texted a ANANYA

メディスンカード・リーディング
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言葉と何か、

 

今月前半、自分基準ですけどかなり仕事をしていてブログ更新できず、チェックしてくださってる方々、すみません。

というか、今月書くのはじめてなんだ、うわーびっくり。。

 

ひさしぶりなのに早速食べものの話からいきますけど、

普段は2食なのに、出かける前にパンを、それも食べとかないと動けなくなったらいやだから、みたいな理由で、味わうよりいれとく、とか、やはり疲れもあって、とにかくおなかがいっぱいになればいいみたいな食べ方になるんですよね、自分は。

なので、忙しいとむしろ体重が増加傾向にある気がします。

 

 

書いてて思いましたけど、なんか食べ方がサバイバルっぽい、でも実際に肉体としてのサバイブではないので太るのかも。つかってるのからだよりも脳だもんね。

 

 

自分がとりいれてる糖質制限って、ただ炭水化物や糖質を減らすというより、高たんぱく質をたくさんとりましょうという方法、

で、食のこととは別件で遺伝子や神経伝達物質や分泌物のことを少しずつ勉強してるんですが、遺伝子って実のところたんぱく質ですよね、で、海外のサイトをみてると当然ながらproteinと表記されてる。

 

プロテインという言葉に置き換わると、すぐに結びつくのがわたしの場合はスポーツ関連、筋肉をより鍛える、みたいなイメージ。

だから、自分にはあんまり関係ないように思ってたんですよね。なんか、普通の生活をしてるひとには特別視する必要のない物質という感じで。

 

ところが、そんなことは全然なく、まだ全然勉強中&用語覚えるだけで……なので、たいしたことも言えないんですけど、とにかく自分のからだというものの主な成分なんだと。

たぶん学校で習ってたと思うんですけど、もう全然忘れてましたよね、すいません、という感じです。

 

 

プロテインといえば、で、もうひとつ思い出したこと。

 

ロスで滞在していたホテルの住人のひとり、ブラックとホワイトのハーフかもしくはプエルトリカンかなと思うんですけど、キッチンでごはんをつくってたら、ものすごい数のたまごを彼がゆでてたんですよね、で、こんなにどうするんだろう、と思っていたら、察したように「驚いたか? これはプロテインだ、もちろん一度に全部食べるわけじゃないぜ、俺はクレイジーじゃない」と言って、たまごいっぱいの大きなボウルを抱えて颯爽と去っていったんです。

 

彼はほとんど誰とも話さず、黙々といつもちょっと偏った感じのものをつくっていて、いつだったかスムージーを大量につくっていたときに、思い切って「あなたはアスリートなの?」と聞いてみると、ものっすごい怪訝そうな顔をされて(笑)、「アスリート? お前何言ってんだよ、全然そんなんじゃない」とのことで、そのあとすごい早口でいろいろ言ってたんですけどよくわからず、最後に「まあ、気にするな」と言って去っていきました(笑)。

 

いま思うと、間違いなく彼は糖質をおさえた高たんぱく質食をとっていたわけで、ああいまだったらいろいろ聞きたいことあったのになーと。

 

 

そのホテルに滞在していた日本人は、クラスメイトとほかに長期滞在、というかほぼ住んでる男性たちが4名くらい(年齢ばらばら)、それにアメリカ、ハワイ、アフリカ、そのほかどこ出身か聞いてないひともたくさんいるんですけど、ほぼ住んでるひとたちが多く、年齢もバックグラウンドもそれぞれで楽しかったです。というか、すごいキャラの立ったひとたちばっかり(笑)。

 

食事は共同キッチンがあるので、行くと誰かがいて、どのスーパーが安いかとか、それはどこで売ってるのかとか情報交換やおかず交換したり、楽しかったですね。

 

日本人のひとたち以外は誰も日本語を話すひとがいなかったので英語で会話、というか、どの国でもそれは同じですよね。

 

 

よく自分は英語ができないから、というひとが多いですけど、それってちょっとちがうなと思う。

できないんじゃなくて、つかわないだけだと思うんです。

 

わたしは全然ネイティブじゃないし、勉強という感じでしっかりどこかで学んだこともないし、独学といえるほどでもない自習による実践とフィーリングスピーキングです。

でも、声をかける、行きたいとこはひとりでどんどん行く、どうしても好奇心が勝ってしまう。

 

話してるとわかってくるし覚える、わからないことは、知りたかったらわかるように何度も聞く、それでもわからなかったらわからないことを伝える。で、ごめんね、って言う。

するとあやまることはないよって言ってくれるよね、だいだいのひとは。

 

って書いてみて思ったんですけど、こういうコミュニケイトのやり方、日本ではあんまりできてないな、って。

それはなぜなのか。

 

 

と、長くなったので、この言葉とコミュニケーションのこと、また書こうと思います。

いろいろ思うことありますよね。

 

 

