texted a ANANYA

メディスンカード・リーディング
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先月くらいからちょっとずつ生活のパターンを切り替えていって、先月末から新しい仕事のスターターという感じでかなり詰まっていて、生活のペースが結構変わってきて、時間の配分がずいぶん整理されてきたもののまだ身体も頭も慣れていなくて、最近ようやくちょっと落ち着いてきたかな、という感じでひさびさに書いてます。

 

自分がそんなふうに移行中だとやはり似た感じのひとが集まってくるのか、先月末で会社をやめて来月の3月くらいまで中国〜インド〜インドネシア〜ベトナムあたりを放浪するという友人と先日ぎりっぎりのタイミングでごはんを食べたんですけど、

実際、そういう感じの旅って、20代のころはよくあったけれども、そのころってインプットというか、どちらかといえばいろんなものを吸収してく感じがするけど、この年に出る旅って、むしろ捨ててく、削いでいくって感じがするんですよね、

これはいるいらないって確かめる、なんというか若いときが粘土よる自分像制作なら、壮年は木から掘り出すみたいな。

 

まあ、旅はいつでも楽しいですけどもね。

 

引っ越しもそうですけど、やっぱり移動するとエネルギーが相当動くし、いろんなタイミングが重なればその分増幅もする、もちろん自分の意図したものとはちがうこともあるし、むしろ逆に作用することだってある。

でも、それだって動かしてみなければわからない。

 

自分のことでいえば、今年のロス行き、すごく大きな経験だったけれども、じゃあ勉強したことをそのままやるかといえば、そうではない、むしろそこでみたもの、いわゆる知識として教わったことではなくて自ら知ったことのほうで少なくともわたしは動いていってる。

 

じゃあそれほど大きな移動距離がないとだめなのか、といえば全然そんなことはなくて、ほんとに部屋の配置を変えるだけでも、なんというか“隙間”ができたりする。

 

もちろん完全に直結、即はしないかもしれない、でもそこに通ずる何か、実際、わらしべ長者的につながってくことがほとんどだったりする気がするんですけど、だいたいにおいてひとって、わら1本見せられたら全然ちがうじゃん!やっぱこんなんじゃだめなんだよ! って“ジャッジ”して決めつけてしまう、そこで意味を固定してしまうんですよね、

でもさ、いやいやわらしべ、次どういくんだろうと思うとかなり楽しいし後々すげえひろがりあったりするぜ逆に、って思うんですよ。

 

 

結局のところ、自分のみたいように、自分の動かしたいようにことが運ばれなければアウト、でいると、そこで世界のひろさも固定されてしまうんですよね。

 

いま思い出しましたけど、まだ10代のときのバイト先の社長との面談で、目の前にガラスのコップを置かれて、「これ何に見える?」って聞かれたときに、コップだけど、花瓶にしてもいいかもですねみたいな返事をしたんですよね、そしたらわたし採用されたんですけど(笑)、社長いわく、これがコップにしかみえないなら、そのひとは世界をそれ以外の目でみることはできないんだよみたいなことを言っていて、まだ若きわたしはたいへん感銘を受けたものでした(笑)。

 

でも、いま思えば、そういうこと言う大人に会っておけてよかったな、って思います。

 

 

というわけで、特に何書こうと決めずに書いてみたのですが、わらをただわらとしてみるな、と。わらとしてみたらわらとして終わるんだと。

 

まあそんな感じで(笑)、

11月ももうすぐ後半ですが、いい感じで毎日を過ごしていきたいですな。

 

ではまた〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

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who did you vote for?

 

毎日雨続きで部屋の湿度がもうやばい、投票の封筒も券もなんだかやわらかくなってしまってましたが投票用紙はすべすべしてましたね、やっぱり環境によってそんなとこにもちがいが出るよねーとこれは素材のちがいだろうと思いますので完全なるこじつけなんですけれども、とりあえず前回の選挙より投票所、ひとがいましたうちの地区、時間帯にもよるのかもですが、とはいえこの天候にもかかわらず。

 

 

さて前回、10月のメディスン出しましたけど、友人、知人からは離婚と結婚、退職などの話を立て続けに聞いたり、

リーディングのセッションを受けてくださった方は引っ越しややはり転職、病気治癒に向けての計画など、

そして自分は生活&仕事の態勢の抜本的な見直しのため、結構長くやらせていただいていたお仕事を今回で降りる決意&新しい仕事の追加等、なんかそんな動きになってます。

 

それにたぶんともなってだと思いますが、すごい深い過去の何かが出てきてるな、と。

 

これまで、まあいろいろワークやほかの方からセッション受けたりなんだかんだやってきたけども顔を出してくれそでくれない、というか、まあ直面するのがほんとに嫌なんでしょうね、というかものっすごい恐怖なんでしょうね自分、

 

しかしその片鱗が海面からチラリ見えるサメなのかクジラなのかそれともまったく別のものなのか生き物でさえないのかはまだわかりませんけど、以前よりもチラ見せ度が上がってきてる感がましていて、

