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今年の後半のテーマは「恐れとの対面、恐れからの回復」。
ほんとに言うだけ、書くだけなら簡単だよなあと思いながら書きますが、
たとえば身動きがとれないとき、その根底にあるのは失意や絶望、諦念、そして怒りや悲しみなどいろいろな感情があるものの、
それらをいわばコントロールしているのはやはり「恐れ」だと思うんです。
傷つきたくはないし、もう二度と“あんな思い”はしたくないし、
もしそんなふうになってしまったらどうしよう、といった硬直が自覚しないまでも内にある。
思い出させてしまったらすみません、でもそこに反応があるとするなら、
いくらみえないように策を練ったりかくしたりしても、
これから先もまたいつか、という思いを抱え続けて、「恐れの奴隷」という選択をし続けるだけなんじゃないでしょうか。
選択肢は、ほかにもたくさんあるはずなのに。
恐れをしっかりと見つめることはたしかにこわい、
でもこれは戦いではないし、見つめるだけなら負けることはない。
箱を開けて、そこに入っているものをただみてみる、
それがどんなものなのか、ただみるだけ。
抱えたままで居続けるということは、
結局、満身創痍でいつ傷つけられるかと怯えながら暮らすこと、
まさに見えない敵と常に戦い続けるのと同じなのじゃないでしょうか。
戦いから降りたら、それだけでらくになると思うんです。
そして降りても全然いい。
むしろ降りてほしいとずっと訴えている自分の声、
それにも耳を塞ぎ続けているのならば。
抱え続けているその箱はただの“荷”です。
それも結構重い、だからとてもくたびれる。
とりあえず安心しておろせる場所へ。
すぐに箱を開けなくてもいいから、
まずはおろして、しばらくそれとともにいてみてください。
その箱の中身、それ自体は、けしてあなたを傷つけるものではないと思うから。
よく、からだはたましいの乗りもの、っていうじゃないですか、だとしたら運転手は誰なんだと、行き先はどうやって決めるんだと、そして、どんなドライブがお好みなのかと。
とりあえず自分のこのからだが自分のたましいの乗りものだと仮定して、だったら運転手は自分だと、行き先を決めるのも自分だと、で、内装も外装もいちおうカスタマイズできるし、基本的なスペックは変えられないにしても、それぞれの性能を活かすことはできる。
ドライブコースは平坦な道が続くこともあれば険しいときもあり、嵐でワイパー振りっぱなしでしばらくいかないとだめなこともある、でも音楽を選ぶことはできる、ミラーのとことかからなんか好きなアクセサリーとかお守りをぶら下げることもできるし、とりあえずつかれたら路肩に止めて休むこともできる。
結構できるんですよね、すぐにたどりつけなくても自分にとっていい感じの行き方。
もちろん、思い通りの走りができないことも多々あるかもしれないし、むしろそればっかりだよ、かもしれない、でも、そんななかでもいま、そこで、その途上でいい感じにできる何かって、絶対あるはずなんですよ。
ドライブコースを大幅に変更したっていいとおもうし、
そんなに単純なことじゃないかもしれない、
いやいや、ほんとにそうだろうか、
というか単純にいってみたって、いいんじゃないかしら。
友人がむかし言ったことがあります。
無駄に重くする必要があるのか、って。
軽く行って責められたりなんやかんや言われることがあったとしても、向かう方向、その目的、コース自体には関係ないんですよね。
そもそも、どんな姿勢でどうあろうとどこへ向かおうと、
その車を運転し走ってくのは、
ほかの誰でもなく、自分なのだから。
音楽、芸術、何かを見、聞き、体感したときの感動、何かを美しいと感じるそのこころ、感覚をもっている自分にまず乾杯/▽ そのヴァイヴレーションを思い出して乾杯/▽ 体内に響かせてまた乾杯/▽ そんな感じで呼び起こされたよろこび、その感覚を感じられるものに、どんどん引き寄せられていったらいいとおもうんです。
引き寄せる、ではなく自ら引き寄せられてしまう、行ってしまうんですこっちから。
そのほうが早いし、確実じゃないですか、その感覚にしたがって目指していけばいいのだから、叶うかなとかやきもきすることもないし、待つ必要がない。
具体的なものでもいいですが、それ自体にとらわれず、その“感覚”、そっちを感じられるものをくんくんと嗅ぎ分けていくようにして選びとっていく。常にそっちを選び続ける。
これを読んだいまこの瞬間から、とりあえずこころ躍るもの、よろこびや楽しさ、うれしさを感じるもの、そのヴァイヴレーションと同じものに近づいていってみてください。
目の前に並ぶものも含めて、どんどんその感覚に吸い寄せられてみてください、こっちから。
明日、来週、今月末、そして今年の終わりに、
自分がどんなものに囲まれ、どんなところに立っているか。
これ、結構わくわくしません?