というわけで、ひとまずまた。

明日あさっては仕事なしで、午後はちょっとした勉強、夜はひさびさの友人らと連日晩メシの会の予定で、

楽しんでこようと思います。

 

 

東京はずっとくもり雨&湿気がひどくて別の生きものになりそうな感じですが、

この圧にもっていかれませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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自分の居場所、自分の範囲

 

先日はひさびさに鎌倉〜逗子〜葉山方面へ行き、もう東京に帰りたくない〜と駄々をこねたくなるような開放感を満喫、と書いていて、つまりやっぱり普段、閉塞感じてるんだよね、とあらためて自覚したところです。

 

しかしこどものころからそう&前に書いたかもですが、いつでも好きな場所で生活したい、移動しながら暮らしたい、できたら外みたいなところで寝たいと思っていて、親に馬かキャンピングカーを買ってほしいと何度もたのんだものでした。

 

20代のころは毎年引っ越ししてる時期もあったりして、いまだにここ、という定住地がみつからないし、いまの地域に越してくるまでは、もうどこに住んだらいいのだろうと思って移動できない、というのも長く住んでしまった理由。

 

もっといえば、リーディングや新しくやろうとしているセッションについても、場所をきちんともうけるかどうか、というのがわりと大きなネックになっていたりする。

 

まだそのへんちゃんとフォーカスしたことがないんですけど、いろいろ探ってみると、結構でかい理由に行き当たるんじゃないかな&いい加減探りどきだよね、と、特にロスから戻って日々感じていて、先日のように気持ちいいところへ行ったりすると、ああやっぱりほんとにここちいい場所に自分を置くって大事よね、と思い、やっぱり自分と場所、生活というものをみよう&糖質制限食も、そこに関連してるのかもね、と思ったりしました。

 

 

で、自分の場所というものについて、いったいどこまでの範囲がそれなのか。

範囲、というワードが浮かんだことで、Powers of Tenを思い出し、ひさしぶりにみてみました(日本語ナレーション付きあったのでこっちリンクしておきます、これ江守徹さんかな、いい声)。

 

これもたぶん、だいぶ前に書いたはず、でも探すのが面倒&そのときに感じたことといまみて思ったことはまたちょっとちがうと思うのでいいとして、

 

いまみて思ったことは、結局全部隙間だらけじゃん、実体ってすんごいゆるいなーと。

目であの映像の像のみで言ったら、もうなんでもかんでも点じゃんただの(というか実際そうよね)。

そして実際、全部編集なんだよね、と。

 

 

ほんとは今日、東京は都議選で、わたしもこれから投票に行きますけども、政治って結局なんなんだろうか、と考えてみようと思ったんですよね、ほら音楽に政治持ち込むな思想とかあるでしょ、で、癒しとかスピリチュアルに政治持ち込むな思想とかあるのかな、とか、そもそも政治というものの捉え方自体、みんなどんなふうなのかなという興味含めて自分なりの捉え方を探ってみようと書くつもりだったのです。

 

で、powers of tenもその視点入れてみてみようと思ったわけです、つまりあれは最初立方での範囲でみてくじゃない、で、視点としては縦軸にみえる、じゃあたとえば立方でも上の距離固定して横軸でみてみたら自分、自分の各部屋、両隣の家、とかになってくじゃん、そうしてみてくとどうなのか、とか、

 

じゃあ物理的な距離じゃなく心理的な距離ってどうなの、とおもうとたとえば人間関係、職場、とか、内的な話になるともう物理的な距離じゃなく時間軸も無視されて、頭のなかのカットアップ、つまり編集された場所、範囲になるよね、って。

 

心理的な距離でいったら、いってみればそのひとの具体的な行動範囲に密接に関わっていて、生活、というものが必ず付随してる、もちろん、その範囲によって、フォーカスされる場所が変わってくるわけですけど、物理的な距離も含めてそこに政治というものはどう位置づけられ、もっといえば個人のなかでどう編集されてくのか、

みたいなことを探ってみたいなと。

 

 

って、書いてるうちに、まさにpowers of tenのごとく広大になってくので自習にします(笑)。

 

って、なんか難しいこと書いてる風にみえるかもですけど、全然シンプルに着地できるような、というか自分で理解できること、それこそその範囲ではたらく脳、いやこれもどこにフォーカスするかで、やっぱ飛距離伸びるんじゃね? といま思いました。

 

いや、やっぱり人間てすごいと思うんですよね、思考、エゴ、マインドという範囲外にゆだねれば。

 

そして、日常の、身近な風景に戻ってみると、

どこに住んだらいいのだろうと思って移動できない、というのと、

何をやったらいいんだろうと思って行動できない、というのはまさに、、と思いました。

 

というわけで、とりあえず選挙に行ってきます。

 

 

あ、先日、糖質制限ぶち破った食の写真は以下です。

 

お昼。

 

 

 

 

しらすの土鍋ごはん、焼きゆば、ズッキーニ、かぼちゃ、大根の炊いたやつ、いろんな野菜のサラダ、よもぎ豆腐、何かの海藻のお味噌汁

 

