのでやめたほうがいいとのことで、それ以来、自然食系のお店に行ったときとかは食べますけど、家では食べない。

 

その話をすると、玄米食の方で、じゃあ自分もやめたほうがいいのか、と不安そうに質問される方がときどきいるんですね。

で、「でも自分は好きだから」とか、「でも自分には合ってるんです」とか、いやいやだったらそれでいいじゃないかと。あなたは好き、あなたは合う、わたしは合わない、って、それぞれ自分の話をしてるだけであり、無理してどちらかに合わせる必要ってあるの? と。それ、からだじゃなくって頭の話だよねと。

もっというと、自分のことでさえなくなってしまうよねと。

 

 

これって、食べもののことだけじゃないですよね。

そして、好き嫌い、合う合わないからも離れて、頭のなかの“正しさ”ではかってたりする。

 

からだを基準に考えると、善とか悪とか正とか誤とかなんの意味ももたなくなる。

というか、なかったことに気づく。

誰がなんといおうとそれ食っておなかこわしたら正も義もなくアウトじゃん。

肌にぶつぶつがあのひとには出なくても自分に出たらそれは自分のなかでなんか起こってるんだよ。

それ、食べものじゃなくても全部そうですよね。

でしょ?

 

 

わたしは海外に行くと、すごいらくなんです。

お通じがさらによくなるし、カンとかもどんどん冴えてく感じ。

それはなぜだろう、と思ったら、

自分とひとはちがうということがとてもはっきりしてるからなんだなと。

ちがってて当然であたりまえで、それで全然OKなんだと。

 

 

想像してみたらさあ、最大公約数の図、数学で習ったポピュラーな例ではAとBという二つの楕円であらわされてますけど、

全人類の人数分の楕円が交差するエリアだよ? どうなのよ、どんくらいなのよ???

 

 

とはいえ、

食事の方法や食べものにどのくらいの公約があるのかは別として、

物質というものに限定せずに全人類の楕円を交差させてできるまんなかのエリア、

そこに入るのは、いったいどんなものなんだろう。

 

って想いを馳せてみたりすると、ちょっと楽しくなりますな(笑)。

 

 

というわけで、9月に入りましたけど、

今月は自分のいちばん好きな月なので、

なんか楽しいことがたくさんあるといいなと思いつつ、

いい感じの今月で☆

 

ではまた〜〜〜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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9月、新しいサイクルに向けてのメディスン

 

「言葉と何か、3」を書きたいなと思いつつ、

最近、ヤマアラシのトピックをよく目にするので、これはもう間違いなくメディスンだな、と。

 

そんなわけで急ですけどもお伝えしたく、凝縮バージョンのメディスンを。

 

きのうくらいから、わかりやすく変わり目の気配が&ちょうど来週から9月、水星の影響があるかもですけどまた新しいサイクルに入る感があるので、そこに向けてという感じで。

 

 

 

★9月、新しいサイクルに向けてのメディスン★

 

こどものころの何か、いまもこれからも、

この先何があろうともけして消えることのない無垢さ、

純粋さ、誰もおかすことのできない聖域、

そこに確かにある何か。

 

間違いなく知っています、

その頭のなか、次々に生まれくる言葉をすり抜けて、

そこはそれらの言葉とは無縁で、

言葉それ自体を超えていて、

というかほんとうは言葉にはできないもの、

けれど間違いなく結晶されて必ず届くもの、

すぐに、すでに、届いているもの。

 

水のなかに舞い上がる砂がゆっくりと底に戻るのを待つ、

そこに訪れる、いやほんとうは最初からずっとそうだった静けさ、その音、

こどものころ、わたしたちはみんなそれを聴いていたし、

その音を言葉にかえ世界のすべてと話していたんです。

 

それはいまも消えていません。

わからなくてもいいし、探す必要もない。

聴くだけ。それだけ。

 

ただ楽しくて、喜びしかなくて、

きらきらと輝く、輝いている。

 

それはいまもここにあるし、

これからも、何があろうとも、

けして消えることがない。

 

わたしたちは、その成分と同じものでできているから。

 

 

**************************

 

というわけで、just as you are!

