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メディスンカード・リーディング
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今日の(限定というわけではない)メディスン

 

こどものころから心臓にちょっとした疾患があるせいかもですが、

基本、すわりの脳仕事だからというだけでなく、

血流とか代謝がもともとあんまりよくないのも肩こりとかが慢性的になりやすい要因なのかも、

で、すわりっぱなしの脳フル回転が続くと深度がまして動けなくなる、というパターンになってるのかも、と、

まあとにかくあんまりからだが痛いので、昨夜寝る前にすごい簡単なヨガと、今朝起きて軽いストレッチ&からだがかたいひと用の簡単なヨガをyoutubeでみながらゆるーく20分くらいやってみたら結構すっきり、

で、今日のメディスン出してみるか、と思ったら、まさにこれじゃん! という感じで、

 

 

テーマは「どける、あける、流れを戻す」。

 

 

すべてのものって、循環してる。

これはイメージですが、全体というものの大きな流れと同時に、

それぞれ固有の流れがあって、

それは周波数でも素粒子の動きでもなんでもいいですが、

自分、というものにも固有の流れがある。

 

もしも何か滞っていたり、動きたいのに動いてない、動けない、という感覚があるなら、

それをせきとめている何かがたぶんある。

 

せきとめているものが発生した理由は、さまざまだと思うんです。

でも、そんな理由はとりあえずよくて、

とにかくどけていったらいいじゃないかと。

 

めんどくさいとことか、きびしいと思うところはあとまわしでもいいじゃん。

そもそもそれがたいへんなこと、でかいこと、って判断してるのは頭なんだし、

ほんとにそうかどうかなんて、わからない。

わからないなら、すくなくともいまはほっといたっていいじゃん。

 

それよりもいま向かいたいと思う方向、それ自体はどこなのか。

 

 

目の前の、すぐ手を伸ばせばつまんで別のところに移動させられるものからでいいし、

ほんとにゆるーく5分、からだをきもちいい感じに動かすだけで、

ものすごい数の細胞や液が動き、すくなくとも血管やリンパの流れはその5分前よりもスムーズになる。

 

からだの可動域がほんのちょっとひろがるだけで、

思考じゃなく、“ひらめき”の数が増えるかもしれない。

 

 

どけて、あける、

いろいろきびしいんなら、

かるく、ゆるいとこからでいい。

 

“それ”をらくだと感じるひともいれば、

難しいと感じるひともいて、

どっちにしても、判断してるのは頭であって、真実ではない。

 

だからあくまでも自分というものの“感覚”で、

どっからいったってやったっていいじゃない。

結局、求めてるほんとのほんとのものって、

たぶん同じなんだとおもうから。

 

 

ここちよくあるということ。

結局、それが自分というものの通常の流れ、なんじゃないですかね。


 

 

というわけで、今日のメディスン、とふれこんでますが、

この時間であり、別にいつとかこだわらなくていいし&そんなに毎日いろいろやんなくてええがな、と思うので、

とりあえず、なんかどけてみてくださいな。

ゆるゆる運動だけでもすごいいいとおもいます。

毎日何か1個捨ててみるとかも。


 

 

あ、あと、お知らせ忘れてました。

 

明日17日(土)18日(日)13:00〜18:00、Ruby in the Sodaという雑貨屋さんで開催される「西麻布蚤の市」というイベントに、ブレードやボタンやビーズなど、ちょっと手芸材料を出してます。

わたしはもしかしたら明日ちょっとだけ顔を出すかもですが(リーディングとかはしません)、

いろんなひとが不思議なものやかわいいものなどいろいろ出品してるので、ぜひぜひ見に行ってみてくださいませ。

 

 

というわけで、明日からまたちょっといそがしくなるので、

これからちょっとぼっさりしてきます。

 

では、めくるめく週末を☆

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

| ANANYA | メディスン | - | - | - |
正論、日常、視点、方向

 

今週めちゃめちゃ忙しく、お灸に膏薬、アロマにエッセンス等々、投与しつつ健康に戻しながらの作業諸々、いままさに今週のピーク、という感じなのですが、

ちょっと書いておきたいな、と思い、すこしだけ。

 