もう逃さねえぞとトリシューラ片手に仁王立つ自分と、

やっぱ無理、こんなん見つけちゃったらいろんなものがこわれてしまう〜〜と怯える自分、

それをとりなす自分、何か策を練ろうとする自分、ただおろおろする自分、

で、それら全自分を見ている自分、、という具合にもう完全なる自分曼荼羅というか、自分of自分の縮図、それも動く、つまり万華鏡、みたいな、ああいわゆるあのむかしの六道絵とかって、本来ああした地獄という場があるわけじゃなく腸環境ならぬ己の内環境の分類なんじゃね? とか思ってみたり、って書くとなんかすごいっぽいですけども、程度の差はあれ、人間全員に、日常的に起こってることですよね、そのキャラとか感情がその都度変わったりして、つまりやっぱり万華鏡!

 

 

と、毎度趣旨がずれていってるかもですが、

まあ、ほんとに、そのたくさんの自分のなかの誰の声にしたがってくのか、それによって、目の前の風景が変わっていくんですよねー。

 

誰についていくか、次の角を曲がるのか、

そして先へと続く道が変わってく。

同時に、やっぱり恒常性の問題や、どうしてもそこにとどまっていたい自分というものの頑固さ、このゆるぎなさを転換すると決めたら、ちょっとどうなっちゃうの??

と希望やわくわく感よりも恐怖が先行してしまうんでしょうな、それはとてもよくわかる。

 

とはいえ、

また来週から感覚が結構変わっていくと思うし、そんなふうになんらかの応援みたいなものって、絶対にある。実は結構ある。

 

それをみつけるのも結局のところ、どの話に乗っかってくのか、というか、それってほんとにそうなの? と。

見極めていきたいものですね。

 

 

というわけで、なんか無理やりっぽく終わりますけれどもまた!

選挙行かれてない方、行ってほしいな、と思います。

関係なくないんですよね、ちゃんとリンクしてる。

エネルギーです。

 

 

 

 

 

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重箱の隅、母の遺品・3

 

片づけがひと段落して、“空いたスペース”と“自覚的に残しているもの”にフォーカスしてみると、気づきがどんどん起きてきて、あああれってそういうことか、これってそうだったんだ等々、沈んでいたものが水面に続々顔を出してきた感じ、なのでお昼休憩利用してやっぱり忘れないうちに書いてしまいます。

 

とりあえず、

裁縫用品を整理するなかで、自分が無意識に母から引き継いできたものについて書いているわけですけれども、彼女が亡くなった直後は形見分けなどもあったし、家族で結構大々的な整理はしたんですよね、でも当時あったものを思い返してみると、彼女がまだ生きていたにしろ、使い切れないだろうと思うものが、裁縫用品以外にもあったよなと。

 

自分のことをみてみると、どこに住んでいても感じていたのは、常に部屋がせまい、というか、収納スペースが足りないこと。

ひとりで住んでいても、ひとりじゃなくても、とにかく自分のものがきれいに納まらない、なにかしらはみ出してしまう。

 

で、その要因はいくつかあるにしろ、いちばんの理由は自分の理想とする家に住むことを含め、そうした生活、ストレスなく暮らせる状況をつくることができていないからだと思っていたんです。

さらにいえば、ではそれって結局、どんな感じなのか、というか、ヴィジョンとしてしっかりイメージしたこともなかった。

そして、それにもちゃんと原因があるわけなんですよ。

 

このヴィジョンについては、とりあえずちょっと置いておきますが、

とにかく今回、その考えは少なくとも、収納問題解決への完全なるアンサーではなかったと気づいた。これは、自分にとってはものすごい大きなことで、価値観の転倒、といったらちょっとちがってくるかもですけど、確実に自分の住居観はもちろん、働きとか生活に対する考え方の根本を揺るがすような気づきなんですよマジに(笑)!

 

というか、これはほんとに根深い問題で、いろんなことにつながってるんですね。

まず、使い切れないほどの量をストックしてしまうことについて考えてみると、そこから見えるのは、やっぱり不足の意識だと思うんです。

 

たしかに自分が小さいころ、ものには限りがあり、目の前にあるうちに手に入れておかなければならないこと、いつ必要なものがなくなるかわからないことなど、戦時中に母が体験したことから導き出された持論を、繰り返し聞かされていた。

 

自分ではそんな自覚はなかったものの、貝塚のように発見された空き瓶はさすがにいまは整理されてますけども、そこかしこに「つかうつもり」という名目のもとにストックされたものがひっそりと、ではなく、結構な主張をもって鎮座してたわけです。

 

これは物理的なものとしてとってもわかりやすく反映されてるけれども、ことの起こりは彼女の持論、別の言い方をすれば信念、いわゆるビリーフなんですね。それが世界をつくってる。

 

 