でも、こうやってみると、そんなに糖質ぶっちぎってないように見えますよね、やっぱりごはんと調味料かな。

 

 

で、早めの晩ごはん。

 

 

 

ガーリックシュリンプとアボカドのバインミー、写ってないけどホットコーヒー。

 

お茶のつもりだったのですが、時間がずれ込んだのでおやつじゃなくごはんのつもりで。

これはパンの風格で制限破り感ありますかね。

 

ここ、移転してからはじめて行ったんですけど、やっぱりおいしい〜。

 

その後、別のお店でクリームソーダを飲みました。

いまは再び、制限念頭に置いてる食に戻ってます。

 

 

というわけで、また。

いい感じの範囲で過ごす週で☆

 

 

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正論、日常、視点、方向

 

今週めちゃめちゃ忙しく、お灸に膏薬、アロマにエッセンス等々、投与しつつ健康に戻しながらの作業諸々、いままさに今週のピーク、という感じなのですが、

ちょっと書いておきたいな、と思い、すこしだけ。

 

正論って、いったいなんなのか、ほんとに正しいものなのだろうか、ということ。

 

これ、ほんとはもっとまとまってから書こうと思ってたことなんですけど、とりあえず。

 

 

正論と呼ばれるものって、ひとによってもちがうし、地域、国、立場、もっといえば時と場合によっても変わるものだと思うんです。

 

まず「誤」があるから発生、いや、最初に「ひとつの論、考え」があって、その後にそれに異や対するものが発生したことにより、最初の論を「正」としたのかもしれないけど、それはさておき、というか、それさえ時と場合、場所によって変わりますよね。

 

とにかく、そもそも正しさそれ自体が変わるものであって、絶対でも真実でもないということ。

感覚とか集合意識によるそれとか、モラル、それももっと根源的な感じの、そうした意味での当然さ、いわば正義、と呼ばれるレベルのものでさえ、ほんとうはそうだと思うんです。

 

これ、いいとかだめとかわるいとかの話じゃないですからね、よもや正誤などとは。

 

 

で、とりあえずここに書いてるのは、非二元的(あえて)な視点からみて、という話で、すべては正しいし間違っているし、正しくないし間違っていない、全部よいしわるいし、よくないしわるくない。

相対するもの、がない、だから対するものが発生するとしたらそれはジャッジによるラベル、つまり分離(すんません、ここ核心本質(あえて)だけど飛ばします)。

 

 

ただ、

“非二元だから”、正しいも間違いもない、というのが「考え、論」になったら、これはもう非二元じゃないんですよね。

 

つまり、

正しいも間違いもない、だからジャッジしてはいけない、

と一見それが“正解”にみえるそこにはまさに“正しさ”があり、それが“正しい在り方”、になってしまう。それはもう完全に二元、でしょ。

 

 

って、混乱するかもですが、そもそも思考、マインドの視点からそうでないもの、というか言葉にできないものを“実践”(あえて)しようとすること自体が、、、であり、覚醒者でもないのに非二元二元語るな、という感じですけど、

普通の意識(あえて)の人間がいかに思考、エゴ、マインドにとらわれずに生きるか、しかもグルのもとやアシュラムでなく時間という概念のもと、日本という国の、ひとつの街で、これ小説ですか映画か何かっすか? といったびっくりするような展開の続く非日常のような日常のなかで、どう過ごしてくのか。

 

 

とりあえず、自分、というものの視点、意識の方向がどこを向いてるのか。

それだけでも、みてみてもいいんじゃないかな、とおもいます。

 

これ、日常のことを言ってます、自分というものの、とても身近な日常の、自分の、自分だけによる、自分のためだけの視点、方向。

 

 

 

というわけで、タイトルがあんまりぴし、っときてない&落ち着いたら本文書きなおすかも&加筆するかもですけども、

今日はこのへんで。

 

ほんとに、いい感じの毎日を☆

 

 

 

 

 

 

 

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ゆっくり休むということ

 

結構つかれがたまっているらしく、ひとつ何か終わるとぐったりで、何年か前から2,3日動けなくなる、というのが年に数回あって、とりあえずはりや整体や何かに行く、というのがパターンになっていて、で、去年の夏に不整脈、と、この週末はひさびさにその感じ。

 

振り返ってみると、去年はたまたまちゃんと脈診とってもらったからわかっただけで、いままでもこの感じのときって、脈ちゃんと打ってなかったのかも、この数日もまさにそうなのかも、と思いました。

 

しかもここのところ、満月の日に月のものがくるというサイクルに戻ったので、くると今日は満月なのか、とわかるんですけど、それもあって重だるさがましてなお動けず、、なのに、メール返さないと、とか、あれ調べないと、とか、からだはもうだるんだるん&頭もなんというか白いものがぼーっと続いてる、みたいな感覚で無理っすー無理っすーまじ無理っすよ〜〜という感じなのに、あれやんなきゃこれやんなきゃ、って、できないのにやろうとしてしまうんですよね。