正論って、いったいなんなのか、ほんとに正しいものなのだろうか、ということ。

 

これ、ほんとはもっとまとまってから書こうと思ってたことなんですけど、とりあえず。

 

 

正論と呼ばれるものって、ひとによってもちがうし、地域、国、立場、もっといえば時と場合によっても変わるものだと思うんです。

 

まず「誤」があるから発生、いや、最初に「ひとつの論、考え」があって、その後にそれに異や対するものが発生したことにより、最初の論を「正」としたのかもしれないけど、それはさておき、というか、それさえ時と場合、場所によって変わりますよね。

 

とにかく、そもそも正しさそれ自体が変わるものであって、絶対でも真実でもないということ。

感覚とか集合意識によるそれとか、モラル、それももっと根源的な感じの、そうした意味での当然さ、いわば正義、と呼ばれるレベルのものでさえ、ほんとうはそうだと思うんです。

 

これ、いいとかだめとかわるいとかの話じゃないですからね、よもや正誤などとは。

 

 

で、とりあえずここに書いてるのは、非二元的(あえて)な視点からみて、という話で、すべては正しいし間違っているし、正しくないし間違っていない、全部よいしわるいし、よくないしわるくない。

相対するもの、がない、だから対するものが発生するとしたらそれはジャッジによるラベル、つまり分離(すんません、ここ核心本質(あえて)だけど飛ばします)。

 

 

ただ、

“非二元だから”、正しいも間違いもない、というのが「考え、論」になったら、これはもう非二元じゃないんですよね。

 

つまり、

正しいも間違いもない、だからジャッジしてはいけない、

と一見それが“正解”にみえるそこにはまさに“正しさ”があり、それが“正しい在り方”、になってしまう。それはもう完全に二元、でしょ。

 

 

って、混乱するかもですが、そもそも思考、マインドの視点からそうでないもの、というか言葉にできないものを“実践”(あえて)しようとすること自体が、、、であり、覚醒者でもないのに非二元二元語るな、という感じですけど、

普通の意識(あえて)の人間がいかに思考、エゴ、マインドにとらわれずに生きるか、しかもグルのもとやアシュラムでなく時間という概念のもと、日本という国の、ひとつの街で、これ小説ですか映画か何かっすか? といったびっくりするような展開の続く非日常のような日常のなかで、どう過ごしてくのか。

 

 

とりあえず、自分、というものの視点、意識の方向がどこを向いてるのか。

それだけでも、みてみてもいいんじゃないかな、とおもいます。

 

これ、日常のことを言ってます、自分というものの、とても身近な日常の、自分の、自分だけによる、自分のためだけの視点、方向。

 

 

 

というわけで、タイトルがあんまりぴし、っときてない&落ち着いたら本文書きなおすかも&加筆するかもですけども、

今日はこのへんで。

 

ほんとに、いい感じの毎日を☆

 

 

 

 

 

 

 

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ゆっくり休むということ

 

結構つかれがたまっているらしく、ひとつ何か終わるとぐったりで、何年か前から2,3日動けなくなる、というのが年に数回あって、とりあえずはりや整体や何かに行く、というのがパターンになっていて、で、去年の夏に不整脈、と、この週末はひさびさにその感じ。

 

振り返ってみると、去年はたまたまちゃんと脈診とってもらったからわかっただけで、いままでもこの感じのときって、脈ちゃんと打ってなかったのかも、この数日もまさにそうなのかも、と思いました。

 

しかもここのところ、満月の日に月のものがくるというサイクルに戻ったので、くると今日は満月なのか、とわかるんですけど、それもあって重だるさがましてなお動けず、、なのに、メール返さないと、とか、あれ調べないと、とか、からだはもうだるんだるん&頭もなんというか白いものがぼーっと続いてる、みたいな感覚で無理っすー無理っすーまじ無理っすよ〜〜という感じなのに、あれやんなきゃこれやんなきゃ、って、できないのにやろうとしてしまうんですよね。


 

完全に起き上がれなくなるくらいになると、もう動けないのでひたすら寝るのみなのですが、ほんとはそこまでにいかないように、普段からちゃんと休む、という時間をつくる必要があるんですよね。

