texted a ANANYA

メディスンカード・リーディング
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瞑想、カレー、可能性、正しさの罠

 

 

先日ある知人から、ある技術について、それではAもBもできないから、というメールがきて、うーん、たしかにすべてはできないと思うけど、でも自分、とりあえずAもBもできるケースはあったよ、と思ったのですが、なんかそれをたとえばこんな場合、みたいに説明を書いて送ったりするのも非常に面倒、と思い、どう返信したものか、と保留にしてたんです。

 

そしたら今度は別の知人が、AもBも結局はこういうものだから、その技術でできる、という趣旨のことを言っていて、うーん、それもまたどうなのだろう、できないケースもあると思うよ、自分がそうだったから、と思って、それは本人に伝えたんですね。

 

その知人同士は知り合いではなく、たまたまわたしは両方を別々に知っているだけだったので、シンクロというか、タイムリーだなあと思ったのですが、どちらの主張も、というかとらえかた伝え方に実はうんざりして、すごく不快感をおぼえている自分に気づいたのです。

 

 

自分の体験がたまたまそのどちらでもあり、どちらでもなかった。

ということは、それぞれが自分の経験だけで判断して結論を出している。

だから否定的な気持ちが起こった。そうじゃないかもしれないという可能性だってあるのに(というか自分がそもそもそのケースなのに)、なぜ検証もせず決めつけるのだと。

 

 

これは一見中立で正論っぽいですよね、でも、ほんとに自分がニュートラルであるなら、不快感は湧いてこないかもしれない。

という思いが自分のなかに起こる。

 

 

そもそも相手やものごとの何かをみて不快感が起こる、というのは、自分の感覚や意見、ポリシーに反している、あるいは受け入れがたい理由があるからで、そこには「正/誤」「良/悪」等々、その感情が発生するなんらかの発端があると思うんですね。

 

 

で、自分をみるわけです。この不快感の理由はなんだろう、なぜ決めつけられると腹がたつのだろう、と。

 

そこに「掟」の存在がきらり、と光っているわけです。正しい間違ってるを超えて、なんか、あんまりいい感じじゃない光が(笑)。

 

 

この「掟」をみつけて、破っていく方法のひとつが瞑想ですよね。

しかし、この瞑想というのもひとくせもふたくせもあるなあと思います。

 

というか、ほかの例にたがわず瞑想それ自体ではなく、そのとらえかた、まあ結局はエゴ、ということになるのですが、

こんなに多くの解釈や意味づけされるものもめずらしいのではないかというくらい、一家言もったひとがたくさんいると思うんです。

 

エゴにはまらないためにやってる(あえてこう言ってます)はずが、まんまとエゴにはまってしまうという、

文字通りミイラとりがミイラに、のもっともわかりやすい例なんじゃないですかね。

 

 

とはいえ、ここでは掟をみつける、エゴにはまらないうんぬん言ってますが、

実際のところ、ほんとにたくさんの瞑想の方法があって、解釈が多く生まれるのもまた当然のことだとも思います。

 

 

たとえば、「こころを落ち着かせるための瞑想」を行っているひとに「瞑想とはなんですか?」と聞けば、

文字通り「こころを落ち着かせるもの」または「リラックス」とかえってくるかもだし、

 

「呼吸を主体とした瞑想」を行っているひとであれば「呼吸を整えることによって起こってくる細胞、脳内分泌物のはたらきにより〜」みたいなこたえがかえってくるかもしれない。

 

つまり、ある目的を解釈をもって行っているとすれば、それぞれの認識や思いがこたえとしてかえってくるわけで、

どれも正解ではあるけれど、どれも瞑想そのものをさしはせず明らかにはしないと。

(と書いていて、やっぱり時間なんだなあと思いました)

 

 

覚醒したひとに「瞑想とはなんですか」ときくと、たいていは「瞑想はするものではない、起こるもの」というのが定番(あえて)だと思います。

つまり、行為者というものがいない、と。何かを得るためにするものではない、得るなにもなく、得ようとする誰もいない、と。

 

 

ほんとにそれを行うひとによって、かえってくるこたえはちがう。

 

 