ボタンや糸をひとつひとつ眺めながら、どんどん気づきが起こっていって、ああ自分はいま、自分のものではなくて、母ののこしたものを整理しているんだなあと、今回はじめて自覚したんです。

いつの間にか、それらは自然と自分の生活にスライドして意識するまでもなく自分のものになっていたけれども、実はそうではなかったんだと。

 

 

メディスンを書くときに、よく「自分以外の誰かや何かの」というフレーズを出しますけど、まさにこれなんですね。

今回の場合は物理的なものを通して見えてきたけれど、逆に言えば、そういった“物理的な現実”が展開したその起こりはなんだったのか。

考え方、ものの見方、捉え方、ほんとに条件反射、反応でしかない感情の発生や行動、態度、言動に至るまで、いつの間にか自分のそれになっているけれど、ほんとに最初っから自分発だった? という問いかけ。

 

これまで自分でさんざん書いておきながらこれですからね、、そしてこれもまったくもってエゴ/マインドなんですよね、どれほどもっともらしくかつ自然にみえても。。

 

 

と、

母の裁縫用具を整理することからみえてきたいろんなこと、不足の意識についてなど、もっと複雑にまだまだいろんな信念や感情が乗っかっていて、母の幼少期の体験とその後や、父との関係等々、いろんなものがからんでるんですね。さらに、別の性質にもつながったり重なったりしていく。

で、終わりがないので、とりあえず今回は、いろいろはしょってわかりやすい部分を書いてみました。

 

そう、ここで終わりではないんですね、

言ってみれば、ここまではいろんなワークをやったり、なんらかのセッションを受けたり本を読んだり、内観に慣れてくると見えやすくなってくる段階。

 

もちろん、それはすごい大事で大きなことだし、かなり核心へと続く扉ではある。

でも話が変わってしまうけど、特にセルフワークをされてる方で途中で行き詰まったりするのって、実はこのあとからだったりする。

 

 

と、セルフワークのやり方については、特にフラワーエッセンスの方などからときどきご質問いただくので書いてみたいのですが、別の方向に行ってしまうのでまた別の機会にしますけれども、

方向という意味でいえば、

自分がこれまで見てきた景色、明日も見続ける風景、さらに向かっていく、向かおうとしている場所、

それって、ほんとにそこか??  というのはもう一回、立ち止まってみてみるといいんじゃないですかね。

 

というか、それの繰り返しが実は人生、というものだったり、とちょっといいこと言ってる風で適当に書いてるんですけど(笑)、

この感覚、すごいメディスンぽいんで、近々また出そうと思ってます。

 

というわけで、また。

季節楽しみつつ、やっぱり片づけ、整理、いまベストと思います!

 

 

 

ではでは、

Have a wonderful time〜〜!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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重箱の隅、母の遺品・2

 

とりあえず発掘&廃棄作業がひと段落して、まだ掘りたいところはあるのですが、家具の移動やひさびさに金槌ぶん回して棚つくったりしてるうちに仕事がまた詰まってきつつ、でも次のプラン&勉強もしつつ、みたいな感じであっという間に10月に入り、近日中、ではなくなってしまいましたけど、いい加減、前回の続きを書いてみます。

 

まず、タイトルの「母の遺品」。

今回、主に整理したのは裁縫用品だったのですが、自分がこどものころから見ていたし、いっしょに何かつくるときにつかったりもしたし、学校で家庭科の授業がはじまれば借りたりもしていたので、特に母が使っていたもの、という意識や自覚もなくそのまま自然に自分にスライドしてきたものたちだったんですね。

 

それらはこれまでも何度か整理してはいたものの、母はもともと洋裁の学校に通っていて、縫製の仕事をしたりもしていたので、まあかなりいろんなものがこまかくあって、というか、死んだ直後に整理したときには、布を含めたらもう膨大な量で、彼女が逝ってから30年ちょっと経つのですが、自分の代でも絶対に使い切れないほどの糸やボタン類が残っていたんです。

 

いままでずっと、引っ越せば何の疑問もなくダンボールに詰めては次の家に運び、押入れだの棚だのに収納し、を繰り返してきて、そして今回、なぜいまなのかはわかりませんが、それこそボタンひとつひとつ手にとって、いる、いらない、にわけてみたのです。

 

なかには、買った服についていた補修用の小さな布とボタンの組み合わせがあって、ああこれあの服のやつだ、と、もはやいつ手放したのかさえ覚えていない服のそれだったり、外されたボタンから服、その服にまつわる記憶、そのときのいくつかのシーンや感情を思い出したり等々、そこに宿るストーリーがどんどん思い出されてくるんですよね。

 

それは、あえて意識しなければあたりまえに、何の疑問もなく常に起こっていることで、ふと思い出してはまた忘れ、それこそ次の家に移動するように、また頭のどこかにしまわれて、もしかするともう二度と思い出すことはないかもしれないけれど、脳のなかに残り続けてはいく。そう、意図しようがしまいが、残っていくんです。

 