残りの夏を、新しいサイクルを、自分を☆

 

 

いい感じの週末を〜☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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言葉と何か、2〜制限、自由、バランス

 

楽しかった先週末の余韻にひたる間もなく、日曜日から少しずつ雨脚強まり月曜から暴風域、昨夜ようやく台風の目に入り、つかの間の静けさ、という感じ(自分の状況を天気にたとえています)。

確か水星逆行中ですよね、仕事の締め切り、延びるどころか早まってるんですけどなんなんすかねこれは。

 

それはさておき、暴風域とはいえ、ここ最近は自宅作業なので、ごはんもいい感じで食べてます。

ちょうど先日、糖質についての栄養学の講座に行って、もっと成分や別の角度からの知識を学んだので、早速食べ方をためしてみたり。

 

これについてはしばらくやってみて、シェアするといいかもと思ったらまた書きたいと思いますが、先日書いた言葉と何か、コミュニケーションのことについて、食べものに関することでも感じたことがあるので、今日はそれを。

 

 

先日、現地色の高いネパール料理屋さんに行ったんですけど、カレーはやっぱり穀物といっしょに食してなおおいしい!わけじゃないですか。

そしてインドでいうミールスやターリーのようなセット、糖質率当然高いでも食べたいに決まってるわけじゃないですか。

あの銀色に輝くお盆の上に並ぶ小さな丸い器たちと彩り、たぶん、あの形状と並びが食欲をかきたてる何かを起こしてると思う。

 

しかし、まさにその数時間前、講座でさんざんからだへの影響の話を聞いたあとだったこともあり、やっぱり穀物抜いてアラカルトでいこうか迷っていると、特に食事制限などはしていない友人が多少イラついたのか、「そんなにストイックにいくなら食べられるものだけ選べば? 」と言ったんです。で、即座にわたしは「全然ストイックじゃないよ、肉だよ、肉を選ぶんだよ? 肉をおなかいっぱい食べるんだよ?」と、なかばムキになってかえしたんです。

(※注:糖質制限食=肉のみではありません、念のため)

 

このときに感じたのが、おたがい、相手の言葉からのイメージで話してるなと。

 

たとえば、その友人に限らず、自分の食実験の話を誰かにすると、反応がだいたい似てるんですよね。

なかでも主に共通しているのが、「それってどうなの?」 というつっこみがうまくいかない感(笑)。

 

これは、あくまで自分のこれまで実際に経験した、計画的なダイエットなどを含め、何か特定の食事法を行っていないひとたちに多くみられる反応ということですけど、

すごいはしょっていうと、肉を食べない、よりも、野菜を食べないとか、よりヘルシーな食事法のほうが、第一印象として懐疑的だったり否定感を持ちやすいんじゃないかと。

もっというと、マクロビとかヴィーガン、という言葉だけで嫌悪感をもつひともいたり。

 

逆に、野菜をほとんど食べず、肉中心、というかジャンク色の強い食べ方については、少なくとも肉否定派よりもあたりがやわらかい印象。

 

これ、さっきも書きましたけど、あくまでも自分の経験ですよ、しかもマクロビとかやってない、あえていうなら普通にごはんを食べてるひとたち。もちろん、肉食に対してかなり辛辣な姿勢をもつひともいるし。

 

 

とにかく、ここではどちらがいいとかわるいとかの是非を問いたいわけではないので、その推察などはしませんけれども、とにかくポイントとなるのは「制限」という言葉、概念から引き起こされる何かだと思うんですよね。

 

 

その理由のひとつが、さっき書いた「それってどうなの?」 というつっこみがうまくいかない感。

 

 

「糖質制限食」。これ自体について知らないひとにとって、まずどこに引っかかるか、というか、やっぱりイメージだと思うんですよね、知っていればそれ自体と直結するけれど、知らない場合は想像するしかない。それも自発的にというより、もう脳のはたらきで自動的に、いってみれば計算が起こるんだと思う。

 

で、その言葉と自分のなかのデータ、つまり記憶とのすり合わせが行われてそこに紐づく感情→< >→アクション(この場合は会話)、という具合に一連の動きが起こる。

 

