texted a ANANYA

メディスンカード・リーディング
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瞑想、カレー、可能性、正しさの罠

 

 

先日ある知人から、ある技術について、それではAもBもできないから、というメールがきて、うーん、たしかにすべてはできないと思うけど、でも自分、とりあえずAもBもできるケースはあったよ、と思ったのですが、なんかそれをたとえばこんな場合、みたいに説明を書いて送ったりするのも非常に面倒、と思い、どう返信したものか、と保留にしてたんです。

 

そしたら今度は別の知人が、AもBも結局はこういうものだから、その技術でできる、という趣旨のことを言っていて、うーん、それもまたどうなのだろう、できないケースもあると思うよ、自分がそうだったから、と思って、それは本人に伝えたんですね。

 

その知人同士は知り合いではなく、たまたまわたしは両方を別々に知っているだけだったので、シンクロというか、タイムリーだなあと思ったのですが、どちらの主張も、というかとらえかた伝え方に実はうんざりして、すごく不快感をおぼえている自分に気づいたのです。

 

 

自分の体験がたまたまそのどちらでもあり、どちらでもなかった。

ということは、それぞれが自分の経験だけで判断して結論を出している。

だから否定的な気持ちが起こった。そうじゃないかもしれないという可能性だってあるのに(というか自分がそもそもそのケースなのに)、なぜ検証もせず決めつけるのだと。

 

 

これは一見中立で正論っぽいですよね、でも、ほんとに自分がニュートラルであるなら、不快感は湧いてこないかもしれない。

という思いが自分のなかに起こる。

 

 

そもそも相手やものごとの何かをみて不快感が起こる、というのは、自分の感覚や意見、ポリシーに反している、あるいは受け入れがたい理由があるからで、そこには「正/誤」「良/悪」等々、その感情が発生するなんらかの発端があると思うんですね。

 

 

で、自分をみるわけです。この不快感の理由はなんだろう、なぜ決めつけられると腹がたつのだろう、と。

 

そこに「掟」の存在がきらり、と光っているわけです。正しい間違ってるを超えて、なんか、あんまりいい感じじゃない光が(笑)。

 

 

この「掟」をみつけて、破っていく方法のひとつが瞑想ですよね。

しかし、この瞑想というのもひとくせもふたくせもあるなあと思います。

 

というか、ほかの例にたがわず瞑想それ自体ではなく、そのとらえかた、まあ結局はエゴ、ということになるのですが、

こんなに多くの解釈や意味づけされるものもめずらしいのではないかというくらい、一家言もったひとがたくさんいると思うんです。

 

エゴにはまらないためにやってる(あえてこう言ってます)はずが、まんまとエゴにはまってしまうという、

文字通りミイラとりがミイラに、のもっともわかりやすい例なんじゃないですかね。

 

 

とはいえ、ここでは掟をみつける、エゴにはまらないうんぬん言ってますが、

実際のところ、ほんとにたくさんの瞑想の方法があって、解釈が多く生まれるのもまた当然のことだとも思います。

 

 

たとえば、「こころを落ち着かせるための瞑想」を行っているひとに「瞑想とはなんですか?」と聞けば、

文字通り「こころを落ち着かせるもの」または「リラックス」とかえってくるかもだし、

 

「呼吸を主体とした瞑想」を行っているひとであれば「呼吸を整えることによって起こってくる細胞、脳内分泌物のはたらきにより〜」みたいなこたえがかえってくるかもしれない。

 

つまり、ある目的を解釈をもって行っているとすれば、それぞれの認識や思いがこたえとしてかえってくるわけで、

どれも正解ではあるけれど、どれも瞑想そのものをさしはせず明らかにはしないと。

(と書いていて、やっぱり時間なんだなあと思いました)

 

 

覚醒したひとに「瞑想とはなんですか」ときくと、たいていは「瞑想はするものではない、起こるもの」というのが定番(あえて)だと思います。

つまり、行為者というものがいない、と。何かを得るためにするものではない、得るなにもなく、得ようとする誰もいない、と。

 

 

ほんとにそれを行うひとによって、かえってくるこたえはちがう。

 

 

わたしがものごとを決めつけられることに対して不快になるひとつの理由は、ここにあるんですよねえ、だって、ほんとに視点がちがえば体験も変わってくる。

もっといえば、体調がいいときとよくないときで感覚や考えがちがったり、変わることだってある。

 

そのくらい、いろんなことってゆらいでるんじゃないのかしら。

変わらないものなんて何もない。というか、固定されているものがない。

そのなかで、けして変わることのないそれ…はまた別として、、

 

 

「これとはこういうものだ」と決めつけてしまうと、ほかに感じることや見え隠れしているものがそこで切り捨てられてしまう、

ほんとはもっともっとすごかったり素敵だったり、あるいはいらなかったものを見過ごしてしまうかもしれない、

 

つまり、それ自体を媒介とした自分自身の可能性を限定してしまい、もっと動きひろがっていくかもしれない何かの動きを、

まるで自分がすべて掌握しているかのような錯覚にさえおちいってしまったり、、というのが、

たとえば瞑想でいえば精神世界関連かもしれないけれど、

そこに限らず、あらゆるところでみられることのような気がします(自分も気をつけないとです、ほんとに)。

 

 

で、瞑想のことを考えてたら、ああこれ、カレーもそんな感じかも、とふと思いました。

 

家庭の数だけカレーがある、と誰かが言ってたかもしれませんが、いやひとの数だけあるのかもしれない。

 

なかでも、カレーに対するものすごい情熱、そして自分を語るみたいなタイプのひとのカレーって、実際のところ食べる前からおなかいっぱい、になってしまったりもして、

なんか、カレー自体よりも、努力とか知識とか探究心とか成果とか、そのひと自身の思いを食べさせられるような気がしてしまって、

わたしはただのカレーが食べたいんだ! 好きに食べさせてくれカレーを! ただおいしいカレーを!

とこころのなかでスプーンを振り上げ、叫ぶばかりです。

 

 

ひとが望んでること、ほんとに体験したいことって、解釈でも概念でも掲げた目的でさえなくて、

たぶん、もっともっとシンプルで、たいへん原初的なことなんじゃないかなとおもいます。

 

いくらこうだから、と思っても、

ほんとのことなんて、誰にもわからないんだもの。

 

 

とはいえ、「ほんとのことは誰にもわからないんだから決めつけてはいけない」もまた「掟」になってしまうんですよねえ。

 

結局のところ、それもまた「正しさ」の罠なのだなあ。

 

って、またネバーエンディングじゃん。

 

となると、やっぱり、非、、、、

 

 

というわけでまた(笑)。

 

 

**********

 

あ、ちょっとお知らせです〜。

以前やっていた「チャクラのバランスを整えるキャペーン」

リクエストがありましたので再開します。

ストックがなくなったら終了なので、とりあえず6月のなかばくらいまでにします

(セッションでもつかったりするので、早めに終わるかもです)。

 

興味がありましたら、ためしてくださいませー。

 

http://ananya.jugem.jp/?eid=384

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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