さらにその記憶がまた無自覚、無意識に、その後のあれこれに実は関わり続けてもいたりする。

思い出さなくても、そうとはわからなくても。

 

 

糸やボタンや布をひとつひとつ整理しながら思ったこと思い出したことは、ほんとにいくつもあるんですけど、そのひとつとして、彼女はほんとうにたくさんのものをストックしていたなということ。

 

裁縫用品に限らず、たとえば包装紙やリボン、文房具、それから食器、寝具等々、思い返してみると、自分がはじめて実家を出たときの荷物の量、尋常じゃなかったんですよね、いまならよくわかるけれども、布団3組くらいあったと思うし(笑)、当時借りたアパートの部屋なんて、完全にキャパオーバーですよ、なんでうちの家族は誰もそれについて何も思わなかったんだろう…。

 

そして、このブログをPCでご覧になってる方は、右のほうにレコメン本のコーナーがありますが、かなり以前に紹介しましたけどもカレン・キングストンの本、あれを最初に読んで、もう7ページ目くらいで部屋を片づけはじめたときのこと。

 

ここにも書いたかもですが、これだけの瓶をいったいどうしようと思っていたのか、、というくらいたくさんのジャムだのピクルスだのの空き瓶が棚から出てきたとき、自分はだめなのかもしれない…と、かなりショックを受けたわけですが(笑)、思えばこの余分にとっておくという性質、母親から引き継いできたものなんですよね。

 

まったく無意識に、そうすることがあまりにもあたりまえで、むしろ普通、自然なことだと思ってやってるから、それが尋常じゃないと気づかない、というか疑問にも思わない。

なんか多いなあとか入りきらないなあと思ったら、減らすよりそれを保管するスペースを拡張する方向で考えるし、また次の家に普通に運んでしまうんですな。

 

 

このことに気づいたとき、なんというか、自分のいろんなことが結構ぱしっ、とつながったんですよね。

それは、物理的なものだけではなくて、思考のパターンから自分のものごとに対する反応、性質もそうだし、

いわゆる豊かさというものにも、すごいつながってるなと思ったんです。

 

 

と、なんかもったいつけてる風ですまん、ですが、

また長くなってきたので、続きは後日に。

ちょっとねー今週もめちゃいそがしいんですが、なるべく次回は早めに書きます、気づいたこと思ったこと、すごいあるから自分で忘れないためにも。。

 

 

というわけで連休まっただなかですけれども、

お休みの方、すんごい素敵気候ですし、ぜひ行楽など楽しんでくださいませ(でも、荷物の整理もいいかもね笑)。

お仕事の方、わたしも仕事なんで、ときどき香ってくる金木犀の匂いに癒されながらやっていきましょう!

 

 

ではではまた〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(きのうの補足的に)人間!生きもの!

 

きのうの補足的にすこし。

 

まず玄米のこと。

わたしの場合は、どのくらい食べていたかはもうずいぶん前のことなのであんまり覚えてないですが、少なくとも半年は日々食べ続けてのやっぱりNG、でした。

 

で、そのあとのテキストで、「食べておなかこわしたら〜」「肌にぶつぶつが出たら〜」と書きましたが、これは玄米を食べて、といってるわけではなくて、何かを食べたときに、もっというと誰かがいいと言っていたから、のような“知識”や“頭”で選んで食べてもからだが……だったら、ということです。

 

 

でも、たとえば、それこそ玄米とかそうだと思いますけど、からだの毒素が排出される過程というもの、いわゆる好転反応とかめんげんとか浄化と呼ばれる現象が、おなかこわすとかぶつぶつが出るというかたちで起こることはありますよね。

で、やがて落ち着いて健康の循環、リズムができてくるという流れが起こるひともいる、ケースもある。

 

とはいえ、実際ほんとにそうした反応なのかどうかも、からだをよくみて感じていたら、やっぱりわかると思うんですよ。

 

 

それからもうひとつ、補足的に書いておきたいなと思ったことが、「動物を食べるかどうか問題」。

きのうもすこし書きましたけど、肉は食べないけど魚は食べる、それから、四つ足は食べないけど二本足は食べる。

 

実はこれ、実際に質問をされて、なんで足の数で食べるか食べないかを決めるんだろう、と不思議だったんです。

 

で、その方がなぜそうされてるのかは聞かなかったのですが、ちょっと気になったので、この四つ足は食べないということについてあとで調べてみたところ、諸説あるみたいで、代表的なところでは、人間との感情的な理解ということのようなのですが、うーん鶏も結構伝わり合うぜ? と思うんですよ。魚もそうだと思うし。

 

さらに、この動物食べるかどうか問題で必ず出てくる、じゃあ植物はどうなのか問題。

植物も、話しかけるとぐんぐん成長したりするし、意識や感情的な反応についての実験証明とかありますもんね。

 

 

いや揚げ足をとりたいわけではないんです、実際この問題、議論するとかほんと不毛だと思うし、

結局、相反する主張が出てくるというのは、そもそもこれって脳、頭から判断される概念、観念、価値観、つまり人間ならではの見解、選択なんですよね。まさに二元性。

 