わたしがものごとを決めつけられることに対して不快になるひとつの理由は、ここにあるんですよねえ、だって、ほんとに視点がちがえば体験も変わってくる。

もっといえば、体調がいいときとよくないときで感覚や考えがちがったり、変わることだってある。

 

そのくらい、いろんなことってゆらいでるんじゃないのかしら。

変わらないものなんて何もない。というか、固定されているものがない。

そのなかで、けして変わることのないそれ…はまた別として、、

 

 

「これとはこういうものだ」と決めつけてしまうと、ほかに感じることや見え隠れしているものがそこで切り捨てられてしまう、

ほんとはもっともっとすごかったり素敵だったり、あるいはいらなかったものを見過ごしてしまうかもしれない、

 

つまり、それ自体を媒介とした自分自身の可能性を限定してしまい、もっと動きひろがっていくかもしれない何かの動きを、

まるで自分がすべて掌握しているかのような錯覚にさえおちいってしまったり、、というのが、

たとえば瞑想でいえば精神世界関連かもしれないけれど、

そこに限らず、あらゆるところでみられることのような気がします(自分も気をつけないとです、ほんとに)。

 

 

で、瞑想のことを考えてたら、ああこれ、カレーもそんな感じかも、とふと思いました。

 

家庭の数だけカレーがある、と誰かが言ってたかもしれませんが、いやひとの数だけあるのかもしれない。

 

なかでも、カレーに対するものすごい情熱、そして自分を語るみたいなタイプのひとのカレーって、実際のところ食べる前からおなかいっぱい、になってしまったりもして、

なんか、カレー自体よりも、努力とか知識とか探究心とか成果とか、そのひと自身の思いを食べさせられるような気がしてしまって、

わたしはただのカレーが食べたいんだ! 好きに食べさせてくれカレーを! ただおいしいカレーを!

とこころのなかでスプーンを振り上げ、叫ぶばかりです。

 

 

ひとが望んでること、ほんとに体験したいことって、解釈でも概念でも掲げた目的でさえなくて、

たぶん、もっともっとシンプルで、たいへん原初的なことなんじゃないかなとおもいます。

 

いくらこうだから、と思っても、

ほんとのことなんて、誰にもわからないんだもの。

 

 

とはいえ、「ほんとのことは誰にもわからないんだから決めつけてはいけない」もまた「掟」になってしまうんですよねえ。

 

結局のところ、それもまた「正しさ」の罠なのだなあ。

 

って、またネバーエンディングじゃん。

 

となると、やっぱり、非、、、、

 

 

というわけでまた(笑)。

 

 

**********

 

あ、ちょっとお知らせです〜。

以前やっていた「チャクラのバランスを整えるキャペーン」

リクエストがありましたので再開します。

ストックがなくなったら終了なので、とりあえず6月のなかばくらいまでにします

(セッションでもつかったりするので、早めに終わるかもです)。

 

興味がありましたら、ためしてくださいませー。

 

http://ananya.jugem.jp/?eid=384

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
掟。白紙。

 

たとえば「人付き合いは、」という言葉。

そのあとに続くのは、

 

「楽しい」

「つかれる」

「楽しいときもあるけど、つかれるときもある」

「苦手」

「相手によってちがう」

 

等々、いろいろだと思うのですが、

これらはそれぞれがなんらかの経験によって感じたこと、導き出されたいまの結論、みたいなもので、

このなかに正解があるわけではないし、どれかに自分を寄せてく必要もなく、

けれど、たとえばポジティブにとらえる、あるいはそうなりたい、と思っているなら、「そのためにはどうしたらいいか」と考えると思うんですよね。

 

って、書いていて、なんか自己啓発っぽいなーと、ひとが言ったり書いてるのは全然いいんだけど、自分がそんなふうに述べることにはものっすごい居心地のわるさを感じます。何言ってやがんだ自分、て感じ。

 

というのが、ANANYAの感覚なんですけど、

ひとつはこの書き方なんだよね、なんかこう、いいこと、大事なこと言いますよ的な感じがもうすごい自分に嫌悪&恥、なんですねえ、ひとはいいんですほんとにひとは(この「恥」の感覚というのも曲者だとおもいます、それはまた機会が訪れたときに)。

 

で、だいたいここで書くのをやめるのね、いままでもそう。

 

