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新年のあれこれと呼吸のクラスご案内。

 

 

 

あけましておめでとうございます☆2021

 

と、とってつけたように書いてみましたが(笑)、あーあもうお正月も終わりですよ、あったの? ねえお正月ほんとにあったの?? みたいな気分ですよ。

 

毎年カレンダーがどうであろうと7日まではお正月で基本全員休み、とかにするわけにはいかないんでしょうかね。

お店も休み、テレビとかゲーム、ネットもニュースとメールをのぞいてお休みみたいになったら、個々の想像力とかが復活してくるような気もします。

そのくらい完全な切り替え、節目があってもいいんじゃないのかな年に1回くらい。

 

 

とか言いつつ、

わたしの今年のお正月はまず1日に年末チェックしていた服を初売りでゲットしに、

2日はいまつかってるmacbook proに些細だけど不具合が出はじめたのでいまのうちに新macbookをゲット(M1じゃなくIntel、どんな質問にもこたえてくれる素敵店員さんがいて助かりました)、

3日はデータ移行のためもう一個メモリをゲットしに、

 

と、結局毎日自転車で滑走してましたがお正月の街は独特ですごいここちよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前年末にはじめてお台場まで自転車で行ったことがあるんですけど、

ゆりかもめで通るたびにいつか自転車もしくは徒歩で通ってみたいなと思っていた道を通ることができて感動、

去年も行ってみたかったけど時間がなかった&ふらふらで行けませんでした。

自分にとって自転車で街を走る時間や、友だちと目的もなくぶらぶら歩くこと、

すごく大事。

 

 

そういえば初夢、結構長い知り合いの男子と話してる夢と、呼吸のクラスをやってる夢で(笑)、それより今朝のほうが初夢っぽい感じでした。

 

それは、自分と父親 or パートナーのような男子(この人物よく出てきます)と家に帰る途中、誰かにあとをつけられていて、

家に入って郵便受けから尾行者をみていると先方もずっとみていておたがいに目が合い、

結局父親 or パートナーのような男子が、なんのご用ですかと聞きに行くんですけど、

尾行者はある亡くなった年配の女優さんのご主人と娘さんで、

なんとしても彼女と話したいのでちからを貸してくれないかというものでした。

 

特にご主人はいつも話ができるように自分もなりたいから、そのやり方も教えてもらえないかと。

 

 

夢のなかでは、ああこういうケース、むかしもあったなあ、でもなんでこの親子のひとたちは自分がそういうことをしていたのを知ってるんだろう、自分はいまはやっていないし、

でも知っている時点でこの話は引き受けるべきなんだろうなあと考え、

わかりましたやってみましょう、と承諾していました。

 

 

 

で、目が覚めて、自分はもう基本的にいままでのようなリーディングやチャネルしてメッセージを受け取るみたいなことをやりたいと思っていないし、

でも亡くなったひとの声を届けるというのはいろんな意味ですごいたいへんなことだけど、誰かの役に立てるよねとしばらくあれこれ考えをめぐらせていました。

 

 

以前ミディアムシップのクラスでちょっとなかよくなったあるヒプノセラピストの方とごはんを食べに行ったとき、

なぜミディアムシップをやろうと思ったのか聞いてみると、

それは3.11のときにボランティアに行って、自分のトラウマや過去のことなんかより、

亡くなった自分の家族の最後の声をどうしても聞きたいという声をたくさん聞いて、衝撃を受けたとのこと。

 

それから自分がいままでやってきたことや信念、考えを振り返って向き合った後、

もう一度あの場所に戻って、亡くなった方の声を届けたいと思ったと。

 

今朝、すごくひさしぶりにこのことを思い出したんですよねえ。

 

 

それと、もうひとつの夢は、近所のコンビニに行くときりんの赤ちゃんがいて、

さわろうとすると握手してくれたり、いきなり嫌がったりしてどうしたらちゃんとなかよくできるか考えている夢。

しかも店員さんやほかのお客さんはあまり関心がないようで、自分以外きりんに近づくひとがいないんです。

で、自分の亡くなった母親に、コンビニにきりんの赤ちゃんがいるんだけどさあ、と伝えると、ほんとだ、と言って握手をしてさっさと帰るという夢。

 

 

 

そういえばこどものころ、馬かきりんかキャンピングカーのどれかを買ってくれと親にねだり続けたのですが、

どれも買ってはもらえなかったんです、これもひさびさに思い出しましたね。

 

馬で毎日学校に通いたかったし、きりんにときどき背中や頭にのせてもらいたかったし、

キャンピングカーで家族と暮らしたかったんです。

正直、この野望はいまでもうっすら残っていますね。

そして馬のかわりが自転車。

 

 

ここには移動というのがキーワードになっていて、それはそのまま旅につながっていて、

街や道でのいろんな出会いが自分にとっての旅そのものなんですよね。

まあどの国に行っても日本でも、知らないひととやもののその場の出会いやできごとが楽しい。ほんといろんなことがあって。

 

基本ひとりでいるときにいろんなことが起こるんですけど、その感覚が共有できる、

つまりひとりで歩いているときのようにその場を二人でも経験できる数少ないある友人のことも、

今日ひさびさに思い出したなあ。

彼女には、いろいろな国でほんとに助けてもらいました。

 

 

 

と、新年早々走馬灯がはじまってしまいましたが、

今朝の夢が、今年のキーのひとつになりそうだなと思いつつ(=ミディアムシップをやるということではなく)、

とりあえず呼吸のクラス、来週の火曜日からスタートです。

 

今年は時間を少し短く実践をぎゅっと凝縮、集中して行なっていこうと思っています。

特に1月は濃縮ベーシックという感じで、はじめての方も入りやすい内容かと思います。

 

 

 

そんなわけで、

とにもかくにも、今年もいろいろあると思いますが、

どうぞよろしくお願いします!

 

 

 

***呼吸のクラスの詳細、こちら に出ています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| text | 15:51 | comments(0) | - |
自分を理解すること、受け容れること。

 

おかげさまで、先週から杖なしで外出をはじめ、

一昨日、4ヵ月半ぶりくらいに電車に乗りました。

 

やっぱり、別のエリアに行くと空気感とかヴァイブレーションが当然ながらちがって、

新鮮な感じもするし、いいですね。

 

まだ正座、ジャンプ、走るのがNGなのと、長距離歩くとまだ少し足が腫れたりするのですが、

それでも行動範囲がひろがってうれしいです。

 

日々、ほんとにいろいろあるし、なんだかなーと思うことや、

なんというかどっちつかずの雰囲気が漂っている感じがしますが、

先日、そんな感覚を吹っ飛ばしてくれるようなメールをいただきました。

 

 

それは、以前、ワークショップやリーディングを受けてくださったKさんからの、

かれこれ5年ぶりくらいのメールで、その後の変化や近況についてのご報告でした。

 