記憶が瞬時に別の記憶を呼び起こしたり、そこから起こる思考、逡巡といった動きが入ったりもしますが、

感情の次の< >は、そうした記憶からのつながりではなく、その感情や出てきた思考について一度立ち止まる、観察する、われにかえる、もっというと“いまここにとどまる”感じで入れてみたんですけど、

もうほとんどの場合< >はすっ飛ばされていて、ほんとうの意味では会話にはなっていないんですよね、あくまでも自分の私的な記憶からのあれこれをもとにしたイメージによる言葉、行動でしかない。極端な言い方かもしれませんけども、相手の言葉にリアクションしてるわけではなかったりする。

 

って、仕組みとかを書いてるとまたどんどん長くなる&脱線していきそうなのではしょって簡単に書きますと、

 

とにかく「糖質制限食」、糖という栄養素を制限すること、そのなかにはいろんなやり方があり、どれを選ぶかは自分の自由、食べたければなんでも食っていい、特に肉、たまご、チーズを食う、むしろ食う、コーヒー飲んだりするのもいい、しかもバターやココナッツオイルを入れて飲むいわばフレーバーコーヒー、そう、バターはOK、マーガリンは糖質関係なく別の意味でNG! 完全にガチでやるなら制限するものは多々ある、でも糖の量というだけなら食ったらいいんじゃん? お酒? 飲んでいいのよ、でもバランスよ、ただなんでも制限するだけじゃだめなの、バランスが大事なのよ!

 

こんな風に説明すると、みんな、うーん、、、となるんですね(笑)、自由があるので思うようにつっこめないし、バランスが大事って、ほんとに大事、っつーかおのれをバランスするためにやってんだからさ(笑)。

 

そう、結局、「自由」ということにつきると思うんです。

最初は「制限」という概念に身構える、そこに肉野菜問題があり、無意識に自分の、しかも無自覚にある条件やポリシー(まあ、これがエゴの代表ですね)に反するかどうか、というか、反するにちがいない、とその時点ですでに“判断”が起こっている。

 

書いてて思いましたけど、その条件やポリシー、つまり「普段自分がしていること」もっといえば「正しいと思っていること、守ってるもの」を揺るがされるかもしれない、ということのほうに、強い反応が起こるのかもしれない。

 

そして「バランス」というワードも実は強い。

実際、「自由」というものって、結構抵抗をもつんですよね、自主制限たくさんしてるし、他人にも制限を求める、まさにポリシーに反するかどうか。

そこでバランスというものが出てくる、文字通りバランスして両方立ててくれたりする。

 

 

ほんとは前回の続きで言語について書こうと思ってたんですけど、食べものと言語って、結構相反する強い反応が起こりやすいトピックな気がするんです。

それって、深くいくと、生命の危機に関連してるといってもいい。

特に食べものは、愛情というものにとても深くかかわってる。

 

けど、それもまたイメージに還元されうるんじゃないかなと、

脳の仕組みといった構造的なことはあるにしても、そんなふうに思います。

 

うーん、でも一概にはいえないなあ、いろんなものが多面的というか多層というか多次元的にかかわってるから。

 

これは、さっきの自由というものと、バランスというものにも通じる、

地球とか三次元に生きる人間ならではの話ですな。

「からだ」なんですよね。

 

 

 

というわけで、また長くなっちゃいましたが、

とりあえず今日はこんな感じで。

 

制限については、もっともっとありますけども、なんとなくポイントをつかんで気づきに役立てていただければ幸いです。

 

東京、また夏が戻ってきた感じでうれしいですけど、

熱中症かなり注意な気配あからさまなので、

気をつけつつ。。

 

あーそうね、わたし毎夏ポカリ必携なんですけど、糖抜きポカリあるといいなあ。

 

ではまた☆

 

あ、悩んで選んだ\糖質バンザイ/ネパールメシのっけときます。

真ん中の岩のようなものはディードというそばがきみたいなもの、真ん中の液体はギーです。

 

 

 

 

 

 

 

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