 

でも、こう、なんというか、ゆっくり休むって、難しいな、と。

 

ひとにはしょっちゅう言うくせに、自分のこととなると難しい。

それに、自分的には結構休み休みやってるつもりなんですよねえ、川でぼっさりもよくやってるし、仕事完全抜きでひととも会ってだらだらしゃべったりしてるし。

 

でも、ほんとにゆっくりした時間をもつというのとは、たぶんちょっとちがう。

そしてこれは、緊張というものや、サヴァイヴァルの感覚にも関係してると思います。

というか、そもそもゆっくりした時間をもつ、の前に、動けないときに動こうとしてしまう、という動きが発生するなんらかの理由がある。

 

って、考えはじめるとまた頭がぐらんぐらんになるわけですよ。

そう、何か思いつくとどんどこ先を知りたくなってしまうこの性質もよくないんだろうな。。

 

 

とにもかくにも、

気圧に左右されやすい季節も到来したことですし、からだの性質でいえば自律神経のバランス崩れやすいので、

ゆっくりしながらいきたいものですな。

 

 

というわけで、また。

らくな感じの一週間を☆

 

 

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「6月のメディスン」出してます!

 

「チャクラのバランスを整えるキャペーン」再開してます!

 

よければおためしを〜☆

 

 

 

 

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うつろいゆくすべては

 

先日、友人とお昼ごはん&銀ブラした帰りに編集関係の知人と道でばったり、実はもう10年以上、ある季刊誌の仕事をしているのですが、なんとネットに移行することになり紙媒体の発行が終了とのこと。

 

ちょうどロスに行ってる期間とその仕事の時期がぶつかっていたので、その号はお休みしたんですよね、で、本来ならもう次号の作業があるはずなのに連絡がないので、これははずされたかなーと思っていたのですが、急に決まったそうで、ちょっとびっくりでした。

 

今週はひさびさに終日通いの編集仕事で目が取れそうなほどぐったりで(笑)、内容はその媒体とは直接関連はなかったのですが、資料などを見ながら、なんというか、本とか雑誌とかに限らずですけど、仕事というのは、結局のところ、なんなんだろうかなあと思ったりしました。

 

特にこのことについて何か言いたいとか思うところがあるとかじゃないんですけど、

ほんとに、すごいたくさん、仕事と呼ばれるものがあるよなあと思って。

で、自分なりに、とりあえず自分と仕事、自分の仕事、というものについてちょっと考えてみようかな、と。

 

 

それにしても、あらためてみてみると、ほんとにいろんなことが動いてますよねー。

直接自分の身に起こらないとなかなか実感をもてないけれども、

常にいろんなところでいろんなことが起こり移り変わってる。

変わらないものなど何もなくて、自分のなかににぎりしめとどめ置かなければうつろいゆくすべてはまぼろし、って感じですな。。

 

 

というわけで、まだちょっと目がとれかかっているので(笑)、このへんで。

 

今晩はやわらかめにごはんを炊いて、明太子と海苔のっけて、大根煮たのでいっしょに食べて、

ゆっくりお風呂につかろうとおもいます。

 

 

ではまた〜。

 

 

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6月のメディスンのちょっとした解説

 

早速メディスンの感想メールなどをいただき、こういった反応があると、ああ書いてよかったなあ、と思います。ありがとうございます。

 

ゆるめる、ひろげる、はずしてみる、というキーワードから、こうしてみようこうしたらよかったんだ、とひらめくひともいれば、そのとおりだけれどどうしたらいいのかわからない、というひともいます。

 

本質的なこと、つまり具体的にくるしいことがあって、それをどうにかしたい、らくになりたい、と思うわけですが、いっきに全部解決したい、と訴えるのはやっぱり思考/エゴ/マインドなんですよねーこれが。

 

一刻も早くこの苦しみを〜と、自分のためを思っているようでも、その声によってさらに自分が追い込まれていくことに気づかない。なぜならそれはただの思考、文字面にしかすぎないことだから。

 

一見とっても考えてるようで、実はほんとに自分のためになることなんて考えてなんかいないんですよ頭って。それっぽいセンテンスを繰り出してるだけ。よーくみてみるとわかりますが、提案にさえなっていなかったりする。