 

完全に起き上がれなくなるくらいになると、もう動けないのでひたすら寝るのみなのですが、ほんとはそこまでにいかないように、普段からちゃんと休む、という時間をつくる必要があるんですよね。

 

でも、こう、なんというか、ゆっくり休むって、難しいな、と。

 

ひとにはしょっちゅう言うくせに、自分のこととなると難しい。

それに、自分的には結構休み休みやってるつもりなんですよねえ、川でぼっさりもよくやってるし、仕事完全抜きでひととも会ってだらだらしゃべったりしてるし。

 

でも、ほんとにゆっくりした時間をもつというのとは、たぶんちょっとちがう。

そしてこれは、緊張というものや、サヴァイヴァルの感覚にも関係してると思います。

というか、そもそもゆっくりした時間をもつ、の前に、動けないときに動こうとしてしまう、という動きが発生するなんらかの理由がある。

 

って、考えはじめるとまた頭がぐらんぐらんになるわけですよ。

そう、何か思いつくとどんどこ先を知りたくなってしまうこの性質もよくないんだろうな。。

 

 

とにもかくにも、

気圧に左右されやすい季節も到来したことですし、からだの性質でいえば自律神経のバランス崩れやすいので、

ゆっくりしながらいきたいものですな。

 

 

というわけで、また。

らくな感じの一週間を☆

 

 

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「6月のメディスン」出してます!

 

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よければおためしを〜☆

 

 

 

 

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うつろいゆくすべては

 

先日、友人とお昼ごはん&銀ブラした帰りに編集関係の知人と道でばったり、実はもう10年以上、ある季刊誌の仕事をしているのですが、なんとネットに移行することになり紙媒体の発行が終了とのこと。

 

ちょうどロスに行ってる期間とその仕事の時期がぶつかっていたので、その号はお休みしたんですよね、で、本来ならもう次号の作業があるはずなのに連絡がないので、これははずされたかなーと思っていたのですが、急に決まったそうで、ちょっとびっくりでした。

 

今週はひさびさに終日通いの編集仕事で目が取れそうなほどぐったりで(笑)、内容はその媒体とは直接関連はなかったのですが、資料などを見ながら、なんというか、本とか雑誌とかに限らずですけど、仕事というのは、結局のところ、なんなんだろうかなあと思ったりしました。

 

特にこのことについて何か言いたいとか思うところがあるとかじゃないんですけど、

ほんとに、すごいたくさん、仕事と呼ばれるものがあるよなあと思って。

で、自分なりに、とりあえず自分と仕事、自分の仕事、というものについてちょっと考えてみようかな、と。

 

 

それにしても、あらためてみてみると、ほんとにいろんなことが動いてますよねー。

直接自分の身に起こらないとなかなか実感をもてないけれども、

常にいろんなところでいろんなことが起こり移り変わってる。

変わらないものなど何もなくて、自分のなかににぎりしめとどめ置かなければうつろいゆくすべてはまぼろし、って感じですな。。

 

 

というわけで、まだちょっと目がとれかかっているので(笑)、このへんで。

 

今晩はやわらかめにごはんを炊いて、明太子と海苔のっけて、大根煮たのでいっしょに食べて、

ゆっくりお風呂につかろうとおもいます。

 

 

ではまた〜。

 

 

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6月のメディスンのちょっとした解説

 

早速メディスンの感想メールなどをいただき、こういった反応があると、ああ書いてよかったなあ、と思います。ありがとうございます。

 

ゆるめる、ひろげる、はずしてみる、というキーワードから、こうしてみようこうしたらよかったんだ、とひらめくひともいれば、そのとおりだけれどどうしたらいいのかわからない、というひともいます。

 

本質的なこと、つまり具体的にくるしいことがあって、それをどうにかしたい、らくになりたい、と思うわけですが、いっきに全部解決したい、と訴えるのはやっぱり思考/エゴ/マインドなんですよねーこれが。

 

一刻も早くこの苦しみを〜と、自分のためを思っているようでも、その声によってさらに自分が追い込まれていくことに気づかない。なぜならそれはただの思考、文字面にしかすぎないことだから。

 

一見とっても考えてるようで、実はほんとに自分のためになることなんて考えてなんかいないんですよ頭って。それっぽいセンテンスを繰り出してるだけ。よーくみてみるとわかりますが、提案にさえなっていなかったりする。

 

 

はずしてみてください、というのは、それです。一見それっぽい感じの文字面です、なんかすごい考えて考え抜いているようだけど全然解決しないそのセンテンスのぐるぐる感と、それを繰り出している仕組みそのものをです。

 

つまり、「どうにかしなくては、ではどうしたらいいか」という問い、それ自体をはずしてみる。

 

 

ぐるぐる感をゆるめるとするなら、あれがこうでこうだからこうで、わかってるけどこうしたらこうなってこうだから、、という一連のぐるぐるでできたかたまりを、逆回転するようにもとのところまで戻してしまう。

でもそれめんどくさいですよね、だからはずしちゃう。

 

するとまたなんか言ってくるわけですよ、「それじゃなんの解決にもならないじゃないか!」と。

でも、「どうにかしなくては、ではどうしたらいいか」、

これ自体をはずしてしまえば解決する必要のあること自体が発生しない。

 

「そうかもしれないけどさー」「それでいいわけ?」「そんなことしたらもっとひどいことになるんじゃね?」という声。

 

結局は、この繰り返しじゃないです?