 

実際の動物をみてみたらわかるけども、動物はかまわず襲うし血したたらせて食うよね相手を。

あんなにかわいいねこちゃんだって、ねずみややもりをすごいいたぶるじゃん、以前住んでいた家で同居してたねこちゃんなんてもうしょっちゅうでしたよ、そのたびに「なんでそんなことすんのやめなよ!」「にゃー!」みたいなやりとりがありましたよね。

 

とにかくそれを残酷とみるのは人間だからだし、もちろん、だから残酷と思ってはいけないとかそういうんじゃないですよ、というかそういう発想がそもそも頭の話で、つまり考えとか論をかぶせてきたら、同調だろうが相対だろうが頭だしもっといったらエゴ/マインドなんですよ、で、それが人間。

 

 

でも、動物同士でも、犬とねこちゃんがすごいなかよしとか、鳥とねこちゃんがすごいなかよしとか、全然別の生きものが育てるとかたくさんあるじゃないですか、それって、もともと備わってる本能、あいつは敵、というそのもっと奥にあるものですよね。

 

 

結局われわれ人間、備わった脳の機能、マインド、感情、それがあるからこそのあれこれであり、

知識とか頭でどうこうした判断をとっぱらったら、動物食べないというのも、根底には全生命の交差するエリアにある何か、だと思うんです。

 

そしてそこには“反”も“禁”もないんですよ。“対”がない。

それは考えた何か、ではないから。

 

 

というわけで、また〜!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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9月、新しいサイクルに向けてのメディスン

 

「言葉と何か、3」を書きたいなと思いつつ、

最近、ヤマアラシのトピックをよく目にするので、これはもう間違いなくメディスンだな、と。

 

そんなわけで急ですけどもお伝えしたく、凝縮バージョンのメディスンを。

 

きのうくらいから、わかりやすく変わり目の気配が&ちょうど来週から9月、水星の影響があるかもですけどまた新しいサイクルに入る感があるので、そこに向けてという感じで。

 

 

 

★9月、新しいサイクルに向けてのメディスン★

 

こどものころの何か、いまもこれからも、

この先何があろうともけして消えることのない無垢さ、

純粋さ、誰もおかすことのできない聖域、

そこに確かにある何か。

 

間違いなく知っています、

その頭のなか、次々に生まれくる言葉をすり抜けて、

そこはそれらの言葉とは無縁で、

言葉それ自体を超えていて、

というかほんとうは言葉にはできないもの、

けれど間違いなく結晶されて必ず届くもの、

すぐに、すでに、届いているもの。

 

水のなかに舞い上がる砂がゆっくりと底に戻るのを待つ、

そこに訪れる、いやほんとうは最初からずっとそうだった静けさ、その音、

こどものころ、わたしたちはみんなそれを聴いていたし、

その音を言葉にかえ世界のすべてと話していたんです。

 

それはいまも消えていません。

わからなくてもいいし、探す必要もない。

聴くだけ。それだけ。

 

ただ楽しくて、喜びしかなくて、

きらきらと輝く、輝いている。

 

それはいまもここにあるし、

これからも、何があろうとも、

けして消えることがない。

 

わたしたちは、その成分と同じものでできているから。

 

 

**************************

 

というわけで、just as you are!

残りの夏を、新しいサイクルを、自分を☆

 

 

いい感じの週末を〜☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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言葉と何か、

 

今月前半、自分基準ですけどかなり仕事をしていてブログ更新できず、チェックしてくださってる方々、すみません。

というか、今月書くのはじめてなんだ、うわーびっくり。。

 

ひさしぶりなのに早速食べものの話からいきますけど、

普段は2食なのに、出かける前にパンを、それも食べとかないと動けなくなったらいやだから、みたいな理由で、味わうよりいれとく、とか、やはり疲れもあって、とにかくおなかがいっぱいになればいいみたいな食べ方になるんですよね、自分は。

なので、忙しいとむしろ体重が増加傾向にある気がします。

 

 

書いてて思いましたけど、なんか食べ方がサバイバルっぽい、でも実際に肉体としてのサバイブではないので太るのかも。つかってるのからだよりも脳だもんね。

 

 

自分がとりいれてる糖質制限って、ただ炭水化物や糖質を減らすというより、高たんぱく質をたくさんとりましょうという方法、

で、食のこととは別件で遺伝子や神経伝達物質や分泌物のことを少しずつ勉強してるんですが、遺伝子って実のところたんぱく質ですよね、で、海外のサイトをみてると当然ながらproteinと表記されてる。

 

プロテインという言葉に置き換わると、すぐに結びつくのがわたしの場合はスポーツ関連、筋肉をより鍛える、みたいなイメージ。

だから、自分にはあんまり関係ないように思ってたんですよね。なんか、普通の生活をしてるひとには特別視する必要のない物質という感じで。

 