 

 

はずしてみてください、というのは、それです。一見それっぽい感じの文字面です、なんかすごい考えて考え抜いているようだけど全然解決しないそのセンテンスのぐるぐる感と、それを繰り出している仕組みそのものをです。

 

つまり、「どうにかしなくては、ではどうしたらいいか」という問い、それ自体をはずしてみる。

 

 

ぐるぐる感をゆるめるとするなら、あれがこうでこうだからこうで、わかってるけどこうしたらこうなってこうだから、、という一連のぐるぐるでできたかたまりを、逆回転するようにもとのところまで戻してしまう。

でもそれめんどくさいですよね、だからはずしちゃう。

 

するとまたなんか言ってくるわけですよ、「それじゃなんの解決にもならないじゃないか!」と。

でも、「どうにかしなくては、ではどうしたらいいか」、

これ自体をはずしてしまえば解決する必要のあること自体が発生しない。

 

「そうかもしれないけどさー」「それでいいわけ?」「そんなことしたらもっとひどいことになるんじゃね?」という声。

 

結局は、この繰り返しじゃないです?

でもそれは真実なのかと、ほんとにそうなってしまうのか、と。

 

わからないんですよ、どうなるかなんて。

だからとりあえずでいい、はずしてみようじゃないかと。

 

で、さらにひろげてみてみると、ほんとにくるしめてる“思考、考え”はなんなのか。

気づくことがあるかもしれないし、ないかもしれないけど、

とりあえずさっきよりはらくになってるんじゃないですかね、って。

 

で、ほんとうのこたえというものが、そこにあったりするかもよ、って。

 

 

というわけでまた〜。

 

 

 

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6月のメディスン

 

前回からの流れで出してみた今月のメディスンです〜。

 

 

 

6月のメディスン****************

 

 

テーマは「ゆるめる、ひろげる、はずしてみる」。

 

すべてのものごとはいいもわるいも正しいも間違いもなく、「ただ起こっている」だけですが、

頭/思考/エゴ/マインドは、“わたし”が「考えて」「選択し」「結論し」「行動している」と思っている。

 

それがうまくいくかどうかは神のみぞ知る、で、

うまくいけば“わたし”ががんばったから、すごいから、あるいは神ありがとう、となり、

うまくいかなければ誰かや社会や何かがわるい、または自分がだめわるい、神いない、と判断します。

結局そうでしょ、そういうものだよと。

 

でも思うのです、それはほんと? 

誰が言ったの、決めたの、どのあたりのルールなの、と。

 

 

もしもいま何かはりつめたように思うことがあるなら、

常に、ではなくても、それを思うときつらく重く苦しくなるのなら、

とりあえず、ちょっと自分をゆるめてみてください。

 

 

たとえばからだ。

何かストレスが発生すると、脳の分泌物質の増減が起こり、

血管は収縮し、血流も心拍数も変わります。

具体的な順番やプロセスはさておき、

筋肉、臓器、からだのすべてに変化が起こり、

それはひとつひとつの細胞が、「やばーい無理ー」とダメージを受けた班と

「事件や事件や〜なんとかせねば〜〜」と対処のために奔走する班とが

それぞれの動きと連携でもってせめぎ合っているかのようで、

のぞいてみたら、結構すごい光景かもしれません(それとて、そうした動きが起こっているだけなのですが)。

 

そしてそれは間違いなく、健康、というものにかかわっている。

 

 

脅かしたいわけではありません。

ただ、からだはそうした仕組みで動いている。

そして、こころに起こるつらさやせめぎ合いはからだのなかで物理的な動きとしてあらわれ、

どちらも、自分の目でみることはできない。

 

だからなかなか気づくことができないんです。

いま、自分に何が起こっているのか。

 

 

とりあえず、ゆるめてみてください。

肩、背中、腰、はりつめた筋肉、

考えや思いでいっぱいの頭は相当硬くなっているかもしれない、

呼吸も浅くなっているかもしない、

ほっ、とひとつ息を吐いて脱力、

ひとつひとつの血管、筋肉をほぐすように、細胞がスムーズに動けるように。

 