でもそれは真実なのかと、ほんとにそうなってしまうのか、と。

 

わからないんですよ、どうなるかなんて。

だからとりあえずでいい、はずしてみようじゃないかと。

 

で、さらにひろげてみてみると、ほんとにくるしめてる“思考、考え”はなんなのか。

気づくことがあるかもしれないし、ないかもしれないけど、

とりあえずさっきよりはらくになってるんじゃないですかね、って。

 

で、ほんとうのこたえというものが、そこにあったりするかもよ、って。

 

 

というわけでまた〜。

 

 

 

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Hope our paths cross again.

 

見知らぬひとによく声をかけられる、と、先日書きましたが、先ほど郵便局に行って、帰ろうと自転車のカギをはずしかけた矢先、「この道の名前はなんですか、秋葉原まで行けますか」と、同じく自転車に乗った外国人の紳士に声をかけられました。

 

とりあえず道の名前と、途中で曲がれば秋葉原まで行けることなどを伝えると、ほかの道についてはどうかなど聞かれ、その紳士は自転車で秋葉原に行ったことはあるが、どの道を通るのが最適かということでおたがいのベスト経路についてディスカッションがはじまり、彼は世界中を飛び回っているとのことで、自分はどの国でもだいたい自転車移動、東京はひろいというけどそうでもないなど、街の事情から治安、宗教、政治、とどんどん話がふくらんでいったのでした。

 

 

適当なところで帰ってもよかったのですが、その紳士がわたしの年齢をぴたり、と当てたことに驚き(いまだかつて当てられたことがないので)、このひとはどんなひとなのだろうという興味でとりあえず話を聞いていたのですが、なんか経歴が華麗というかドラマティックというか、スパイor詐欺師? と疑いたくなるような展開で、まあ、自分をだましたところでなんの得にもならないけども、、と思いながら聞いてました。

 

 

ところが、わたしの反応があんまりよくなかったのか、「何か質問してよ質問!」とせまられ(笑)、でも口を挟むタイミングもないくらいのマシンガントークだったし、なぜか特に聞きたいこともなかったんですよね、ただその方の自転車がママチャリだったので、それは誰のものかというのにはものすごく興味があったんですけど、なんとなく聞いたらいけない気がしたし、何か偉い方っぽいので名前とか聞くのもなあと思ったり。

 

すると自ら名乗ってくださって、ちゃんと覚えた? と念押しもされ(笑)、調べたりはしてないんですけど、ほんとにいろんなひとがいるなあ、と。

 

 

あとで時計をみたら、30分以上経っていてびっくり。

あの紳士は何が言いたかったのだろうか、と思い返してみると、

結局のところ、やっぱり愛についてなんだろうなあと。

 

別れ際、「ありがとう、またどこかの道で!」と手を振り、紳士は去って行ったのですが、

ちょうど夕日がさしていて、いい感じでした。

 

 

見知らぬひとと話すのは楽しいですな。

しかも、自分とたぶん全然ちがう世界をみているひとは余計に。

 

またどこかの国に、猛烈に行きたくなってきました。

 

 

というわけで、また。

 

 

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体験、記憶、相対するコマンド

 

きのう、どうしてもまたあのナイス・スポットに行きたくて、とりあえず作業をぶん投げ、自転車飛ばして行ってみたのですが、こっちの地域って、川ばっかり&高い建物があんまりない&すこし行けば海、という環境のせいか、とにかく風がすごいんですよね。

 

で、スポットに到着するとちょうど強風が、それも結構な量と圧で吹きすさんでおり、このままここにいたところで、先日のようなここちよさは望めまい、と思い、近くのスーパーまで戻ってトイレを借りて、するとなんだかおいしそうなピザが並んでいたのでつい買ってしまい、何やってるんだろう、、と思いながら、とりあえず近所の川べりでちょっとぼっさりしてから帰ろう、と、また自転車を走らせたのです。

 

で、走っているうちに、そういえば、と、ある場所を思い出したのでちょっと寄ってみると、風もほとんどないし、気持ちいいじゃん、、という感じでしばらくぼっさり。

 

木々と土のせいか、しっとり落ち着く、新たな読書&ぼっさり場となりました。

 

 

 

 

 

ベンチ前の風景はこんな感じ。

 

 

 

帰りながら思ったのですが、

ひとって、やっぱり記憶だよなあ、と。

 