なんか、教えてあげます、みたいな感じがするんですよね、それがすごい嫌で、セッションはそういうことを言ったりする場、時間、で、自分はそういう役、という前提があるのでそのまま伝えることができるんですけど、

普段の雑談とか、友だち同士の会話のなかでそれが起こってくると、途中からものっすごい自己嫌悪がおそってくるんですね、むかしっから。自分何様よ? って思ってしまって。

 

 

気づいたことをシェアしたいということと、書いてるうちにさらに自分で気づくことがあったり、全然ちがうところへ向かっていったりと、そこが書くことの面白さだったりして、とはいえこれらもストーリーで、、と書いていくと、二元と非二元との混在に混乱して、、というのが陥りやすいところなのかもで(少なくとも自分は)、そういうのも書くのをやめてしまう理由で、もっといえば、自分の場合は人付き合いの困難さにもつながってますね。

 

 

話を戻しますが(これもきのうの、どんどこ思考を拾ってつなげて最終的に別次元にたどりついたか? くらいの展開になったりするのとおんなじ。結局、なぜそうなっていくのかのひとつの理由は、「変えたい」ということなんだろうな、それが「じゃあどうすれば?」になる、つまりそれがいわゆる「いまの否定」というものなんですな、だから「受け容れろ」と。って、仕組みはわかってるつもりでも、こまかくみてくとこんなふうにひっかかる場面がいっぱいあるんですよねー、で、間の説明ぶっ飛ばしてみえてくるのは「わたしは完璧でなければならない、完全に理解し血肉になってからでないとそういったことを言うべきではない」という「掟」があることに気づいたりするわけです。これも、単に浮かんでは消えてくだけの思考のひとつを採用してるだけ、なのにそこからはじまるストーリーはほんと無数の展開をはらんでますよねーほんとすごいな人間!&自分、まだまだ自分へのゆるしが足りないんだわね、きびしーッ)、

 

 

って、もう話戻さなくていいよね。

なんかみえてきました自分また。

 

 

でもこれで終わりじゃないのよ、その「掟」をさてどうするか、とネクストがあって、

ここでセラピーとかカウンセリングとかヒーリングとか、病院でもいいけどさ、その「掟」がつくられたことで発生した苦しみ、生きる困難さにアプローチすると、それが、その先の展開についていけないストーリーを解除していく、みたいな感じですかね、

 

つまり、話を最初に戻す、というよりも、何も書かれていない状態、白紙に戻すんだと。

 

一連の癒しや治療(からだの健康ももちろん)の仕組み、ってそれなんですな。

 

しかし、この自分ではどうにも破れそうにない掟、それだって思考のすんごいやつなんだしストーリーなんだから、どうにかしなくてもいいんじゃないの? むしろ、したらだめなんじゃないの? といえば、まったくもってその通りで、

そこでぶった切って、まさにいままで書いてきた原稿を丸めてファック&バイ、永遠に!(って、別にそんなの言わなくていいんだけども、これもいわゆるアファメーションだったりして) とゴミ箱に入れれば終了です、終わり、

というか最初っから頭のなかにしかないから。

 

ところが厄介なのが、その掟を守るにいたる理由、いやだ苦しいと思ってはいるのに持ち続けてしまう、いわゆる手放せない理由、というものがあったりする。

 

あるいは白紙にしたつもりだけどほんとにそうなってるのかどうかわからない、という新たな不安や、

捨てた、白紙にした、と言いつつ、単に蓋をして置き場所を変えてるだけだったりとか(見ないふりとか抑圧とか)。

そんなふうに思わせるものがいわゆるエゴですな。

 

それをほんとに白紙に戻すお手伝いをするのが、セラピスト等の仕事なんだとおもいます。

で、それに対してどんな視点で、どんな方法をとるかによって、役割と名称が異なる、と。

 

 

完璧になるまで言っちゃいけない、という掟がないと、自由ですな。

間違える自分をゆるす。

 

すんません、勝手に書いてるだけなのに、ちょっとらくになってしまいました(笑)。

けど、もうちょっと探ります。

 

 

とりあえず自分、やっぱりフリースタイルが好きだ。

 

 

というわけで、また。

今日もいい感じで〜

 

 

 

 

 

 

 

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弱さ、強さ、測定装置、つまりは比較、ストーリー

 