ところが、そんなことは全然なく、まだ全然勉強中&用語覚えるだけで……なので、たいしたことも言えないんですけど、とにかく自分のからだというものの主な成分なんだと。

たぶん学校で習ってたと思うんですけど、もう全然忘れてましたよね、すいません、という感じです。

 

 

プロテインといえば、で、もうひとつ思い出したこと。

 

ロスで滞在していたホテルの住人のひとり、ブラックとホワイトのハーフかもしくはプエルトリカンかなと思うんですけど、キッチンでごはんをつくってたら、ものすごい数のたまごを彼がゆでてたんですよね、で、こんなにどうするんだろう、と思っていたら、察したように「驚いたか? これはプロテインだ、もちろん一度に全部食べるわけじゃないぜ、俺はクレイジーじゃない」と言って、たまごいっぱいの大きなボウルを抱えて颯爽と去っていったんです。

 

彼はほとんど誰とも話さず、黙々といつもちょっと偏った感じのものをつくっていて、いつだったかスムージーを大量につくっていたときに、思い切って「あなたはアスリートなの?」と聞いてみると、ものっすごい怪訝そうな顔をされて(笑)、「アスリート? お前何言ってんだよ、全然そんなんじゃない」とのことで、そのあとすごい早口でいろいろ言ってたんですけどよくわからず、最後に「まあ、気にするな」と言って去っていきました(笑)。

 

いま思うと、間違いなく彼は糖質をおさえた高たんぱく質食をとっていたわけで、ああいまだったらいろいろ聞きたいことあったのになーと。

 

 

そのホテルに滞在していた日本人は、クラスメイトとほかに長期滞在、というかほぼ住んでる男性たちが4名くらい(年齢ばらばら)、それにアメリカ、ハワイ、アフリカ、そのほかどこ出身か聞いてないひともたくさんいるんですけど、ほぼ住んでるひとたちが多く、年齢もバックグラウンドもそれぞれで楽しかったです。というか、すごいキャラの立ったひとたちばっかり(笑)。

 

食事は共同キッチンがあるので、行くと誰かがいて、どのスーパーが安いかとか、それはどこで売ってるのかとか情報交換やおかず交換したり、楽しかったですね。

 

日本人のひとたち以外は誰も日本語を話すひとがいなかったので英語で会話、というか、どの国でもそれは同じですよね。

 

 

よく自分は英語ができないから、というひとが多いですけど、それってちょっとちがうなと思う。

できないんじゃなくて、つかわないだけだと思うんです。

 

わたしは全然ネイティブじゃないし、勉強という感じでしっかりどこかで学んだこともないし、独学といえるほどでもない自習による実践とフィーリングスピーキングです。

でも、声をかける、行きたいとこはひとりでどんどん行く、どうしても好奇心が勝ってしまう。

 

話してるとわかってくるし覚える、わからないことは、知りたかったらわかるように何度も聞く、それでもわからなかったらわからないことを伝える。で、ごめんね、って言う。

するとあやまることはないよって言ってくれるよね、だいだいのひとは。

 

って書いてみて思ったんですけど、こういうコミュニケイトのやり方、日本ではあんまりできてないな、って。

それはなぜなのか。

 

 

と、長くなったので、この言葉とコミュニケーションのこと、また書こうと思います。

いろいろ思うことありますよね。

 

 

というわけで、ひとまずまた。

明日あさっては仕事なしで、午後はちょっとした勉強、夜はひさびさの友人らと連日晩メシの会の予定で、

楽しんでこようと思います。

 

 

東京はずっとくもり雨&湿気がひどくて別の生きものになりそうな感じですが、

この圧にもっていかれませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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自分の居場所、自分の範囲

 

先日はひさびさに鎌倉〜逗子〜葉山方面へ行き、もう東京に帰りたくない〜と駄々をこねたくなるような開放感を満喫、と書いていて、つまりやっぱり普段、閉塞感じてるんだよね、とあらためて自覚したところです。

 

しかしこどものころからそう&前に書いたかもですが、いつでも好きな場所で生活したい、移動しながら暮らしたい、できたら外みたいなところで寝たいと思っていて、親に馬かキャンピングカーを買ってほしいと何度もたのんだものでした。

 

20代のころは毎年引っ越ししてる時期もあったりして、いまだにここ、という定住地がみつからないし、いまの地域に越してくるまでは、もうどこに住んだらいいのだろうと思って移動できない、というのも長く住んでしまった理由。

 

もっといえば、リーディングや新しくやろうとしているセッションについても、場所をきちんともうけるかどうか、というのがわりと大きなネックになっていたりする。

 

まだそのへんちゃんとフォーカスしたことがないんですけど、いろいろ探ってみると、結構でかい理由に行き当たるんじゃないかな&いい加減探りどきだよね、と、特にロスから戻って日々感じていて、先日のように気持ちいいところへ行ったりすると、ああやっぱりほんとにここちいい場所に自分を置くって大事よね、と思い、やっぱり自分と場所、生活というものをみよう&糖質制限食も、そこに関連してるのかもね、と思ったりしました。