たとえば、恋愛がわかりやすいと思うのですが、

楽しかったり、すごく理解し合えたと感じたり、気づかせてもらったり、受け容れてもらったり、いろんな素晴らしいと感じる経験をしたひととの関係が終わりそうになったりすると、「あの時間」の数々を振り返り思い出し、「戻りたい」「あの感覚をもう一度!」という思いが「このひとでなければだめだ」となって、執着というものにつながったりするんですよね。

 

 

ひとって、その体験にこころが動かされれば動かされるほど、この場合でいえば、幸福感とか安心感とか、一体感、愛ともいえるかもしれないけれど、それが「特別」でとっても「重要」で、「大切なもの」という“ラベル”とともに記憶されて、「これ以上の体験は起こらないかもしれない」が選択され、「それじゃなければだめ」が選択され、極端な例だとそれ以外は「却下」になるんですね、ほかは認めないよ、と。

さらに「良い」「正しい」が追加されもしたり。

 

けれども、結局のところ、そこには自分がその経験によってなんらかの思いが満たされたという感覚、

その記憶が発端だと思うんです。

で、それが大きいと感じれば感じるほど、より求める。失いたくない、になったりする。

 

 

その体験の逆方向が、恐怖、絶望感、罪悪感、惨めさ、孤独、といったラベルが貼られた記憶で、上の例が「求める」なら、こっちは「避ける」というコマンドでもって対応すると。

いらない、むしろ失くしたいよと。

 

 

もちろん、そんなに単一的ではなく、そこからさらなる選択が起こり、このケース、また別のケース、というように、それぞれのラベルとコマンドの詳細設定が日々行われ続けている。

 

で、あるとき、このケースはどうしたらいいのだよ〜と迷ったりして、

でもそんなときが、チャンス(どんな?)なのかもですね。

 

 

とりあえず、「求める」と「避ける」、

これにとらわれないと、すごーくいろんなことがスムーズだなあと感じます。

 

もちろん、求めちゃいけない、避けちゃいけないわけではないです。

車にぶつかりそうだったら当然避けるし、

喉がかわいてたら水を求めるよ砂漠だったらなおだよ、

(って、なんか、例がぱしっ、とこなくてすんません、届け! 言いたいこと!)

 

 

どっちにしてもそうなったらそれはまた掟となり、今度はそれらがコマンドになるわけですが、

それを生み続けるその正体は誰なのか、なんなのか、と。。

 

 

結局のところ、こっちがこうだったらこっち、という

この仕組み(あえて)に乗っかっていく限り、

だったらこれはどうなの? が延々と続くわけですよね(つまり正しいか否か、良いか否か)。

しかもその発端は記憶であり、時間なのだと。

 

 

でもね、

その記憶に揺れ続けて生きていくのが人間、とも思うのです。

 

とはいえ、

あの素晴らしい体験以上のものは結構そばにあるかもしれないし、

あのひどい体験もまた起こるとは限らないということ。

 

あえていうなら“正解”は「ほんとのことはわからない」。

 

だから、なんの記憶も経験もぶっ超えて、

そのときの感覚、でいけばいいんじゃね?

 

(と書きつつ、「わかってるけどさ〜」という何者かの思考が、、)

 

 

というわけで、また(笑)。

 

 

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あるひとが夢に出てきたこと、発見された場所

 

先日、たぶん三度くらいしか会ったことのないひとが急に夢に出てきました。

最後にお会いしたのはもう10年近く前だし、おたがいプライベートな連絡先を交換するような感じでもなかったので、突然出てきてびっくりしました。

 

会ったことのない著名人とか、亡くなった偉人やいわゆる神さまの夢は、あんまり不思議(内容はそうでも)には思わないのだけど、実際に会ったことがあって、でもその後特に交流もなく何年も忘れていたひと、というのはめずらしくて、夢の内容が印象的だったこともあり、ちょっと気になってネットで調べてみたのです。

 

ところが、名前すら覚えていなかったことに気づいて、いくつかのキーワードを入れて検索してみたところ、わりとすぐにヒット、どうやら結構すごい方だったようで、本も出版されて、いろいろご活躍のようでした。

 

まあでも、わざわざ会いに行かなくてもいいような気もするし、本も読まなくてもいいような気もするし、と思ったのですが、気にはなったので、とりあえず図書館で借りてみることに。

 

読んでみると、ああこんな感じだった! とその方の特徴を思い出して、相変わらずラディカルだな〜(笑)と、ちょっとほっとしたりもしました。

 

で、ロスでのあれやこれやをいまだ消化中、という状況のなかで、とりあえず毎日ブログを書いていることからもわかるように(笑)、まあ、結構内面的な変化が起こってるんですね、で、不安とか恐怖とかの感情がときどきわあっと起こってきてワークするんですけど、ここ数日書いているみたいに、それらの感情や思いの発端と思われる掟や、その掟が発生するに至る何かが、なかなかみつからないことがあるわけです。

 

 