シェアさせていただく許可をいただきましたので、ご紹介します。

 

 

***

 

2015年辺りにワークショップと個人セッションをしていただいた◯◯です。

今は結婚してKになりました。

 

セッションを受けた後、感想やお礼も送らずドド〜っと時が流れてしまいました。

なぜか最近そのことに気づき、お礼を伝えたいとメールを書いています。

 

思えばANANYAさんのワークショップに参加した時から、

自分の人生にちゃんと向き合う決心ができたのだと思います。

(めちゃくちゃ行きたくなかったことも覚えてます…)

 

リーディングでは自分でもびっくり級の悲しみに蓋をしてたことに気づき、

過去の私に「つらい思いさせてごめんね!愛されたかったんだね!」と涙が止まりませんでした。

その後2日くらい泣いてました。笑

 

そこで自分の中の愛情の流れがスムーズになったとたん、

好きな人ができて結婚、 今は一児の母になりました。

こじらせすぎて分からなくなっていたけど、私は自分で家庭という基盤を作りたかったみたいです。

 

自分の母に対して拗らせていた感情も、夫と話し合ったり夫の家族を客観的に見ることで解消され、

これまた世界が180°変わるような衝撃でした。

私はただただ拗ねていただけで本当は愛されてたんだ!!という。

 

それからセッションのときに「座り心地のいい椅子」と「ハーブティー」を自分のために探してみて、

というようなことを言われたのですが、なかなか出会う機会がなく、

去年引っ越ししたときにようやく理想の椅子に出会えました。

そして紅茶に詳しい夫がハーブティーを淹れてくれます…。

 

椅子の話とか、何年越し?!ですが、ようやくここまで来れたなぁと感慨深いです。

セッションを受けた頃とは全然違う景色にいて、あの頃の自分を遠く感じます。

よくがんばってきたね、とも思います。

 

自己肯定感が低かったのでなかなかつらく感じることも多い人生だったけど、

ようやく楽しいビジョンも見えてきました。

 

まだまだ人生は続くのだろうし、今も学びはたくさんですが、

この流れに乗るきっかけをくださったANANYAさんに感謝します。

別れ際に握手してくれた手の温かさを今も覚えてます。

本当に本当に、ありがとうございました。

 

たくさんたくさんタイムカプセルのようなメールを書いてしまって失礼しました。

時代の節目で価値観の刷新に目が回りますが、ANANYAさんもご自愛ください。

 

 

******

 

いやーもう拝見しながら自分のことのように涙があふれてきてしまって、

かけ値なしによかった〜〜〜とうれしくなりましたよね。

 

Kさんが参加してくださったワークショップは、

たしか年明けに1年の自分、みたいなテーマでやったんじゃないかと思いますが、

当日、Kさんは1時間くらい遅れていらっしゃったんです。

その理由は「行きたくなかった」とのこと。

 

こうしたワークショップやセミナー、セッションって、申し込んだのは自分なのに、

なぜか行きたくなくなったりすることがありますよね、

それはだいたいが抵抗によるものですが、

逆にそういうひとって、大きな変化を迎えたりすることが多いんですね。

 

あの日は、終わってから参加者のみなさんと一緒に晩ごはんを食べに行ったのですが、

お店に向かう途中、Kさんが、こういうときはどうしたらいいのか、

こういう感情はどう扱ったらいいのかなどずっと質問攻めで(笑)、

あんなに行きたくなかったとおっしゃっていただけでなく、

どちらかといえばおっとりとしておとなしく見えるのに、

その情熱に驚いたことを覚えています。

 

そのくらい、ご自身を変えたい、変えるのだという強い思いで、

それはあのワークショップに参加してくださった誰よりも大きかったのだと思います。

 

 

その後しばらくしてから、今度は個人セッションに申し込んでくださって近況を伺うと、

ワークショップのあと仕事をやめ、全然ちがう地域に引っ越し、

新しい仕事に就いたとのことで、それもびっくりしたのですが、

今回もまたびっくりの展開で、ほんとにひとってすごいし、

わたし自身もめちゃめちゃ勇気づけられました。

 

 

ひとはだいたいにおいて、変わりたいと思いながらも、

現状にとどまってしまったり、誰かや何かのせいにしたり、

自分は一歩も動かずに、誰かや何かのほうを変えようとします。
 

でも、自分の見方、意識を変えない限り、

目の前の風景は変わらないんですよね。

 

馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないといいますけど、

ひとを変えることはできないし、起こったことはもう起こったこと。

 

結局、誰かや何かを変えようとすることって、

チューリップの球根に対してバラとして咲け、とか、

犬とかねこちゃんに向かってパンダになれ、

というのと同じなんですよね。

 

でもわたしたちは、小さなころからそれを強いられてきたし、

いまも社会、世界はそれを求めてくる。

 

 

自分を取り戻すこと。

そのためには、まず自分が自分を知り、

いちばんの理解者でいること、

どんな自分をも受けとめて、歓迎してあげること。

それがすべてであり、

そこからはじまるんじゃないですかね。

 

 

Kさん、ほんとにありがとうございました!

わたしもあらためて自分のこと、もっともっとみていこうと思いました。

 

(ちなみに、リーディングですわりごこちのいい椅子、ハーブティーのことは覚えていません笑、

でも今回メールをいただいて、家庭、家族の暗喩だったのかなと思いました。

自分で言っといてなんですが笑、いや、リーディングの内容は基本忘れてしまうのです)

 

 

 

今年もあっという間に半分過ぎましたが、

まだまだいろいろあると思いますし、

Kさんのおっしゃるように価値観の刷新、ほんと必要ですね。

 

 

というわけで、また☆

 

 

 

 

 

 

| text | 23:55 | - | - |
ネット復旧してます&この期間に思うこと

 

おかげさまで、ネットは月曜日の夕方近くに無事復旧、

結局、建物共有部分の機器の故障で、

うちだけでなく、8名分の回線がつながらなくなっていたとのことでした。

 

階下は大家さんの会社だったので、業務に支障があったと思うのですが、

すでにわたしが修理を手配していたため、月曜日の数時間でみんな復活、

そのせいかどうかわかりませんが、

翌日、大家さんの奥さんがうちにやって来て、

マスクやお餅や美味しいお菓子をたくさんくださり、やった!という感じで、

とりあえずお菓子をムシャムシャやっています。

 

 

実は先日、お餅が食べたいなと思って、

ネットスーパーで買おうかなと思っていたのですが、

このネットスーパー、骨折したすぐの頃は当日申し込みで夕方の配達が取れたのに、

いまや戦いになっていて、敗れ続けたら永遠に買えないのでは? というくらい

たいへんな状況なのです。

 

足折れてなかったら間違いなく普通にスーパーに買いに行っているところですが、

階段はまったく無理だし、長距離歩くことはまだ無理なので、

ネットで買うしかないんですよね、

正直、病気などでネットでしか買い物ができない状況にあったら、

餓死あり得るんじゃね?? と思います。

 