何かあったりすると、よく「こころの弱さ/強さ」という見えない測定装置みたいなものが登場するじゃないですか。

それは自分/あなたのこころが弱いからだめなんだ、

もっと自分/あなたは強くならなくては、という具合に。

 

で、そのために、どうしたらいいかと考える、探す。

何かの本を読んだり、セラピーやセミナーに出かけたり、旅に出るひともいるだろうし、運動をはじめるひともいる。

その方法って、たぶん、無限にあると思うんです。

 

まだ強くなってない、と感じる限り、

だからもっと、と探し続ける限り、

それにともなって、新しい何かもみつかり続けると思うんです、たぶん。

 

だけど、そもそも、その弱さ強さをはかる装置って、ほんとは存在しないんですよね、

目に見えてさわって、その数値や硬度、強度を確認することができない。

 

もともと頭、思考のなかにしか存在してないので、

ほんとは弱くもなければ強くしたりもできない。

なんらかの感覚を、弱い/強い、という概念として、

もっとくだけていえば、そういうふうに呼ぼう、

ということにして採用しているだけ。

 

弱いこころもないし、強いこころもない。

だからほんとは、弱くも強くもなれない。

 

だって、もともとそんなものがないんだもの。

 

 

苦しさ、不快感、不安、という、何か自分にとってここちよくない体感が起こると、

それをなくしたい、という思考が発生して、

それをなくすためにはどうしたら、

あるいは、なぜ苦しいのだろう、という思考が発生して、

次、また次、と、そのときに選んだ(しっくりときた)思考によって、

「ここちよさを求めて」みたいなタイトルのストーリーがどんどん展開される。

 

「ここちよくない」を「ここちよい」に変えるために、あるいは「常にここちよくあり続ける」ために奔走する。

 

もしかしたら、ひとのすべての行動、営みって、

それが目的になってるのかもしれないですね。

 

で、そのバロメーターのひとつが「弱いこころと強いこころ」。

ほかには「満足/幸福指数」といったところでしょうか。

 

 

ほんとは存在しないものだから、とりあえずのゴールを決めたりすると、

そのときのなんらかのバロメーターが機能して「第1章<完>」となる。

で、最後にいちおう確認しておこうか、と「まとめ」とか「チェックリスト」の項目をつくったり。

 

 

と、新たな思考が出てくるたびにストーリーが紡がれてゆくので、

このテキストもどんどん長くなっていくわけですな(笑)。

 

 

で、まさにネバーエンディングストーリーなので、

ここでの本題に戻ってみると(まとめ)、

 

弱いこころも強い自分も、頭のなかにしか存在しない、

つまり、それ自体がない。

 

と、あらゆる場面でさんざん語られ続けていることを書いてみました。

いまさら自分が、、と思っても、あらためて気づくと、書いてしまうのよね(ゆるせ!)。

 

 

なんというか、何周かして、非二元のほうに戻ってきたせいか、

自分がほんとうにおそれていたものが何か、みえてきた気がしてます。

どんなにひどい体験でも、自覚できてるものはダミーで、

ほんとのトラウマと呼ばれるものって、自分では気づかない、その下にかくれているそうですが、

たしかにそうなのかも、と思います。

 

人間って、ほんとにすごいねー。

 

 

というわけで、とりあえず、

「弱いこころも強いこころもないんだから、ある、と思っちゃだめ」

につづく新しいストーリーに気をつけつつ。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ほんとの近所(?)の風景について

 

先日、ほんとは近所じゃない風景のことを書いたあと、じゃあほんとに近所の風景ってどんなだっけ、と思い、写真に撮ってみました。

 

といってもわざわざ撮りに、ではなくて、毎日のように通る場所なので、買い物帰りに「そうだ!」と思い出して撮ってみた、という感じなんですけども、最近ぐっとここちよさがましている気候のせいもあり、は〜やっぱり気持ちいいな〜という、そのまんまの感想で、ふんわりした気分のまま帰ってきてしまいました。

 