というか、ほとんどみつけられないよね、奥にあるものって、そもそもそれをみたくないから掟だのなんだのをつくってかくすわけだし、だから先日も書きましたけど、いろんなツールやひとの手がある。

 

で、家での作業中に、ここ数日あったいろんなことが、ふと思い返せばこれパターンになってたわ、、と気づいて、探っていくとやっぱり不安とか恐怖がわいてくる、そのことを考えるとじわじわと胸にしびれが起こったり、腰に痛みが起こったりといった体感もある。

 

ここに飲み込まれてしまうと、ある種のひとはパニックになったりもして、そのおそれの感情をさけるためのネクストが起こるんだと思うんです。

 

それは相手または自分への怒りや攻撃になったり、忘れるために食べたり飲んだり何かをしたり、いわゆる防衛本能というやつがはたらいて、それを避けようという動きが起こる。

 

でも、それは一時的におもてにあらわないようにみえるだけで、消えたわけではないんですよね、だからときどき発作のように何かのきっかけでまた起こる。で、また対処する、それがひどくなると、避けたり抑えるちからも増幅して、、となる。

 

 

ちょっと話がそれてしまったのですが、そんなときにわたしの対処法のひとつは、とりあえず自転車に乗って自然がある場所にいく。たぶん、抑圧も避けることもせず、ニュートラルな状態にもっていこうとするんだと思いますが、その移動の間にセルフワークができるという利点もあったりします。

 

 

さっきの、あるパターンに気づいたときも、とにかく川または海へと思い、なんとなくそのひとの本をもって自転車で出かけたんですね。

で、いままで行ったことのないほうに行ってみたのですが、すごいナイス・スポットを発見しまして、そこで本を開いて、ちょうど読みかけの、しおりをはさんでいたページを読みはじめたんです。

 

 

もうお察しがついてると思いますが、そう、もうねえ、そこにこたえが書いてあったんですよねー自分のそのパターン発生のストーリーが。。

 

で、うっわーすげ〜ありがとう◯◯さんこの本書いててくださって!!&これを手にとらせてくれたすべてのもの!!! と思わずガッツポーズが出ましたよね、こころのなかではなく実際にね、全身驚きとちからの漲りのふるえが起こるほどに。。

 

 

ここでまた思うのです。

やっぱり、必要なことって必要なときに起こるし、

何かひっかかる、そんな自分の感覚をないがしろにしないようにしようと、

そのためには、やっぱり、ものごとをジャッジしないでニュートラルに、ただみることだね、と。

 

 

というわけで、画像はそのナイス・スポットです。

新しい読書&ぼっさり場となりました。

ひろくて最高、ここで仕事もしてみようとおもいます。

 

ではまた。

いい感じの週末を〜☆

 

 

 

 

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「チャクラのバランスを整えるキャペーン」再開してます!

よければおためしを〜☆

 

 

 

 

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
瞑想、カレー、可能性、正しさの罠

 

 

先日ある知人から、ある技術について、それではAもBもできないから、というメールがきて、うーん、たしかにすべてはできないと思うけど、でも自分、とりあえずAもBもできるケースはあったよ、と思ったのですが、なんかそれをたとえばこんな場合、みたいに説明を書いて送ったりするのも非常に面倒、と思い、どう返信したものか、と保留にしてたんです。

 

そしたら今度は別の知人が、AもBも結局はこういうものだから、その技術でできる、という趣旨のことを言っていて、うーん、それもまたどうなのだろう、できないケースもあると思うよ、自分がそうだったから、と思って、それは本人に伝えたんですね。

 

その知人同士は知り合いではなく、たまたまわたしは両方を別々に知っているだけだったので、シンクロというか、タイムリーだなあと思ったのですが、どちらの主張も、というかとらえかた伝え方に実はうんざりして、すごく不快感をおぼえている自分に気づいたのです。

 

 

自分の体験がたまたまそのどちらでもあり、どちらでもなかった。

ということは、それぞれが自分の経験だけで判断して結論を出している。

だから否定的な気持ちが起こった。そうじゃないかもしれないという可能性だってあるのに(というか自分がそもそもそのケースなのに)、なぜ検証もせず決めつけるのだと。

 

 

これは一見中立で正論っぽいですよね、でも、ほんとに自分がニュートラルであるなら、不快感は湧いてこないかもしれない。

という思いが自分のなかに起こる。

 

 

そもそも相手やものごとの何かをみて不快感が起こる、というのは、自分の感覚や意見、ポリシーに反している、あるいは受け入れがたい理由があるからで、そこには「正/誤」「良/悪」等々、その感情が発生するなんらかの発端があると思うんですね。

 

 

で、自分をみるわけです。この不快感の理由はなんだろう、なぜ決めつけられると腹がたつのだろう、と。

 

そこに「掟」の存在がきらり、と光っているわけです。正しい間違ってるを超えて、なんか、あんまりいい感じじゃない光が(笑)。

 

 