で、呑気にお餅選んでる場合じゃなく

(食材選んでいる途中でももたもたしてると配達が埋まってしまう)、

とにかく絶対に必要なものを決死の思いで決済したので、

諦めたのでした。

 

そしてその翌日、お餅がうちにやって来たわけです。

 

かなり以前、スイカの話を全体性のあらわれとして書いたことを思い出しましたが、

まあいまに始まったことじゃないですけど、

どんどん現象化のスピードが速くなってますよねーほんとに。

 

 

さて、ネットがつかえない間、

FENを聴いたり、借りていたDVDを1日1本観て、本を1冊読み終え、

ときどきそわそわしながらも、いつもよりゆったりと過ごせました。

 

あと2,3日続いていたら、もっと慣れて、

また少し生活の仕方が変わったかもしれないと思うと少し残念な気も。。

常時接続はすごい便利ですけど、

むかしみたいに、自分がほんとに必要なときだけつなげるようにするのもいいのかもと思ったりしました。

 

 

すでにいままで通りな感じに戻ってる気がしますが、

住む場所も含めて、食べもののことやこれからの生活環境、

自分にとってどんな感じが過ごしやすいのか、

骨折やこの自粛の中で日々思っていますけど、

さらに具体的に考えるきっかけになりました。

 

いま、ほんとそういう時間よね。

 

 

そんなわけで、また!

 

 

 

 

 

 

 

 

| text | 15:31 | - | - |
そこから何をいくつ拾えるか。

 

昨夜、突然ネットがつながらなくなり、

いろいろ電源切って再起動を繰り返してもだめ、

ケーブルを換えてみてもだめ、プロバイダーの障害情報もなし、

そもそも以前からときどきあったことだし、

これはもう建物自体の回線の問題だなと思い、

今朝プロバイダーに連絡するとまさにそうとのことで、

早くて復旧は月曜日の夜、建物の全ケーブルを取り替えるとなるとさらに先、

というわけで、その間セッション予定の方(すみません!)や

オンライン英会話のキャンセルなどネット関連の連絡をして、

いまiPhone でこれを書いています。

 

いやーなんか次々来るなあと思いつつ、まあ壊れてるものを早く直すに越したことはなく、

セッション中とか逼迫した連絡が必要なときじゃなくてよかったわけですが、

何より、自分にとって、いかにPCやネットが不可欠になっているか思い知らされています。

 

同時にほんとに必要なものの見極めとか、ネットが使えなくなったときの生活のイメージだとか、

いろいろみえてくるものがある。

 

旅行のときは現地の情報を調べる以外、まずSNSとかみてる時間もないし、

ブログもよほどじゃなければ書かないし、

そのときの体験に集中しているからなんでしょうけど、wifi借りてもスイッチを入れないことのほうが多いんですよね。

 

しかも、わたしのiPhone はsimのいちばん容量が少ないプランなので、

ほんとに必要なものごとを選んで接続します。

 

にもかかわらず、家にいたらまあ仕事もあるけど、ネットをつながずにはいられない。

というか、つなぐことが自分の自然になっている。

 

 

とはいえ、新鮮に感じることもいろいろあります。

 

たとえば、普段はネットの好きなラジオ番組しかほぼ聴かないんですけど、

今日はひさしぶりにラジカセのラジオで超ひさびさにFENをつけてみたら、

ああこんなに音が太かったんだなとか、やわらかいなとか、この音質はここちよくないなとか、

あとたまたまなのかもですが、普段聴いているHIP HOPのネットラジオと選曲がほぼ一緒で違和感なしでびっくり、とか。

 

 

そして、時間がゆったり流れている気がします。

ちょっと空間にたわみというか、ひとまわり大きくなったような。。

 

 

もしも月曜日に復旧しなかったら、wifiをレンタルするかもですが、それもなんか不思議。

旅先だったら絶対そのまま過ごすもんね。

 

時と場所が変わると持ち物が変わるって、

過ごし方がちがうとはいえちょっと不思議だなと思う。

うん、ここについても考えてみよう。

 

って、結局自分はこうやって生きてきたんですよねーずっと。

どんなできごとも、必ず自分にとって、なんらかの示唆になる。

ほんと、そこから何をどれだけ拾えるか。

 

今回の骨折も含めて、特に突然の、

自分では手に負えない、生活を一部でも変えなくてはならないようなできごとって。

 

 

というわけで、ロックダウン色がますます強くなってきたわたしですが(笑)、

うちはテレビもないし、今夜は先日レンタルしたDVDをみたり本を読んだりして過ごそうと思います。

 

 

みなさま、それぞれいい感じの週末を過ごしましょう〜☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| text | 16:59 | - | - |
全体性と想像力。

 

 

自分の周りはほぼ外出自粛体制になり、実際に会っているのは、
ゴミ出しと郵便物を届けてもらっている大家さんの会社の事務の方と、
病院で出会うひと、タクシーの運転手の方、宅配の方のみとなり、
友人知人とも完全にオンライン交流となりましたが、
先日、毎日仕事場に行っているひととのやりとりで、
おたがいの意識にズレが出てきているのを実感して、
そんなものなのか、、と多少ショックを受けたりしています。

 

外出自粛組は、たとえばきみに会いたいけど大切にしたいからいまは我慢、
みたいな歌がリリースされるくらい生活のシフト、意識の方向性が
もうそっちに行っているひとがほとんどなんだと思うんですよね。

実際、家でできることや、この状況で何をしていこうか、みたいな話をしているし。
 

 

でも、毎日いままでと同じく電車に乗って会社に行って、
というひとたちはそういうメンタリティではないのか? と、
都内自粛要請(?)が出てからまだひと月も経っていないのに、
そんなにちがいが出てくるものなのか、と。

 

 

もちろん、すべてのひとがそうなわけではないし、
自粛組の中でも、三密ではないからと、山や海へ出かけているひともいるとのことだし、
やはりそれぞれなのですが、
自分の身近でも結構共鳴できなくなっているひとが出てくると、
またいろいろ思うことが出てきます。

方向性が全然ちがう意識のひともいるもんね、、。

 

 

で、今日は、ご存知の方もいるかもですが、
トラック運転手の方がガソリンスタンドのシャワーを利用できなくなりつつあり、
このままでは流通に影響が出てくる可能性があるという話をシェアします。

https://news.infoseek.co.jp/article/gadget_2499132/

 


トラックの運転手の方の生活について考えてみたことがなかったので、
そんなことになっているのかと驚いたのですが、
真っ先に思ったのは、おなじみのバタフライ・エフェクトと、全体性についてでした。

 

 

つまり、ガソリンスタンドがシャワーの利用を中止すると(北京の蝶の羽ばたきが)、
さっき食べたりんごが食べられなくなるかもしれない(ニューヨークで嵐を起こす)という、
かなり飛距離のある事象が展開するということですよね。

 

 

バタフライ・エフェクトではニューヨークで嵐かもしれないけど、
わたしたちはりんごだけでなく水もお米もトマトもお味噌汁も、、って、
もちろんこれは極論ですけど、
ほんと、これぞまさしく全体性の極み、と思える話じゃないです??