 

 

で、自分の場所というものについて、いったいどこまでの範囲がそれなのか。

範囲、というワードが浮かんだことで、Powers of Tenを思い出し、ひさしぶりにみてみました(日本語ナレーション付きあったのでこっちリンクしておきます、これ江守徹さんかな、いい声)。

 

これもたぶん、だいぶ前に書いたはず、でも探すのが面倒&そのときに感じたことといまみて思ったことはまたちょっとちがうと思うのでいいとして、

 

いまみて思ったことは、結局全部隙間だらけじゃん、実体ってすんごいゆるいなーと。

目であの映像の像のみで言ったら、もうなんでもかんでも点じゃんただの(というか実際そうよね)。

そして実際、全部編集なんだよね、と。

 

 

ほんとは今日、東京は都議選で、わたしもこれから投票に行きますけども、政治って結局なんなんだろうか、と考えてみようと思ったんですよね、ほら音楽に政治持ち込むな思想とかあるでしょ、で、癒しとかスピリチュアルに政治持ち込むな思想とかあるのかな、とか、そもそも政治というものの捉え方自体、みんなどんなふうなのかなという興味含めて自分なりの捉え方を探ってみようと書くつもりだったのです。

 

で、powers of tenもその視点入れてみてみようと思ったわけです、つまりあれは最初立方での範囲でみてくじゃない、で、視点としては縦軸にみえる、じゃあたとえば立方でも上の距離固定して横軸でみてみたら自分、自分の各部屋、両隣の家、とかになってくじゃん、そうしてみてくとどうなのか、とか、

 

じゃあ物理的な距離じゃなく心理的な距離ってどうなの、とおもうとたとえば人間関係、職場、とか、内的な話になるともう物理的な距離じゃなく時間軸も無視されて、頭のなかのカットアップ、つまり編集された場所、範囲になるよね、って。

 

心理的な距離でいったら、いってみればそのひとの具体的な行動範囲に密接に関わっていて、生活、というものが必ず付随してる、もちろん、その範囲によって、フォーカスされる場所が変わってくるわけですけど、物理的な距離も含めてそこに政治というものはどう位置づけられ、もっといえば個人のなかでどう編集されてくのか、

みたいなことを探ってみたいなと。

 

 

って、書いてるうちに、まさにpowers of tenのごとく広大になってくので自習にします(笑)。

 

って、なんか難しいこと書いてる風にみえるかもですけど、全然シンプルに着地できるような、というか自分で理解できること、それこそその範囲ではたらく脳、いやこれもどこにフォーカスするかで、やっぱ飛距離伸びるんじゃね? といま思いました。

 

いや、やっぱり人間てすごいと思うんですよね、思考、エゴ、マインドという範囲外にゆだねれば。

 

そして、日常の、身近な風景に戻ってみると、

どこに住んだらいいのだろうと思って移動できない、というのと、

何をやったらいいんだろうと思って行動できない、というのはまさに、、と思いました。

 

というわけで、とりあえず選挙に行ってきます。

 

 

あ、先日、糖質制限ぶち破った食の写真は以下です。

 

お昼。

 

 

 

 

しらすの土鍋ごはん、焼きゆば、ズッキーニ、かぼちゃ、大根の炊いたやつ、いろんな野菜のサラダ、よもぎ豆腐、何かの海藻のお味噌汁

 

でも、こうやってみると、そんなに糖質ぶっちぎってないように見えますよね、やっぱりごはんと調味料かな。

 

 

で、早めの晩ごはん。

 

 

 

ガーリックシュリンプとアボカドのバインミー、写ってないけどホットコーヒー。

 

お茶のつもりだったのですが、時間がずれ込んだのでおやつじゃなくごはんのつもりで。

これはパンの風格で制限破り感ありますかね。

 

ここ、移転してからはじめて行ったんですけど、やっぱりおいしい〜。

 

その後、別のお店でクリームソーダを飲みました。

いまは再び、制限念頭に置いてる食に戻ってます。

 

 

というわけで、また。

いい感じの範囲で過ごす週で☆

 

 

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正論、日常、視点、方向

 

今週めちゃめちゃ忙しく、お灸に膏薬、アロマにエッセンス等々、投与しつつ健康に戻しながらの作業諸々、いままさに今週のピーク、という感じなのですが、

ちょっと書いておきたいな、と思い、すこしだけ。

 

正論って、いったいなんなのか、ほんとに正しいものなのだろうか、ということ。

 

これ、ほんとはもっとまとまってから書こうと思ってたことなんですけど、とりあえず。

 

 

正論と呼ばれるものって、ひとによってもちがうし、地域、国、立場、もっといえば時と場合によっても変わるものだと思うんです。

 

まず「誤」があるから発生、いや、最初に「ひとつの論、考え」があって、その後にそれに異や対するものが発生したことにより、最初の論を「正」としたのかもしれないけど、それはさておき、というか、それさえ時と場合、場所によって変わりますよね。