この「掟」をみつけて、破っていく方法のひとつが瞑想ですよね。

しかし、この瞑想というのもひとくせもふたくせもあるなあと思います。

 

というか、ほかの例にたがわず瞑想それ自体ではなく、そのとらえかた、まあ結局はエゴ、ということになるのですが、

こんなに多くの解釈や意味づけされるものもめずらしいのではないかというくらい、一家言もったひとがたくさんいると思うんです。

 

エゴにはまらないためにやってる(あえてこう言ってます)はずが、まんまとエゴにはまってしまうという、

文字通りミイラとりがミイラに、のもっともわかりやすい例なんじゃないですかね。

 

 

とはいえ、ここでは掟をみつける、エゴにはまらないうんぬん言ってますが、

実際のところ、ほんとにたくさんの瞑想の方法があって、解釈が多く生まれるのもまた当然のことだとも思います。

 

 

たとえば、「こころを落ち着かせるための瞑想」を行っているひとに「瞑想とはなんですか?」と聞けば、

文字通り「こころを落ち着かせるもの」または「リラックス」とかえってくるかもだし、

 

「呼吸を主体とした瞑想」を行っているひとであれば「呼吸を整えることによって起こってくる細胞、脳内分泌物のはたらきにより〜」みたいなこたえがかえってくるかもしれない。

 

つまり、ある目的を解釈をもって行っているとすれば、それぞれの認識や思いがこたえとしてかえってくるわけで、

どれも正解ではあるけれど、どれも瞑想そのものをさしはせず明らかにはしないと。

(と書いていて、やっぱり時間なんだなあと思いました)

 

 

覚醒したひとに「瞑想とはなんですか」ときくと、たいていは「瞑想はするものではない、起こるもの」というのが定番(あえて)だと思います。

つまり、行為者というものがいない、と。何かを得るためにするものではない、得るなにもなく、得ようとする誰もいない、と。

 

 

ほんとにそれを行うひとによって、かえってくるこたえはちがう。

 

 

わたしがものごとを決めつけられることに対して不快になるひとつの理由は、ここにあるんですよねえ、だって、ほんとに視点がちがえば体験も変わってくる。

もっといえば、体調がいいときとよくないときで感覚や考えがちがったり、変わることだってある。

 

そのくらい、いろんなことってゆらいでるんじゃないのかしら。

変わらないものなんて何もない。というか、固定されているものがない。

そのなかで、けして変わることのないそれ…はまた別として、、

 

 

「これとはこういうものだ」と決めつけてしまうと、ほかに感じることや見え隠れしているものがそこで切り捨てられてしまう、

ほんとはもっともっとすごかったり素敵だったり、あるいはいらなかったものを見過ごしてしまうかもしれない、

 

つまり、それ自体を媒介とした自分自身の可能性を限定してしまい、もっと動きひろがっていくかもしれない何かの動きを、

まるで自分がすべて掌握しているかのような錯覚にさえおちいってしまったり、、というのが、

たとえば瞑想でいえば精神世界関連かもしれないけれど、

そこに限らず、あらゆるところでみられることのような気がします(自分も気をつけないとです、ほんとに)。

 

 

で、瞑想のことを考えてたら、ああこれ、カレーもそんな感じかも、とふと思いました。

 

家庭の数だけカレーがある、と誰かが言ってたかもしれませんが、いやひとの数だけあるのかもしれない。

 

なかでも、カレーに対するものすごい情熱、そして自分を語るみたいなタイプのひとのカレーって、実際のところ食べる前からおなかいっぱい、になってしまったりもして、

なんか、カレー自体よりも、努力とか知識とか探究心とか成果とか、そのひと自身の思いを食べさせられるような気がしてしまって、

わたしはただのカレーが食べたいんだ! 好きに食べさせてくれカレーを! ただおいしいカレーを!

とこころのなかでスプーンを振り上げ、叫ぶばかりです。

 

 

ひとが望んでること、ほんとに体験したいことって、解釈でも概念でも掲げた目的でさえなくて、

たぶん、もっともっとシンプルで、たいへん原初的なことなんじゃないかなとおもいます。

 

いくらこうだから、と思っても、

ほんとのことなんて、誰にもわからないんだもの。

 

 

とはいえ、「ほんとのことは誰にもわからないんだから決めつけてはいけない」もまた「掟」になってしまうんですよねえ。

 

結局のところ、それもまた「正しさ」の罠なのだなあ。

 

って、またネバーエンディングじゃん。

 

となると、やっぱり、非、、、、

 

 

というわけでまた(笑)。

 

 

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あ、ちょっとお知らせです〜。

以前やっていた「チャクラのバランスを整えるキャペーン」

リクエストがありましたので再開します。

ストックがなくなったら終了なので、とりあえず6月のなかばくらいまでにします

(セッションでもつかったりするので、早めに終わるかもです)。

 

興味がありましたら、ためしてくださいませー。

 

http://ananya.jugem.jp/?eid=384

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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