 

以前、フラワーエッセンスの遠隔でのセッションで(いまはやっていませんが)、
北海道にお住いの方に毎月ボトルを郵送していたのですが、
郵便の基準が変わったか何かで、
中身について詳細を聞かれたことがありました。

 

結局これはアロマオイルのようなオイルなのか、それとも化粧品のようなものなのか、
みたいなカテゴリーのことで話が進まず、
ほかの係のひとに聞いてみましょうということで呼ばれていらした方が、
たまたまエッセンスを使っている方で、処理をしてくださったんですけど、

もしかすると空輸の段階でストップがかかる可能性があるとのことで、
これは賭けだな、みたいな気分になったんです。

 

 

で、結局無事届いたのですが、
クライアントの方に全体性のことについてお伝えしたくて、
今回の発送でこんなことがありました、というメールを送ったんですね、
するとその方から、わたしと郵便局の方たちがいろいろ苦心してくれたおかげで自分が受け取ることができた、
というような返信をいただきました。

けれどもいやいやそれだけじゃないんだよと、
それはプロセスの過程の1シーンなのであって、そのエッセンスを次の部署や飛行機、
そこからまた郵便局、配達局、実際に配達してくださる方、というように、
目に見えないところで何過程あるのかわからないわけですよ、
何人の手がそれを運んだのか。

そして、そこにも何か物語があったかもしれない。
 

 

ひとつのものごとの全過程について把握せよとか
意識したりしなければいけないなどと言ってるんじゃないですよ!
でも、ちょっと想像してみると、自分のところへやってくる何か、
そこには結構壮大な展開が繰り広げられているかもしれない、
この先一生出会うこともないかもしれない、
出会ってもわからない誰かの手と手がつながって来たんだよね、って、

プリンとか食べながらぼんやり思いをめぐらせてみるのもいいんじゃないかなと思いました
(わたしはもう何ヶ月もプリン食べてませんが)。


 

いま、みんながなかなかフィジカルにつながれない状況の中で、
新しいコミュニケーションや生活を探っているわけじゃないですか。
そして、ちょっとずつ声を上げていくことでいろいろな変化が起こってる。

 

これは、この肉体やマインドを持ちながらの、
無意識無自覚なワンネスへの動きなんじゃないかとわたしは思っています。


 

というわけで、また。
この生活の中で、
新しい何かが見つかる1週間でありますように☆




 

 

 

 

 

 

 

 

| text | 19:09 | - | - |
自分を導くもの。

 

 

先日、想像力について書いていたら、ひさしぶりにアイディアが湧いてきて、
先週からコツコツTシャツのデザイン作業をしています。

 

自分でデザイン&製版して、1枚ずつシルクスクリーンで刷るので、
そこまでこの状態でできるのかわからないのですが
(スクリーン貼ったり部屋を真っ暗にして製版したり、刷毛で上薬を落としたりアイロンかけたり等々、
片足だとたいへん)、

とにかくデザインだけでもやっておこうと黙々と作業、
あとはサイズ決めと全体の微調整、というところまでできました。

 


やっぱり自分は、手を動かしたり何かをつくることが好きだなと
あらためて思います。
早く刷りたいなー。

 

 

そのほかやっているのは、毎日映画を1本観ることと、インターネットのラジオを聴くこと、
先送りにしていた諸々の作業、あとはたまにオンラインの英会話や読書に友だちとスカイプやチャット、
そんな感じで日々あっという間に過ぎていきます。

 

 

あ、あと、瞑想と呼ぶほど深くはいきませんが、ぼんやりとする時間をとるようにしています。
特に午後、晴れているときはベランダに座って植物を眺めながら、
何も考えず、湧いてくる思考もやり過ごして、ただぼんやり。

 


周りは早々にリモートワークになったひともいれば、まだ毎日仕事場に通っているひと、
お店が休業になり毎日家にいることになったひと、この機会に会社をやめたひと、
もともと自宅仕事のため特に変わらないひとなどそれぞれで、
感情の変化も過ごし方もまたそれぞれ。


 

 

お店が休業といえば、今年の元日に沖縄で知り合ったトモさんという絵描きのひとと、
一昨日ひさしぶりにチャットしました。
市場通りでお店をやっているのですが、やはりひとが全然来なくて、
今月で閉めるとのこと。

 

えーもうあそこでコーヒー飲みながらおしゃべりしたりできないじゃん!!
と、かなりショックで、でもトモさん曰く「わたしの場合、これからがはじまり」。
お店閉めたあとどうするの? と聞くと、
無人島に行くとのことでした。

 

トモさんは還暦を過ぎているのですが、ファッション含め妖精のようなひとで、
これまで会ったなかでも、かなりエネルギーもフットワークも軽く、
ひとやものごとに対するジャッジがあんなにないひともなかなかいない、
という感じで、会ってすぐになかよくなって、
3時間近くおしゃべりしたのでした。

 

以前、1年間誰にも会わずに離島で絵を描いていて、
それから妖精みたいなものが見えるようになったと言っていましたが、
むしろそれが自然な感じ。
だから、また離島生活に入るのも、
トモさんにとっては自然な動きなんだよねと思います。

 

 

 

また先日は、以前個人セッションを受けてくださった方から、
コロナの影響で会社が休みになったため、
ブログをはじめたというメールをいただきました。

お名前は出していないようなのでMさんとしておきますが、
Mさんはイタリアにお住まいで、
山や自然にとてもシンパシーのある方のひとりです。
まだ全部拝見していないのですが、
山やイタリアについてのお話もさることながら、
コロナ関連のポストに思わずニヤリ。

で、紹介させてください、とメールすると、
ぜひ、とのことでしたのでリンクします。

 

 

『イタリア山大好き。アルプスの山々は懐かしい父と母のよう』
 〜コロナ時代、楽しく絵画観賞しましょう!

https://ameblo.jp/italyamadaisuki/entry-12587727439.html

自分はユーモアのセンスがないのでうらやましい、と書かれていましたが、
注目するのもまたセンスですよね。

そのほか、いなくなっていたわんちゃんを通して感じられたことを書かれたこのポストには、
ちょっとうるっときました。

https://ameblo.jp/italyamadaisuki/entry-12586991150.html


 

ほんと、何に目を止め、何を発信して何をつないでいくか。

別に何かを生みつくり出すことだけがすごいことでもすべてでもなくて、
つなぎ手にこそかかっている、いままさにそんな時期だと思ったりします。

これから、いままでと同じメンタリティ、
同じ意識ではほんとに立ちゆかなくなっていきますよね。


たとえば、ひとりのカリスマ、リーダーシップにつき従ったり、
そうした存在のもとでものごとが動いていくのではなくて、
それぞれが本来の自分に目覚めて開いていく、
そしてそれぞれの自分が集まりつながっていくという在り方。

