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正論、日常、視点、方向

 

今週めちゃめちゃ忙しく、お灸に膏薬、アロマにエッセンス等々、投与しつつ健康に戻しながらの作業諸々、いままさに今週のピーク、という感じなのですが、

ちょっと書いておきたいな、と思い、すこしだけ。

 

正論って、いったいなんなのか、ほんとに正しいものなのだろうか、ということ。

 

これ、ほんとはもっとまとまってから書こうと思ってたことなんですけど、とりあえず。

 

 

正論と呼ばれるものって、ひとによってもちがうし、地域、国、立場、もっといえば時と場合によっても変わるものだと思うんです。

 

まず「誤」があるから発生、いや、最初に「ひとつの論、考え」があって、その後にそれに異や対するものが発生したことにより、最初の論を「正」としたのかもしれないけど、それはさておき、というか、それさえ時と場合、場所によって変わりますよね。

 

とにかく、そもそも正しさそれ自体が変わるものであって、絶対でも真実でもないということ。

感覚とか集合意識によるそれとか、モラル、それももっと根源的な感じの、そうした意味での当然さ、いわば正義、と呼ばれるレベルのものでさえ、ほんとうはそうだと思うんです。

 

これ、いいとかだめとかわるいとかの話じゃないですからね、よもや正誤などとは。

 

 

で、とりあえずここに書いてるのは、非二元的(あえて)な視点からみて、という話で、すべては正しいし間違っているし、正しくないし間違っていない、全部よいしわるいし、よくないしわるくない。

相対するもの、がない、だから対するものが発生するとしたらそれはジャッジによるラベル、つまり分離(すんません、ここ核心本質(あえて)だけど飛ばします)。

 

 

ただ、

“非二元だから”、正しいも間違いもない、というのが「考え、論」になったら、これはもう非二元じゃないんですよね。

 

つまり、

正しいも間違いもない、だからジャッジしてはいけない、

と一見それが“正解”にみえるそこにはまさに“正しさ”があり、それが“正しい在り方”、になってしまう。それはもう完全に二元、でしょ。

 

 

って、混乱するかもですが、そもそも思考、マインドの視点からそうでないもの、というか言葉にできないものを“実践”(あえて)しようとすること自体が、、、であり、覚醒者でもないのに非二元二元語るな、という感じですけど、

普通の意識(あえて)の人間がいかに思考、エゴ、マインドにとらわれずに生きるか、しかもグルのもとやアシュラムでなく時間という概念のもと、日本という国の、ひとつの街で、これ小説ですか映画か何かっすか? といったびっくりするような展開の続く非日常のような日常のなかで、どう過ごしてくのか。

 

 

とりあえず、自分、というものの視点、意識の方向がどこを向いてるのか。

それだけでも、みてみてもいいんじゃないかな、とおもいます。

 

これ、日常のことを言ってます、自分というものの、とても身近な日常の、自分の、自分だけによる、自分のためだけの視点、方向。

 

 

 

というわけで、タイトルがあんまりぴし、っときてない&落ち着いたら本文書きなおすかも&加筆するかもですけども、

今日はこのへんで。

 

ほんとに、いい感じの毎日を☆

 

 

 

 

 

 

 

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