実は、じゃあほんとの近所の風景についてはどうなの? というのを書いてみよう、という目論見があったんですよね、近所って結局、物理的な距離のことよね、それっていわゆる時間のことよね、とか、この間別のことで思っていたアインシュタインのこともつながりそうだよな、とか、で、「ほんとに風景そのものをみて感じること」と「メタファーとしてみる」というのをやってみたらなんか出てきそうじゃね? と思ってたんですけど、ほかに考えていることもあって、最近離れていた非二元のことに戻ってみたりして、

結果的にひさびさにちゃんと時間をとって瞑想っぽいメソッドをやってみたのですが、

 

 

たとえばどんな苦しみもつらさも、やっぱり全部過去(時間を採用するならば)で、すべては記憶、結局のところ、ストーリーなんですよね、もちろん、こころ(これもいろんなとらえかたがありますが)、そしてからだも感情、痛みのようなものを感じている。

胸やおなかにある違和感、もやもやとしたもの、それだけでなくはっきりとしたいたみ、何かをずっと背負い続けているかのような肩の重さ、ことあるごとに起こる頭痛、腰や背中にも何かの感覚があるかもしれないし、そうした体感、そして言葉にできるものもできないものも、それらが過去の記憶、ストーリーから起こっていることであっても、いまそれを感じているのはもちろん事実、でも、、、

 

たとえば、どこからともなく起こってくる思考、感情、体感も含めて、それは自分本体ではなくて、ただ自分、という“場”にあらわれては消えてゆくものですよね、「この苦しみ」に対して「これをどうにかしなくては」という新たな思考、それが担い手となって<「この苦しみ」を「どうにかする」>というストーリーが展開されていく。

次は「ではどうしたらこの苦しみはなくなるのか」が担い、次の思考、また次の思考と連なって、物語が紡がれていく。

 

ストーリーを展開させず、ひとつひとつの断片を、つかまえず、つかまらず、シークエンスにさえしてしまわずに、ただ発生して消えてゆくのを見送るだけ、ほんとにこれだけのことなのだと、もっといえば、見送ることさえしなくてもいい、それこそ“時間”がたてば泡のようにして消えてしまうから。

 

いや、消える、というのともちょっとちがう、なんというか、そういったものはすべて別の空間(あえて)とか次元(あえて)にあるもの、という感覚にいまは近いです。自分本体ではないもの、という意味で(これもちょっとちがうかなーでもそんな感じ)。

 

自分という場(あえて)には、やっぱりなんにもなくて、静かで、おだやかで、けれどもあらゆるものが発生しては消えていく(って書くしかないんだけども、というか点滅とか、浮き上がってくるとか、流れていく、みたいな感じかも)、とにかく言葉ではとらえきれないし、とらえようとすればするほど離れてしまうんですねえ、それでいてありきたりの言葉をはめるしかないというもどかしさ、それがさらに遠ざけてしまうような。。

 

 

まだわたしとわたし以外、で分離しているし、ときに起こる一体の感覚(あえて)はあっても、「これをどうしたら?」という思考、このストーリーに限らず発生し続けるんだと思うのですが、

 

なんでしょうねえ、

思考がどういおうと、何かを紡ごうとも、

何かが起こり続けるだけなのですが、

 

 

と書いて、昨夜は寝たんです。

で、起きたらとりあえずいまのこたえっぽいものが出てました。

 

で、今日はこれからロスでのクラスメイトと勉強&シェア会なので、

まあ考えずに、起こるにまかせてみてみます(っていう表現もなんかなー、って思うそれもエゴ/思考、ほんっとめんどくせえ、、)。

 

 

というわけで、画像は、うちの近所です。

先約がなければこのベンチで本読んだりぼっさりします。

 

そして、上に書いた「ほんとに風景そのものをみて感じること」と「メタファーとしての近所の風景をみる」は、

やってみるとなんか出てくるかもなので、

興味があったらやってみてくださいませ。

 

 

ではまた。

いい感じの1日を〜☆

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
“近所の風景”について

 

急な調べものや、届くのを待てない本があるときに、たいへん助かる本屋さんがあります。

 

自転車でだいたい20分くらい、目の前には海をみながら散歩したりすわったりできるところがあるので、帰りに下のお店でコーヒーを買って、本を読んだりぼっさりしたりします。

 

先日も本を買ったあと、そこでちょっと書きものをしていると、「すいません、話しかけてもいいですか?」と、わたしの父よりすこし若いくらいの紳士に声をかけられ、「この風景についてどう思いますか、どんなことを感じますか?」と聞かれました。