 

そこで視界をひろげてみてください。

頭のなかにあるその一点、つらさや重さ、はりつめた苦しみのもとをそこにおいたまま、

まわりの風景をどんどんどんどんひろげてみる。

 

新しい何かがみえてくるかもしれないし、みえてこないかもしれない。

けれども頭のなか、目の前の世界は、それだけではないことには気づくと思うんです。

 

そしたらその一点を、とりあえず、そこからはずしてみてください。

一時的にでもいい。

そのとき、もしかしたら発生したつらさや苦しみといった感情だけでなく、

それ自体が必要なかった、と思うかもしれません。

 

そんな感じでどんどんひろがって、

とりあえず、軽くなってみてもいいんじゃないでしょうか。

 

 

頭のなか、こころのなかにできたかたまり、はりつめたものは、

ほんとうの自分に反したルールをなんとか守ろうとした結果、経過なのかもしれません。

自分のほんとうの意図や計画やそもそもの思いとは、

ちがう方向に向かっているのではないかというサインなのかもしれない。

 

もしも、あなたがいまのっているそのルールが、あなた自身の本来の流れに沿っているのなら、

たぶん、からだはわざわざゆるめる必要もなく、ゆるやかに、しなやかに、勝手に動いていくと思うから。

 

 

*********

 

 

余談ですが、前回の話の続きでいうと、

結局のところマジックって、法則の外で起こる事象といえますよね。

もっといえば、“予想外のこと”。

データや思い込みの外ってこと。

 

データってあくまでも統計であって真実ではないし、

思い込みって、雰囲気です。

 

でも奇跡と呼ばれるできごとって、

うそっぽいのに、なぜかその体験は、とてもくっきりとしてる。

 

what’s the REALITY??

 

 

ではまた☆

かろやかな毎日を☆

 

 

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続・法則、マジック、カラスのメディスン

 

きのうは燃えるごみを出す日で、お昼を過ぎてもごみの袋がうちの周囲に点々と置かれていたんですけど(思えば燃えるごみだけ収集時間が遅いのも謎)、いなーい、カラスが全然いなーい、うそ〜〜〜という感じで、少なくともわたしが家にいる間は、ほんとに現れなかったんですよね(そして今日も)。

 

以前、知人の家の真ん前だかにカラスが大量発生してものすごい困っていて、カラスのエッセンスをとってみたところ、翌日ぴたり、と鳴き声が止まり、次の日もまた次の日もまったく現れなくなった、と言ってたのですが、そういうことってありますよね、まさにマジック! 

 

いってみれば、上のような例、つまり「起こるはずのないと思われること、起こるかもしれないけどそうそう起こらないだろうこと」がマジックとか奇跡というものの定義になっていて、実際に起こるとびっくりしたり、すごく喜んだり、特別と思ったり、または偶然とか認めない信じないとか、信じてもらえない、といった反応、思考が起こる。

 

でも、そうした定義や、大、小、稀、といった比較の判断がなければ、もうそこここで常に起こっているひとつの事象なんですよね、

って言ってしまうと、今度はドラマティック感がなくなり何かつまらなく感じてしまう。

これこそがストーリー、時間、二元の魅力であり罠なんですな。。

 

 

でもさ、その背後には「それは奇跡/その程度では奇跡と呼べない」といった比較からの条件付けが存在しますよね、

これって結局は定義、つまり法則、ルールという基準に合ってるか否かなのよね。

そこにあてはまってるか否か、で罪悪感が芽生えたり、もちろんあてはまってることで安心したりもする。

 

どっちにしても、それがあることで自分の思いや行動が左右される、それこそ大小稀特別感関係なく、ひとによっては「え、そんなことで悩むの??」と驚かれるくらい全然条項統一されてないものにふりまわされてしまう。

 

そう、その基準、まったくワールドスタンダードじゃない、

むしろ「その程度ではルールと呼べない」。

守ろうとしてるのが自分だけだったりするのなら、もうなんのためのそれであり、誰のために合ってたらオッケーなのかと。もっといえば「それ必要ですか?」と。

 

ほんと、パラドックスですよね〜いやメディスン風にいうなら聖なる二律背反か。

 