 

とにかく、そもそも正しさそれ自体が変わるものであって、絶対でも真実でもないということ。

感覚とか集合意識によるそれとか、モラル、それももっと根源的な感じの、そうした意味での当然さ、いわば正義、と呼ばれるレベルのものでさえ、ほんとうはそうだと思うんです。

 

これ、いいとかだめとかわるいとかの話じゃないですからね、よもや正誤などとは。

 

 

で、とりあえずここに書いてるのは、非二元的(あえて)な視点からみて、という話で、すべては正しいし間違っているし、正しくないし間違っていない、全部よいしわるいし、よくないしわるくない。

相対するもの、がない、だから対するものが発生するとしたらそれはジャッジによるラベル、つまり分離(すんません、ここ核心本質(あえて)だけど飛ばします)。

 

 

ただ、

“非二元だから”、正しいも間違いもない、というのが「考え、論」になったら、これはもう非二元じゃないんですよね。

 

つまり、

正しいも間違いもない、だからジャッジしてはいけない、

と一見それが“正解”にみえるそこにはまさに“正しさ”があり、それが“正しい在り方”、になってしまう。それはもう完全に二元、でしょ。

 

 

って、混乱するかもですが、そもそも思考、マインドの視点からそうでないもの、というか言葉にできないものを“実践”(あえて)しようとすること自体が、、、であり、覚醒者でもないのに非二元二元語るな、という感じですけど、

普通の意識(あえて)の人間がいかに思考、エゴ、マインドにとらわれずに生きるか、しかもグルのもとやアシュラムでなく時間という概念のもと、日本という国の、ひとつの街で、これ小説ですか映画か何かっすか? といったびっくりするような展開の続く非日常のような日常のなかで、どう過ごしてくのか。

 

 

とりあえず、自分、というものの視点、意識の方向がどこを向いてるのか。

それだけでも、みてみてもいいんじゃないかな、とおもいます。

 

これ、日常のことを言ってます、自分というものの、とても身近な日常の、自分の、自分だけによる、自分のためだけの視点、方向。

 

 

 

というわけで、タイトルがあんまりぴし、っときてない&落ち着いたら本文書きなおすかも&加筆するかもですけども、

今日はこのへんで。

 

ほんとに、いい感じの毎日を☆

 

 

 

 

 

 

 

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ゆっくり休むということ

 

結構つかれがたまっているらしく、ひとつ何か終わるとぐったりで、何年か前から2,3日動けなくなる、というのが年に数回あって、とりあえずはりや整体や何かに行く、というのがパターンになっていて、で、去年の夏に不整脈、と、この週末はひさびさにその感じ。

 

振り返ってみると、去年はたまたまちゃんと脈診とってもらったからわかっただけで、いままでもこの感じのときって、脈ちゃんと打ってなかったのかも、この数日もまさにそうなのかも、と思いました。

 

しかもここのところ、満月の日に月のものがくるというサイクルに戻ったので、くると今日は満月なのか、とわかるんですけど、それもあって重だるさがましてなお動けず、、なのに、メール返さないと、とか、あれ調べないと、とか、からだはもうだるんだるん&頭もなんというか白いものがぼーっと続いてる、みたいな感覚で無理っすー無理っすーまじ無理っすよ〜〜という感じなのに、あれやんなきゃこれやんなきゃ、って、できないのにやろうとしてしまうんですよね。


 

完全に起き上がれなくなるくらいになると、もう動けないのでひたすら寝るのみなのですが、ほんとはそこまでにいかないように、普段からちゃんと休む、という時間をつくる必要があるんですよね。

 

でも、こう、なんというか、ゆっくり休むって、難しいな、と。

 

ひとにはしょっちゅう言うくせに、自分のこととなると難しい。

それに、自分的には結構休み休みやってるつもりなんですよねえ、川でぼっさりもよくやってるし、仕事完全抜きでひととも会ってだらだらしゃべったりしてるし。

 

でも、ほんとにゆっくりした時間をもつというのとは、たぶんちょっとちがう。

そしてこれは、緊張というものや、サヴァイヴァルの感覚にも関係してると思います。

というか、そもそもゆっくりした時間をもつ、の前に、動けないときに動こうとしてしまう、という動きが発生するなんらかの理由がある。

 

って、考えはじめるとまた頭がぐらんぐらんになるわけですよ。

そう、何か思いつくとどんどこ先を知りたくなってしまうこの性質もよくないんだろうな。。

 

 

とにもかくにも、

気圧に左右されやすい季節も到来したことですし、からだの性質でいえば自律神経のバランス崩れやすいので、

ゆっくりしながらいきたいものですな。

 

 

というわけで、また。

らくな感じの一週間を☆

 

 

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「6月のメディスン」出してます!

 

「チャクラのバランスを整えるキャペーン」再開してます!

 

よければおためしを〜☆

 

 

 

 

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