 


「内なる教師」という言葉がありますけど、まさにそこに目覚めていくこと。


 

本来自分って、自分自身に導かれていくものだと思うんです。
そう、自分の生のリーダーは、誰でもない、自分なんですよね。


 

これからの自分がどんな景色を見ていきたいのか。
いまはそのための準備の時間なのだろうなと思います。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| text | 14:15 | - | - |
鹿の夢〜“わからないこと” への愛。

 


先日の「鹿の夢」に書いた、鹿のメディスンに関するネイティブ・アメリカンのお話。

メディスンカードの教科書に出ていますので、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、

ざっくり意訳して書いてみます。



*******
 

 


ある日、聖なる山の頂上からグレート・スピリットの呼ぶ声を聞いた子鹿は、すぐに聖なる山へ向かいました。


グレート・スピリットが住むロッジへ続く道の途中には、

恐ろしい悪魔があらゆる存在をグレートスピリットから遠ざけるために番をしていましたが、

子鹿はそのことを知りません。

悪魔は「グレート・スピリットは誰にも会いたくない」などと言って来る者を阻み、

彼らを怖がらせ、自分のパワーを証明しようとしていたのです。
 

 

 

ところが、子鹿は悪魔をまったく怖がりませんでした。

悪魔は、この世界の怪物の原型である自分を前に、恐れない子鹿に好奇心を抱き、

口から炎や煙を吐き出し、恐ろしい声を上げて脅かしました。

普通なら、どんな生きものも恐怖で逃げるか、その場で死んでしまったでしょう。

 


子鹿は静かに、やさしく言いました。

「わたしは、グレート・スピリットに会いに行く途中なのです」。

 


子鹿の目は、愛と慈しみに満ちています。

悪魔は、自分を見る子鹿の、恐れのない目に驚き、

どんな手を使っても子鹿を怖がらせることはできないと悟りました。

なぜなら、悪魔の醜く凍りついたハートを子鹿の愛が貫いていたからでした。

 


岩のような悪魔のハートはたちまち溶け出し、巨大な身体はどんどん小さくなり、

クルミほどの大きさになってしまいました。

 


子鹿のやさしさ、穏やかさ、慈しみ、普遍の愛が、悪魔を溶かしました。

そして道は開かれ、グレートスピリットのすべてのこどもたちが、

「恐れ」という悪魔に閉ざされることなく、

聖なる山へと向かうことができるようになったのです。

 

 



鹿は、聖なる山からわたしたちを遠ざけようとするのは、

傷ついた存在のこころであることを教えます。

そのこころに触れるのは、“やさしさのパワー” であると。

 


子鹿の美しいまだら模様のように、光と闇の両方を愛することで、

平和と安らかさをもたらすことができるのだと。

 

 



*******

 

 


この物語からのメッセージは、

「すべての傷を癒すやさしさをもつこと」。

 

誰かや何かを無理やりに変えようとするのではなく、あるがままを愛すること。
自分の状況に “やさしさ” をもつこと。


*******


いや、正直、いまのこの状況で、
このメッセージはなかなかきびしいよねと思うし、
それどころじゃないんだよ、と、リアリティは薄いだろうとも思うんです、
やさしさとか言ってないでもっと具体的なことを! と。

けれども、わたしが注目したいのは、“恐れ” についてなんです。

なぜひとが何かに恐怖するかというと、
それがわからないからだと思うんですね。
これが一体自分にどう影響するのか、この先自分がどうなってしまうのか。。

この“わからなさ” って、ほんとは恐れだけじゃなく、
わくわくと楽しい期待に向かう場合もあるじゃないですか。

プレゼントをもらって何が入ってるのかわからないとき、
好きなひとからのリアクション、
初めて訪れる場所への旅、
明日のおやつ、みたいな日常の中の些細なわからなさにさえ、
わくわくしたりもする。

これ、結構なハードルを設けてるよね、って思います。
ほんとリアリティないよ、きれいごと言ってんじゃねーよとか。
でもさ、これ、時と場所が変わればそうでしょ?
嘘ではないですよね?
この状況の中でも起こってるし、
これからも起こり得ることでしょ?

だとしたら、わくわくしたわからなさに目を向けてるのと向けていないのでは、
まずいろいろなことの視点が変わり、
すると選択も決断も変わってくると思うんです。
だってわたしたち、ほんとはどっちに行きたいの?? って。

子鹿は言います、両方を受け容れてみようよって。
自分のからだの模様のように、それは両方あるんだよって。

いや、子鹿はそんなことは言わないんですよ、
なぜなら、この物語の子鹿には、“恐れ” という概念自体がないから。

同時に、愛もやさしさも信頼という概念もない。
なぜなら、愛そのものだから。

もっと具体的な何かを! はもっともなことです。
それでも、背後にあるもの、これは変わらない。
目を向ける余裕はないかもしれないけれども普遍、消えたりしないもの。


怒ったり、声を上げることが悪いわけでは全然ない。
わたしだってふざけんな! と思うことが多々あるし、
実際に多くの声が反映されて多少なりとも風景が変わってもいますよね。

 

そして、不安になったり、気力をなくしたりもまた、悪いことではまったくない、

むしろこの状況をみたら当然の “反応” だと思います。




その中で、もしかしたら、
こころのどこかに響くひとがいるかもしれないと思って書いてみました。
何より、自分がこのことを思い出す夢をみちゃったので(笑)。


というわけで、何かの参考になれば。


こんな時期なので、また書きます。
“わからないこと” を楽しめたらいいですね。




 

 

 

 

 

 

| text | 21:11 | - | - |
鹿の夢。


 

ここ数ヶ月、毎日3〜5時間で一度目が覚めて二度寝、というのが続いていて、

二度寝のときにみる夢の内容がまた結構すごいんですけど、今朝は鹿の夢をみました。  

 

 


*****

 

 

そういえば、うちには鹿がいるんだよな、すっかり忘れていた、

と裏庭につないでいる鹿のことを思い出して急に不安になり、

 怒ってるかも、あるいは落ち込んでるかも、うつみたいになってたらどうしよう、、

と心配しながら様子を見に行くと、鹿は地面に脚を折りたたんですわっていて、

きょとん、とした顔でこちらを見ていて、心なしか、少しやつれているように見えます。
 

 

わたしは忘れていてごめん! とひたすら謝り、せっかくだから散歩に行こう、

外の世界を見たほうがいいよね? と、つないでいた紐を外し、そのまま歩き出したのですが、

もしも逃げてしまったら困ると、念のためリードをしようと首輪に取り付けかけて、

やっぱりやめよう、と、代わりに鹿を抱っこして出かけました。  

 