 

というわけで、長くなってきた&

とりあえずきのうカラスがいなかったことから、メディスンのリアル感高まった〜〜という感じで、

6月のメディスンを出してみました。

次のポストに書きますね。

 

 

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法則、マジック、カラスのメディスン

 

いまの地域に越してきてから驚いたことがいくつかあるのですが、ひとつはごみの出し方。

 

いままでは、ごみを出す場所がだいたいその区画ごとにあって、そこまで持って行ってたんですけど、というか、そういうものだと思ってたんですが、いまの地域は(うちのまわりだけかもですが)、それぞれ自分の家の玄関の前に出すんです。

 

つまり、ごみの日は一軒一軒、家の前にごみの袋が置かれる、道路をみると点々とごみの袋が並んでる、ごみの収集のひとたちは一軒一軒、順番に集めて車に載せる、越してきてはじめてのごみの日のこの光景は結構衝撃で、これものすごい効率悪くね? 見た目もどうなのと思うし、と思ったものですが、さらに驚いたのはごみのネットをどこもかけていないこと、そう、カラスが来ないんですよ。

 

 

以前住んでいた地域はもうカラスとの攻防戦が常に繰り広げられるようなところで、うちも球根などを植えると翌日掘り返される、咎めるとその代替なのか、毎日なぜかその植木鉢にケチャップの空容器が置かれているなど、個人的なやりとりが起こるほどにほんとにたくさんいたのです。

 

いまの地域は夢の島熱帯植物園まで自転車で30分くらいなので、イメージとしてはさらにカラスが多いだろうと思ってたんですよね、ところが全然みない、近所の川には白鷺みたいなでかい鳥がふぁさーふぁさーと羽ばたきながら帰ってくるような鳥たちの根城になってるほどの鳥天国なのに、鳴き声さえほぼ聞かない。

 

 

ところが、ほんとに最近、急にカラスを見かけるようなったのです。

日に日に数は増えて、つい先日は、洗濯物を干していると電線にとまってる彼らと完全に目があうくらいの距離感になってきた。

 

おす、と声をかけるととまどったりする。時間帯によっては、ちょっと静かにしてもらえる? と抗議しなくてはならないほど鳴く。

これは、ここに越してきて以来、はじめてのことです。

 

いままでは、いなかったことのほうがおかしいと思っていたけれど、こうなってみると、明らかに何かが変わったのだな、と。

 

 

メディスンカードのなかには、普通のカラス(CROW)とワタリガラス(RAVEN)と二種類いて、それぞれ「法則」「マジック」という意味を持っています。

 

普段、メディスンカードのメンバーの実物やモチーフになっている何かをふいに見かけたときなどは、なんらかのメッセージとして意識的に受け取ります(普通の住宅街を歩いているのに立て続けにカメをみかけるとか、突然フクロウを肩にのせたひとと遭遇するとか)。

 

ここまで急に頻繁に、身近に彼らが現れているというのは、自分にとって、まさに「何かのメディスンが近づいている!」という意味ととらえます(ネイティブ・アメリカンのほんとのメディスンマン&ウーマンも、こんなふうに日常や世界を読んでるんだろうな、というか、リアル!)。

 

早速、最近の自分の様子、あるいはこれまでのささいなことでもポイントとなる何かと照らし合わせてみます。

たとえば、あれとこれ、自分の気持ち、経験、といった断片を、あらためてまな板の上にのっけて眺めてみる感じ。

 

そこにメディスンを重ねてみます。

すると気配のようなものがやってきて、ぴた、っと像を結びます。

そして「なるほどねー」となる。

 

 

カラスもワタリガラスのメディスンも、とても密接です。

今回のような場合には、両方で読んでみます。

 

 

自分のルールについて、地球という三次元の場所ならではの引力や磁力も含めた宇宙の法則というものについて、

さらには物理的なこと、エネルギーの方向、三本の指をつかってやりましたよねフレミングの法則、

あれ、全然メタファー(いや物理的な現実の説明か)ですよね。

 

で、自分というものの時間軸に重ねてみると、おお沿ってるね、あるいはもっと沿ったほうがいい、沿うべき(あえて)と感じる。

 