 

普段から、なぜかどこの街でも国でも見知らぬひとからほんとによく声をかけられます。

いきなり相談されたり、お菓子をもらったり、道を尋ねられるのはしょっちゅうだし(特技・逆走、というくらい方向音痴なのに)、電車のなかで突然手をにぎられて「あなたは幸せになる」と言われたり、横断歩道ですれちがいざまに、女のひとから頬にちゅっ、とされたこともあります。

 

自転車に乗っているときは、こどもからよくレースを仕掛けられるので、最初は負けてあげて、相手が満足している隙に思い切り抜かしてやります。

 

そういえばロスでは、わたしをみつけると、遠くからでも必ず声をかけてくれる黒人のホームレスのひとがいて、「りんご食べるかー?」とか「元気かー?」とか言われましたね、何かつらそうに見えたのかな。。

 

 

それはさておき、その紳士、近々ある冊子に寄稿することになったのだがお題が「近所の風景について」で、自分以外のひとは、この風景をどうとらえているのか知りたいとのこと。

 

残念ながら自転車で20分なので近所とはいえないです、と申し上げると、それでも構わないので、この景色について聞かせてほしいとのことで、感じていることを伝えようとしたのですが、あらためて聞かれると、なかなかぴし、っとくる具体的な言葉が出てこないんですよねえ。

 

実際、本屋さんに用がなくても、ときどきだけど、あえてそこを目指してぼっさりしに来たりおやつ食べたりしているくらいだから、もちろんここちよさを感じているのですが、なんか、こうだから、と、自分も誰かも「なるほどー」と納得できるような、はっきりした理由とか、考えたことがなかったな、と。

 

 

感覚って、ほんとは言葉にできないものだし、する必要があるとすれば、「伝える」という行為が発生するときくらいかもね、と思います。

 

それと同じで、自分が普段感じているすべてのことって、意識していないと、すべてあたりまえのものとして、気にもとめないし、自覚すらしようとしないよね、って。

 

 

たとえば、いま、新しくはじめようとしていることのモニタリングをさせてもらっているんですけど、何か改善したいことがあればテーマをもってきてください、と伝えても、特に思いつかない、とほとんどのひとがおっしゃいます。

 

でも、いろいろ言葉をかえて聞いてみると、そこではじめて、それが自分にとって結構大きなストレスになってる、と気づく。

ストレスだけじゃなく、楽しいとかうれしいとか、こう思ってたんだよね、と感じていることも。

 

 

そういえば、メディスンカードのなかに、

「毎日見ている風景のなかに、見過ごしていることがあるのでは?」

というメッセージがあります。

 

 

あの本屋さんの前の海がみえる場所は、たしかに毎日ではないけれども、なぜわざわざあそこへ行くのか、もっといえば、近所ではないのに行く理由ってなんだろうか、

 

と、自分の感じていることをちゃんと調べてみると、おお、と思ったり、みえてこなかったことがみえたりしますよね。

 

 

って、それこそ、すんごいあたりまえのことを、ひさびさに、ていねいに書いてみました。

 

 

でも、あたりまえに、自分もそのなかの風景に同化してしまっていると、ほんとにたくさんのことを見過ごしてしまうよねー。

 

 

というわけで、とりあえず結構片づけてはいる自分の部屋を、別の視点からあらためて眺めてみようと思いました。

 

 

画像は、紳士に「どう感じているのか」と問われた風景です。

 

ではまた〜☆

 

 


 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
そこそこ激動。

 

ひさびさにブログのトップをみたら、「一定期間更新がないため広告を表示しています」になっていて、自分のブログでそれが起こるとは思ってもみなかったので、

 

と書いてはみたものの、これといった思いも湧いては来ず、とにかくロサンゼルスから戻ってきて以来、というか諸々全然続いていて、そこそこ激動な感じの毎日です。

 

とりあえず学んだことを消化しながら、黙々と自己調整をしつつ、クラスの仲間とシェアし合ったり、関連のセミナーで新しいことを学んだり、部屋の片づけをしたり(これはまだ続行中)、いままで手をつけていなかったことをせっせとやりはじめたり等々、次の準備をしている感じです。