鹿のからだはあたたかく、ちょっと甘い匂いがして、

わたしの行動を、いちいちきょとんとした表情のまま黙ってみていました。

 

 

鹿がつないであった庭、その家はわたしが普段住んでいるところではなく、

何かの理由でたまたま訪れているという設定で、家もその周辺についてもよくわからず、

外に出るためには、渡り廊下でつながっている近隣の家、

というより会社などが入っている社屋みたいな建物をいくつか通る必要があります。  


建物の中では仕事をしている人たちもいれば、なんとかセンターみたいな施設があったり、

でも受付の人はいなかったりと、人はあまりいないようでした。  

 

やっと外に出ると、広い駐車場のようになっていて、そこから細い道に入ると、

つやつやした濃い緑色の葉っぱの木が道に沿って生えていて、

ひんやりとした空気がここちよく、空気がきれいだね、

と鹿に話しかけたりしながら歩いて行きました。  

 

 

しばらく行くと道に迷ってしまい、もともと初めての場所でどこか目指すところがあるわけもなく、

もう帰りたいと思っていると、途中で白い軽トラックが1台止まっていて、

荷台には二人の男性がいました。

 

そのうちの一人は20代のころにつき合っていた年上の恋人で、

向こうはわたしに気づいているのかどうかわからず、

わたしもなんとなく気づかないふりをしながら、

もう一人の男性に、道に迷ってしまったこと、

帰り道もわからないので教えてほしいとたのみ、

教えてもらって、もと来た道へと戻っていきました。  

 

 

渡り廊下でつながっているいくつかの建物は、

行きと違って顔見知りの人やずっと会っていなかった友人たちがところどころにいて、

挨拶をし、少し世間話などをしました。

 

みんな、鹿に興味を持っているようでしたが、特にふれることなくさよならしました。  

 

 

ようやく家に着くと、鹿にお水と食べものをあげて、

もう庭にはつながずに、部屋に居られるようにしました。

鹿は庭にいたときのように脚を折りたたんですわっていました。

 

夢の中でわたしは、ずっと鹿の様子を伺っていました。  

 

 

 

*****

 

 

 

動物は普段からよく登場するのですが、鹿の夢は、何年かに一度くらいみます。

その中でいちばん印象的だったのは、

誰かに鹿を助けにいくように言われて公園に行くと、ものすごい数の鹿がいて、

ひとりひとりに様子を聞いていくというものでした。

 

メディスンカードについてのことを特に書かなくなってから久しいですが、

鹿のメディスンは“やさしさ” “無条件の愛” 。

どんな傷も癒し、受け容れる、やさしいこころを持つこと。  

 

 

このメディスンに関するネイティブアメリカンのお話、

いまの状況にとても合ってるなと思いますので、

後日書きますね。

 

 

それではまた!  

 

 

 

 

 

 

 

| text | 23:55 | - | - |
『マスク2枚』と想像力

 

 

「マスク2枚」から「まず2枚」に発言が更新(?)されていましたが(実際にそうなるのかどうかはわかりません)、

わたしはもう笑いませんでした。

 

なぜ、自分が「マスク2枚」で笑ったかというと、その発想がすごいなと思ったからです。

「お肉券」「お魚券」、ほんとかどうかわかりませんが

「お寿司券」「DJ券」などの案があったとかなかったとか、

そこへ来ての「マスク2枚」、もの凄いなと、凄すぎるなと、

わたしには絶対思いつけないです。

 

さらに笑いながら思っていたのは、人間、最後は笑いなんだよな、

そしてほんとうにこわいのは、笑えなくなったときなんだよな、と。

 

 

先日「反応」について書きましたが、

最初はこの発想、想像力について書くつもりでした。
まず、この「マスク2枚」、そしてその発表から起こったいろいろなひとたちの発想。

 

ご存知の方も多いかと思いますけど、サザエさんやジブリのマスク2枚のコラージュ

(ジブリは作成者の方がわからなかったのでリンクしないでおきます)、

「アベノマスク」というハッシュタグ、これらが発表から数時間後に起こっている。

もうほんとすごい、これも含めての笑いです。念のため。

 

いや、ほんとに、ユーモアがなかったらと思うとおそろしいし、

こうした発想、想像力にとても救われます、わたしは。

 

 

都知事の土日外出自粛要請(?)の記者会見(オリンピック延期後の、と言ったほうがいいですかね)、

増える東京の感染者数、そしてマスク2枚を受けて、

わたしの友人のなかにも心理状態に変化が起こっているひとが出てきていて、

たとえば間接的な知り合いに感染者が出て不安になってきて、

外出こわいからスカイプしてもいい? というメールや、

わたしの足が治ったらデモに行こうというメールが、

いままでそんなことを一度も言ったことのない友人から突然来たり。

 

ほかに、音楽関連では自宅からDJやライブの配信したり、

アロマテラピストの友人は、自宅で誰でもできる簡単なケアをブログにアップしたり、

造形作家の友人は、先月急遽アマビエを自作して、毎日写真に撮ってアップしていたり。

 

また、特に表現などに関わっていないひとは、

オンラインの英会話をはじめていろいろな国の先生から現状を聞いたり、

この機会にヨガや身体を動かすことをはじめたり、

あと、大掃除をはじめたひとが周りに何人かいますね。

 

 

自宅でひとりでじっとしていたり、

親しく話せるひともいない自分はどう過ごしたらいいかわからないという声を聞きました。

また、これからどうなっていくのか不安で仕方なくて、ずっとネットで情報を追いかけてしまう、

裏で何かが起こっているのか、どの情報が正しいのかわからなくて余計に不安になるなど、

ネットから離れられなくなっているという声。

 

正直、数字的なことも不確かだし、誤報、誤読、憶測からの情報もとても多いじゃないですか、

さらに刻々と変化する状況にともなって情報も変わっていく中、

正直、このネットの情報のどれを参考にするかひとつとっても、

自分で決める、基準のようなものをつくる必要が出てくるんですよね、

それもあくまでも自分の基準を。

 

ほんとは、わざわざ自分の中に決まりを置く必要なんてないと思うんです、

けれども外しか見られなくなる状態、それさえもほんとうには信じられないときって、

結局どこの誰がなんと言おうと信じられなくなるし、

そこまでくるとガイドラインのようなものが必要になってくると思うんです、

それも誰かのではなく、あくまでも自分自身の。


って、そんな状態だからこそそうしたことができないんだと理解しつつ。

 

けれども、ほんとに合ってるのかどうかもわからない情報に一喜一憂するほど感情を揺さぶられたり、

信用していた誰かの発言の変化で疑心暗鬼になったり、

それって、その合ってるのかどうかもわからない情報に自分の在り方の指針、

権限を渡してしまってるということなんですよね。

まず、そこに気づくことからなんじゃないでしょうか。

 