 

って、抽象的な書き方をしてますけど、

 

現在の自分の状態、状況、道程等々と、

社会か地域か家族か具体的な誰かなのか、とにかく自分が意識無意識にのっかってる「法則、ルール」と、

自然、宇宙、根源的なそれとは呼応しているか、それとも全然ちがう方向を向いてるか、

のっかっていきたいのはどっちか、あるいはルールそれ自体必要なのか否か。

 

そして、

 

「あなたという場には、いつでも奇跡が起こっている」

 

という言葉をどうとらえるか。

 

 

と、いつもとちょっとちがう角度からのメディスンを、解説を交えて書いてみました。

 

 

ちょうどいまも、まあまあ近所でカラスが数羽鳴いてます。

さてどうなりますかね〜。

 

 

 

というわけで、

 

自分、と思っているものの下(?)または壁(?)の向こうの何か。

 

 

ではでは、いい感じの1日を〜。

 

 

 

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Hope our paths cross again.

 

見知らぬひとによく声をかけられる、と、先日書きましたが、先ほど郵便局に行って、帰ろうと自転車のカギをはずしかけた矢先、「この道の名前はなんですか、秋葉原まで行けますか」と、同じく自転車に乗った外国人の紳士に声をかけられました。

 

とりあえず道の名前と、途中で曲がれば秋葉原まで行けることなどを伝えると、ほかの道についてはどうかなど聞かれ、その紳士は自転車で秋葉原に行ったことはあるが、どの道を通るのが最適かということでおたがいのベスト経路についてディスカッションがはじまり、彼は世界中を飛び回っているとのことで、自分はどの国でもだいたい自転車移動、東京はひろいというけどそうでもないなど、街の事情から治安、宗教、政治、とどんどん話がふくらんでいったのでした。

 

 

適当なところで帰ってもよかったのですが、その紳士がわたしの年齢をぴたり、と当てたことに驚き(いまだかつて当てられたことがないので)、このひとはどんなひとなのだろうという興味でとりあえず話を聞いていたのですが、なんか経歴が華麗というかドラマティックというか、スパイor詐欺師? と疑いたくなるような展開で、まあ、自分をだましたところでなんの得にもならないけども、、と思いながら聞いてました。

 

 

ところが、わたしの反応があんまりよくなかったのか、「何か質問してよ質問!」とせまられ(笑)、でも口を挟むタイミングもないくらいのマシンガントークだったし、なぜか特に聞きたいこともなかったんですよね、ただその方の自転車がママチャリだったので、それは誰のものかというのにはものすごく興味があったんですけど、なんとなく聞いたらいけない気がしたし、何か偉い方っぽいので名前とか聞くのもなあと思ったり。

 

すると自ら名乗ってくださって、ちゃんと覚えた? と念押しもされ(笑)、調べたりはしてないんですけど、ほんとにいろんなひとがいるなあ、と。

 

 

あとで時計をみたら、30分以上経っていてびっくり。

あの紳士は何が言いたかったのだろうか、と思い返してみると、

結局のところ、やっぱり愛についてなんだろうなあと。

 

別れ際、「ありがとう、またどこかの道で!」と手を振り、紳士は去って行ったのですが、

ちょうど夕日がさしていて、いい感じでした。

 

 

見知らぬひとと話すのは楽しいですな。

しかも、自分とたぶん全然ちがう世界をみているひとは余計に。

 

またどこかの国に、猛烈に行きたくなってきました。

 

 

というわけで、また。

 

 

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※郵便料金改定のため、ちょっとだけ料金が変わります。

↑のページをご覧くださいませ。

 

 

 

 

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体験、記憶、相対するコマンド

 

きのう、どうしてもまたあのナイス・スポットに行きたくて、とりあえず作業をぶん投げ、自転車飛ばして行ってみたのですが、こっちの地域って、川ばっかり&高い建物があんまりない&すこし行けば海、という環境のせいか、とにかく風がすごいんですよね。

 