 

って書いてみると淡々としているようにもみえますけど、特にここ数日は激動だったのです。

 

で、なんでひさびさにブログを書こうと思ったのかな、と思いふと調べてみると、

水星が順行に戻ったようで、

やっぱり星の動きは面白いなと思ったり、

そろそろ動きますかな、という気持ちになってきたみたいです。

 

って、なんか、わざわざ書かんで頭のなかでしゃべってろ感満載な文面ですな、すんません。。

 

 

そうね、たぶん、激動がひと段落したのかも、

で、なんかぼんやりしたいのかも、

 

 

って、ほんとに完全にひとりごとですな。

 

 

と、特になんの気づきも誘発できそうにもなくお知らせもなくタイトルにもまったく関連のない内容のまま今日は終わりたいとおもいます。

 

 

とはいえ、これではあまりにも、、なので、ロスのスーパーマーケットでみかけた「チアシードのプリン」のレシピ写真を置いていきます。

いちおうベジ向けな感じですが、牛乳つかってもいいんじゃないかな。

簡単っぽいので、興味のある方、つくってみてくださいませ。

 

 

そんな感じで、また。

そのうちなにかお知らせできるとおもいます。

 

 

素敵な連休を☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | - | comments(0) | - | - |
Food Shock 2

 

先日、無事に帰国しまして、荷物を解いたり洗濯したり、早速音楽関係のイベントに行ってひとに会ったり、今日はものっすごく眠くて長時間昼寝したり、、少しずつ東京の生活に入りつつあります。

 

フラワーエッセンスのお申し込みをまず再開、リーディングの個人セッションも連休明けくらいから受け付けの予定ですので、ご希望あればご連絡くださいませ。

 

ロサンゼルスで学んできたことは、もういろいろありすぎるので、これから少しずつ書いていこうと思います。

新しいセッションについても、もうすこし勉強&復習しつつ、態勢が整ってきたらお知らせしますね。

 

さて、学んだことのひとつ、先日もちょっと書きましたけど、食べもののこと。

ほんとにいろいろびっくりでした。

 

古今東西、必須栄養素やマクロビ、ローフード、アーユルヴェーダや薬膳などなど、すばらしい食事法がたくさんありますよね。

でも、そうした方法や形式の前に、自分というひとりの存在、あくまでも個としてのその身体は、何を欲し、何を必要としないのか。

まずはここに目を向けなければ、結局なんのための食事?? になってしまう。。

 

↓は、向こうで宿題しながら食べていたおやつの一部、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、主にオーガニック・フードを扱ってるものの格段に安い、素敵スーパーマーケット「TRADER JOE'S」のポテトチップスとドライのパイナップル。

両方とも、わたしの身体がOKを出したものです。

 

 

 

 

パイナップルは、お砂糖をまぶしていない、ほんとにただドライにしただけのもので、見かけはややグロだけど、とても食べやすいです。

ドライフルーツ好きなのですが、砂糖つきのものばっかりなので、日本でも売ってほしいなー。

値段もたっぷり入って400円ちょっとで安い!

 

で、面白かったのは、同じパイナップルでカットされたものがあったのですが、そっちは身体的にOFF。

ポテトチップスも、確かシーソルトだったと思いますが、シンプルなフレーバーとくらべたのにそっちはOFFで、一見、身体にはよくなさそうなこっちのBBQ味はONだったのです(こっちが食べたかったのでよかったけれど!)。

 

ちなみにオーガニックではないけど、グルテンフリーだそうです。

じゃがいもでグルテンって何、、と思ったら、フレーバーに小麦が入っていたり、工場でグルテンをつかってるかどうかとか、関連してるんですね。全然知らなかった。

 

 

 

 

まあ、あんまり過敏にストイックになりすぎると、また「なんのためのそれ?」にうっかりなってしまいがちなので、これもまた、“自分”と“それ”とのつき合い方、になるわけですけど、

とりあえず、野菜だけがいいわけでも、お肉がだめなわけでも、おやつがだめなわけでもないということ。

 

これからも、わたしの食ショックは続くと思いますが、

驚きを楽しんでいきたいと思います!