先日書きましたけど、「反応」、これはいいも悪いもない、

でもその次にくる思考からどう発想するか、

これがすごい大事なんじゃないかと思うんですね。

 

もう起こってしまっているこの状況と、自分がどう折り合いをつけていくのか、

自分はどうしていくのか、どう発想していわばどう共存し、

どんな日常を創造していくかだと思うんです。
 

特にこのコロナ騒ぎでひとが分断されていくというけれども、

ほんとにそうでしょうか。

つながる方法、完全に奪われていますかね。

それ、見方、捉え方次第なのでは? と思う。

そして、この時期だからこそ、

ひとつの発想から何かが生まれる可能性を大きく孕んでいると思うんです。

 

ネットには良い面悪い面いろいろありますけど、それはネットに限ったことではないし、

もしもひとりで苦しんでいるのなら、ブログをはじめてみたり、

外に向けて何かをはじめてみるのもいいんじゃないでしょうか。

実名で書く必要もないし、だったら自分の物語を書いてみたらどうでしょう。

誰にでもない、自分自身のために。


 

わたしはもうかなり以前、ものすごくきびしい状況のとき、

2ちゃんねるのあるスレッドをみていたことがあるのですが、

あるときから、少しの間ですが、そこに集うひとの質問にこたえたり、

リーディングをしたりしました。

もちろん名無しで。

 

そのときの自分は完全に笑えず、つまり本当にきびしかったのですが、

ほかのひとたちの書き込みを見ていたら、

相談するのではなく自然とこたえる側にいったんですよね、

あれはたぶん、自分が回復していくプロセスの一部になっていたんだと、

いま振り返るとそう思います。

 

いろいろあると思うんですよね、

別に無理に発信したり何かとつながろうとしなくても。

映画をみるのもいいだろうし、音楽を聴くこともとてもいいと思うし、

視点を変えたら、というか、普段見ていない場所をちょっとのぞいてみたら、

知らなかっただけで案外自分が必要としていたものが

見えてくるかもしれない。

 

どうせわからない状況ならば、とことんわからないまま、

それでも自分がここちよくわからない方向へいってみたらいいんじゃないでしょうか。

 

 

そういえば、さっきの、不安になってスカイプしようとメールしてきた友だち、

自分が今度、複数でのウェブセミナーをやってみようかなと考えていて、zoomを使おうかと思っていたので、

テストのつもりでスカイプじゃなくzoomでもいい? と聞くと、

最初はOKと言っていた彼女からまたすぐにメールがあり、これ知ってる? と

zoomでログイン情報を盗まれる脆弱性の恐れについての記事を添付してきました。

 

リンク踏まなければいいんじゃないの? とそのときは思っていたのですが、

翌日、いくつかそのニュースを見て(NASAもzoomを禁止している、という記事もありました)、

ああつかわなくてよかったかもと思いました。

 

このニュース、ご存知の方も多いと思いますが、

コロナ以外にも自分にとって身近なニュースもあるし、

やはり情報も反応も感情も思考も、同じく距離をとって俯瞰してみること、

あらためてとても大事だなと思いました。


 

そんなわけで、

ほんとに、自分が何をどう捉えるか、どういった視点でみるか、

それをどう自分に還元していくのか。

情報ひとつとっても、そこから何を発想していくかで、

自分の体験が変わっていくということ。


そのパターンのいくつかを想像してみるというのも

興味深いかもしれません。

 

そして、それをここちよい方向へ転換させていくのも、

より不安を深めていくのも、

自分なんですね。。

 

 

というわけで、また。

 

 

あ、先日書いた「マスク2枚と反応」、若干追記しました。

 

マスクについて多少熱く書きましたけど、わたしはマスク礼賛というわけではないし、

いまのところ外出は病院だけですが、タクシー含め、自分がしていることでほかのひとが安心する、

という意味でもするようにしています。
 

何もしなくてもだいじょうぶだとか、わざわざ誇示する必要も意味もないですし、

過信もしていないですし(とはいえ、それでもときどき家に忘れてしまうこともあります)。

 

それと、インフルエンザのワクチン、

わたしは打ちませんし、勧めたわけでもないです。

毎年打つひともいるくらい身近になっているからこそ、大騒ぎするほどの事態にならないのであって、

安全/危険という判断に対する比較対象にはならないという意味で書きました。

 

 

って、きちんと書いておかないとだめなのかしら、、と思いますけど、

なるべく誤解を生まないために、念のため。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

| text | 15:30 | - | - |
(追記あり)マスク2枚と反応。

 

毎度ごぶさたしております。
いつにもましてブログなどを書く気が起こらない毎日ですが、

それは骨折がたいへんでとかコロナ騒ぎで落ち込んでいるとかではまったくなく、

期日までにやらなくてはならないことや、ネットスーパーで食料の注文をしたり(これがかなりたいへん)、

日々、目の前のやることをやるだけで1日が終わるのです。

 

同時に、この時期、この状況下での情報というものについていつも以上に考えていて、

わたし自身、コロナに関してはウィルスというものの性質、

そこに関連する数字や数値ほか、

限りなく事実に近い情報以外は検索する必要性を感じていなくて、

SNSで流れてくる具体的なニュースと、そこで興味を持ったこと以外の情報は一切取っていないんですよね。

 

無理に制限してるわけではなくて、そういう行動が起こらないんです。

 

ただ、いえることとして、日本ははっきりとしたロックダウンに至っていませんが、

ほんとにこの時期、とても大事だとわたしは思います。

というか、この時期をどう過ごすかによって、

今後の自分の世界というものが明らかに分岐していくと感じるからです。

 

そういう意味でも、身体として外出しない、

というよりも、“自分自身から出ない”、

つまり、“外に解答を求めず、自分に留まる”、またとない機会だと思うんです。

 

 

って、現状含め、今後のことについて、いまのところブログなどに書く予定はないですが、

先日の東京都知事からの緊急記者会見、

そしてきのうの『マスク2枚』で、

とりあえず自分は見知らぬひとに向けてなんらかのことを伝える場というものがあるのだから、

多少なりとも自分の理解していること、

感じていることを書いておこうと、

のこのこ出てきた次第です。

 

 

まず、この『マスク2枚』。

これを聞いたとき、わたしはしばらく「笑いが止まらなかった」のですが、

「怒りをおぼえるひと」、「呆れるひと」、「落胆するひと」、「不安になるひと」、

「エイプリルフールと思ったひと」、「感謝したひと」等々、

わたしの知る限り、反応はそれぞれでした。

 

そう、ひとは、だいたいにおいて、まず最初に反応が起こるんです。

その次に、思考、行動が起こる。

 

 

たとえば、これはあくまでもひとつの例ですが、
マスク2枚と聞いて

 

怒った(反応)→この思いを誰かに知らせなければ(思考)→SNSに書く(行動)
 

という具合に、一連の流れが起こるわけですが、
 

怒った(反応)→この思いを誰かに知らせなければ(思考)→曲を作る(行動)