で、スポットに到着するとちょうど強風が、それも結構な量と圧で吹きすさんでおり、このままここにいたところで、先日のようなここちよさは望めまい、と思い、近くのスーパーまで戻ってトイレを借りて、するとなんだかおいしそうなピザが並んでいたのでつい買ってしまい、何やってるんだろう、、と思いながら、とりあえず近所の川べりでちょっとぼっさりしてから帰ろう、と、また自転車を走らせたのです。

 

で、走っているうちに、そういえば、と、ある場所を思い出したのでちょっと寄ってみると、風もほとんどないし、気持ちいいじゃん、、という感じでしばらくぼっさり。

 

木々と土のせいか、しっとり落ち着く、新たな読書&ぼっさり場となりました。

 

 

 

 

 

ベンチ前の風景はこんな感じ。

 

 

 

帰りながら思ったのですが、

ひとって、やっぱり記憶だよなあ、と。

 

たとえば、恋愛がわかりやすいと思うのですが、

楽しかったり、すごく理解し合えたと感じたり、気づかせてもらったり、受け容れてもらったり、いろんな素晴らしいと感じる経験をしたひととの関係が終わりそうになったりすると、「あの時間」の数々を振り返り思い出し、「戻りたい」「あの感覚をもう一度!」という思いが「このひとでなければだめだ」となって、執着というものにつながったりするんですよね。

 

 

ひとって、その体験にこころが動かされれば動かされるほど、この場合でいえば、幸福感とか安心感とか、一体感、愛ともいえるかもしれないけれど、それが「特別」でとっても「重要」で、「大切なもの」という“ラベル”とともに記憶されて、「これ以上の体験は起こらないかもしれない」が選択され、「それじゃなければだめ」が選択され、極端な例だとそれ以外は「却下」になるんですね、ほかは認めないよ、と。

さらに「良い」「正しい」が追加されもしたり。

 

けれども、結局のところ、そこには自分がその経験によってなんらかの思いが満たされたという感覚、

その記憶が発端だと思うんです。

で、それが大きいと感じれば感じるほど、より求める。失いたくない、になったりする。

 

 

その体験の逆方向が、恐怖、絶望感、罪悪感、惨めさ、孤独、といったラベルが貼られた記憶で、上の例が「求める」なら、こっちは「避ける」というコマンドでもって対応すると。

いらない、むしろ失くしたいよと。

 

 

もちろん、そんなに単一的ではなく、そこからさらなる選択が起こり、このケース、また別のケース、というように、それぞれのラベルとコマンドの詳細設定が日々行われ続けている。

 

で、あるとき、このケースはどうしたらいいのだよ〜と迷ったりして、

でもそんなときが、チャンス(どんな?)なのかもですね。

 

 

とりあえず、「求める」と「避ける」、

これにとらわれないと、すごーくいろんなことがスムーズだなあと感じます。

 

もちろん、求めちゃいけない、避けちゃいけないわけではないです。

車にぶつかりそうだったら当然避けるし、

喉がかわいてたら水を求めるよ砂漠だったらなおだよ、

(って、なんか、例がぱしっ、とこなくてすんません、届け! 言いたいこと!)

 

 

どっちにしてもそうなったらそれはまた掟となり、今度はそれらがコマンドになるわけですが、

それを生み続けるその正体は誰なのか、なんなのか、と。。

 

 

結局のところ、こっちがこうだったらこっち、という

この仕組み(あえて)に乗っかっていく限り、

だったらこれはどうなの? が延々と続くわけですよね(つまり正しいか否か、良いか否か)。

しかもその発端は記憶であり、時間なのだと。

 

 

でもね、

その記憶に揺れ続けて生きていくのが人間、とも思うのです。

 

とはいえ、

あの素晴らしい体験以上のものは結構そばにあるかもしれないし、

あのひどい体験もまた起こるとは限らないということ。

 

あえていうなら“正解”は「ほんとのことはわからない」。

 

だから、なんの記憶も経験もぶっ超えて、

そのときの感覚、でいけばいいんじゃね?

 

(と書きつつ、「わかってるけどさ〜」という何者かの思考が、、)

 

 

というわけで、また(笑)。

 

 

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「チャクラのバランスを整えるキャペーン」再開してます!

よければおためしを〜☆

※郵便料金改定のため、5月30日午後〜のお申し込み分から料金が変わります。

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