 

身体に聞いていく方法なども、少しずつシェアしていきますね☆

 

というわけで、また。

メールの返信、まだ届かない方、もうしばしお待ちを!

(ロスでは、あせらず無理のないペースで行く、ということもよく学びました。。)

 

ではでは素敵な一週間を☆

 

 

 

| ANANYA | 食べもののこと | comments(0) | - | - |
帰国〜

 

ロサンゼルス・レポートしようと思っていたのですが、日々盛りだくさん過ぎて結局全然書く時間がないまま帰国です。
たぶん自分、結構変化があったと思うんですが、変わってしまうと以前どうだったか、どれだけかなしかったり苦しかったりつらかったりしても、記憶はあったりなかったり、クラスでは結構な涙を流したものの、なんであんなに泣いたんだっけ、、と覚えてないことも多々で、まったくげんきんなものだと思いつつも、潜在意識ってすごいなあと、あらためて思っています。

そして、忘れることの大事さ。

まあ、追い追い書けたら諸々書いていきます。

とりあえず、メールの返信など遅れてすいませんですが、もう少しお待ちを!

というわけで、また。
日本まだ寒いらしいのでやだなーと思いつつ。

 

下の画像は、天使のマリア大聖堂の敷地の一角です。

今日も素敵な1日を☆

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
Food Shock!!

 

先月の後半から、治療&勉強のために、ロサンゼルスに来ています。

行く前にブログを書こうと思っていたのですが時間がなく、着いてからは午前中に宿題、お昼から治療&実習、その後宿題、夜は深夜12時までクラス、とかなりハードなスケジュールで全然時間がなく、今日は宿題がすこし早く終わったのでちょっと書いてみました。

 

日々ほんとに忙しいものの、ものすごく充実していて、もしかするとこんなに充実してるのって、生まれてはじめてなのじゃないかしら、、と思えるほどに楽しいです。たいへんだけども苦にならない。

 

とにかく日々驚きの連続で、そのなかのひとつは食べもののこと。

からだにいいもの悪いもの、マクロビ、ヴィーガン、必須栄養素といった食べ物神話が文字通りガラガラと音を立てて崩れてまして、正直2,3日、フードショックで落ち込んだりしてましたが、とりあえず自分の食生活、というか、食べるものとのつき合い方について、完全なる見直しに入っています。

 

クラスが終わるまではくわしい内容とか書けないですが、とにかく、巷の噂や知識は信じるなと。

自分のからだに聞いてみろよと。

 

そんな感じで、以下は一昨日のわたしの朝兼昼のごはんです。

 

 

 

キヌア、クスクスのサラダ、ケール、トマト、じゃがいも、きゅうり、スナップエンドウ、セロリ、レーズン、オリーブ、チーズ、その他いくつかとフルーツ。

おしゃれ〜って感じかもですが、見た目で選んでいるわけではまったくなく、フードチェックして残ったもの(してないものもありますが)、いまはまだ消去法に近い感じのチョイスなのでございます。

 

そんなわけで、そろそろ行かないとなのでまた!

そうそう、3月なんですよね〜こっちは今日が1日ですが、どこにいてもいい感じの毎日を☆

 

ではでは〜〜

 

 

 

 

 

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2月〜3月のスケジュールです。

 

完全に1日間違えていて、気づいたら2月に入っていてわお! という感じですが、

今月後半から3月にかけてちょっと日本を離れるため、スケジュールについてお知らせです。

 

 

★メディスンカード・リーディング関連

2月16日(木)〜3月19日(日)までお休み

 

 

★フラワーエッセンス関連

2月11日(土)〜3月17日(金)までお休み

 

2月の受付は9日(木)の夕方まで

 3月の受付は18日(土)から、発送は早くて23日(木)の予定です。

 

 

フラワーエッセンス関連の方は、ちょっと間が空いてしまいすみません! なのですが、

連休をはさんでいるため、窓口のお休みと郵便の関係で、どうしてもこのスケジュールになってしまいます。

なにとぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

スケジュールとは特に関係ないですけど、

やっぱり音楽はいいなあと思う今日このごろです。

 

というわけで、また。

いい感じの2月で☆

 

 

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★2017年1年間のメディスンは こちら

「チャクラバランスを整えるキャンペーン」2/10まで延長することにしました。

 

 

 

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