 

怒った(反応)→この思いを誰かに知らせなければ(思考)→とりあえず走ってくる(行動)

 

などなど、この流れはいくつかのパターンに分類できるとしても、

実際には「思考」の数だけ増えていくんですね。

 

反応はみんなそれぞれで、正解ってないじゃないですか、

だって、そのとき自分にはそういう反応が起こったんだから。

 

 

 

この場合、たとえば笑いが止まらなかったわたしに対して、

怒りの反応をおぼえたひとは、わたしに対しても怒りをおぼえるかもしれないし、

怒る自分はおかしいのかな? と思うかもしれないし、怒った自分を責めるかもしれない。

 

逆に、同じく笑ったひとは、怒っているひとを見て、

笑った自分はだめなんだと自分を責めるかもしれない。

 

 

と、「思考」「行動」と分けて書いてみましたけど、

結局起こってることは単に反応の連なりであって、

そこには本当の自分の感じていること、思い、感情に気づくことのない、

もっといえば、名前も姿さえ知らない誰かの思い込み

(こう感じること、こう行動するのが正しいとか)や概念、

観念を無自覚に踏襲しているだけということがほとんどなんです

(もちろん、すべてがそうなわけではありません、念のため!)。

 

 

 

これまで、マスクに関するいろいろな声を聞きました。

ひとつは、マスクが手に入らない人がいるのに自分がするのは申しわけないという声。

ひとつは、周りからマスクをしてもコロナウィルスは防げないと聞いて、

自分はマスクをしたいけど、できなくなったという声。

そして、海外の友だちから、マスクをして歩くのは日本人だけ、

こっちではこわいと思われるし必要ないと言われて、

自分が弱くてだめな人間のような気がするという声。

 

これらに対してわたしがお伝えしたのは、

「したいならすればいいじゃないですか」です。

 

 

そもそも、なんでマスクをすることについて

あれこれ言われなくてはならないのか、わたしにはわからないです。

たしかに3番目の海外、というか欧米でのマスクについて

ある意味タブーのようになっているのは知っていますし、

わたしも街中でかけるということはよほどでなければしないですが、

たとえば、飛行機の中では乾燥を防ぐために必ずします。

 

そのときに、隣の席が外国人のひとだった場合は、

なんのためにこれをするか、

日本においてのマスクは特別ではないこと等を説明するようにしています。

 

 

マスクって、別に悪とか弱さとか

そうしたジャッジが下されるものではないじゃないですか、

単に習慣や文化の違いにすぎないですよね、

特に海外に住んでいる日本人のひとが、

マスクをする日本人に対して蔑んだり悪いことのように言うことが

わたしには理解できないです。

むしろ、なんで知らない外国人のひとに説明していかないのかな、って。

 


話を戻しますが、いちばん大事なのは、

まず自分をできるだけ安心させてあげることだと思うんです。

たとえマスクがコロナに有効であろうがなかろうが、

それで安心するなら、とりあえずしたらいいじゃないですか。


そして、自分がいましていることはなんなのか、何を恐れているのかをみてみる。

そのときに起こる思考、これは誰の考え、意見なのか、

本当の自分はどう行動しようとしているのか。

 

 

ほんとに、全員にとっての正解ってない。

いろいろな思いを抱かれたこのマスク、

中国に通販したら買ったものと一緒に、がんばってという旨を伝える

拙い日本語の手紙とマスクが入っていたとか、

中1女子がお年玉はたいて600枚のマスクを自作し寄付したとか、

マスクの作り方をアップしたり

わざわざ型紙をダウンロードできるようにするひとがいたり、

昨日知ったニュースでは、スニーカーのニューバランスがマスクの生産を発表したりと、

マスクがいろいろなものをつないでもいるじゃないですか、

人と人を遮断する役目のマスクが!


 

 

最後にもう一つだけ書いておくと、

先月の頭くらいに、あるところから届いたメルマガに掲載されていた、

コロナウィルスは危険ではないといういくつかの根拠、

殊にインフルエンザのほうがひとがたくさん死んでいるからという見解。

 

そのときわたしも、たしかに! と思ったのですが、

よく考えてみれば、その判断、その比較、ほんとに適切? と。

 

 

なぜなら、まずインフルエンザの歴史で最も古い記述は紀元前412年だそうです。

その後スペイン風邪やら何やら大流行の時代が何度かあって、

すでに数えきれない症例やエビデンスがあり、

冬になったらワクチンを打つ、というのがある意味習慣のようになっているくらい認知されてるわけです。

 

でも、よくわからなかった時代には、

戦争の終結を早めたという記述があるくらいたいへんだったのだと思うし、

当時のひとびとにとっても不安だったんじゃないでしょうか。

 

 

いま起こっていることは、いまなんですよ。

それに、実際に亡くなっているひと、感染経路も特定できないケース、

これがどう収束していくのかもわからない状況の中、

よく考えてみれば比較対象になり得ないものを参照して見解を出すということに、

それってどうなのだろう? という疑問が起こるんです。

 

 

わたしは、危機感を持ちましょう、と言いたいのではないです。

過信もまた然りです。

誰かの分析や見解は、あくまでもひとつの情報として参考にすればいいと思います。

どちらにしても、起こっている事実を事実のままに捉えなければ、

自分にとっての本当のことってわからないと思うんですよ。


 

 

全員にとっての “正解” って、ほんとにないです。

なぜなら、あらゆるものには陰と陽があり、

ひとにはそれぞれ個性があり、

自分以外に自分はいない、

唯一の存在としての生があるから。

 

 

 

さて、このテキストには、わたしの個人的な意見や思いも書かれています。

すべて鵜呑みにしたり、これをご自身の意見とせず、

ANANYAはこう感じているのだな、

として受け取ってくださいませ。

 

 

『マスク2枚』と聞いて、

笑うことが全員にとっての “正解” なのではありません。

 

「反応」、そして「次」。

そこから世界が分岐していきます。

※追記
 

・マスクについて多少熱く書きましたけど、

わたしはマスク礼賛というわけではないし、いまのところ外出は病院だけですが、

タクシー含め、自分がしていることでほかのひとが安心する、という意味でもするようにしています。

しなくてもだいじょうぶだとか、わざわざ誇示する必要も意味もないですし、

過信もしていないですし(とはいえ、それでもときどき家に忘れてしまうこともあります)。

 

・インフルエンザのワクチン、わたしは打たないですし、勧めているわけでもないです。

ただ、毎年打つひともいるくらい身近なものだからこそ、

大騒ぎするほどの事態にならないのであって、

安全/危険という判断に対する比較対象にはならないという意味で書きました。


ワクチンについては、以前、あることがありました。

機会があればいつか書こうと思います。

 

わざわざ書く必要もないと思っていたし長くなるので書きませんでしたが、

なるべく誤解を生まないために、追記しました。

また思いついたら追記します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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