たとえば輪廻転生って、ざっくり言ったらとりあえずからだは死んだけど魂はそのまんまでからだが別のものにかわる感じですよね、記憶は諸般の事情でリセットされるので魂がそのまんまということを覚えていない。
生きてると、というか、いまの自分のこの状態でこれをするって、なかなかできないですよね、からだを取り替えるという肉体的な話ではなくてエゴ、マインド、思考の死の話ですが、結局、記憶と五感にしばられてるんだよねと思う。
生まれ変わりたい、そこまでいかなくてもあのときに戻ってやり直したいとか、少なくともいまの生活を変えたいとか、結構大規模な変化を望むこと、望まなくてもそんな方向へ向かわざるを得ないようなことが、あるんじゃないかと思うんです。
今年の後半、本気でそこにフォーカスしませんか、という提案なんです。
本気と書いてマジと読みますが、本気の本気で。
じゃあ、そんなときどうするのか。
僭越ながら、これまで実際このことについてしか書いていないつもりなんです自分としては、
というよりもおもう、そんなときの何か、そんなときのための何か、
この世のあらゆるものって、
すべてこのことにかかわってるんじゃないかという気がするんです。
みんなそれぞれからだがちがうように、その魂から吐き出される言葉もいろんな手触りも受け止めるいろんなことも反応もみんなちがう、似てるところもあるけれどすべての出と入がまったく同じなんてことはたぶんない、
だからみんなひとりひとり、分離の道をいってる、いやその逆かもしれない。
みつけようとしてみませんか、アガスティアの葉っぱじゃないけど、たぶん、あらゆるところにそれぞれの自分の時空を超えた軌跡は必ず刻まれてる。それは具体的な記述ではなく、矢印の連続かもしれない、でも、それをたどっていったら、少なくともころびまわりゆくそのサイクルには乗っかるはず。
というか、すでに乗っかってることに気づくはず。
そんな気がするんです本気で。
ふとわれにかえる。
「急いてはことを仕損じる」ということわざがありますが、つまるところこれは焦ってなんかするとろくなことがないよという助言であり、たしかに早く早くと急かされればどんどん追い込まれ、とりあえず差し出された何か、それがほんとはまったく望んでないことでもつかんでしまって、、、のような結果になってしまうと。
この焦りというものが発生すると、なんとなく、目的がすりかわるような気がするんですよね、焦り自体に耐えられなくなり、その感覚からとりあえず逃れたい、逃れるためにはどうするか、というように。
で、とりあえずこれを選んどく、まるで祈るような気持ちだったり、あとからどうにかすればいい、と。
で、すごい遠回りをすることになったり、それでどうにかなったらいいけれども、どうにかならなかったりすることもあったり。
わりとこのパターン、繰り返してることがあるかもしれない。
たとえば見た目には時間なり誰かなりに追われているとして、でも、最終的に追い込んでいるのは、結局自分なんですよね。
いやわかるんです、そんなこと言ったってこの状況、とか、焦っても不思議はないむしろ焦り急ぐべき局面、
でも、それでもちょっと立ち止まって、
文字通り息を整える時間って、つくれるんじゃないかと。
われにかえってみる。
すると、その瞬間、ほんとうにふと、目の前の景色がまったくちがってみえることがあるじゃないですか、
いやむしろ、ちがってしかみえない、しかもものすごいリアリティをもってそれはそこにある。
焦りって、なんか嵐のような臨場感があって、うっかりさらわれてしまうような勢いがあるけれど、
その感覚が去ったあとには、まちがいなくゆるがない何かがある。
たとえば台風にもひと呼吸、目と呼ばれる“間”に入ったときの静けさ、
そのときに買い物に行ったり、こわれたどこかを補修したりするじゃないですか、あの凝縮された集中力。
あれは、嵐の真っ只中ではどうにも身動きがとれない、そのあきらめ、ゆだねられた時間だからこそ、
もはや焦りさえも起こる隙もなく、いわばわれにかえってみるしかない、
そしてそれって、地に足がついてる時間だったりするんじゃないでしょうか。
そんなわけで、ふとわれにかえる。
焦ってなくても頭のなかに嵐が訪れるようにいろんな拮抗する言葉、思考群が押し寄せてくるようなとき、
まるで無自覚に催眠にかかったようにふらふらとした動きにのってしまいそうなとき、
ふと、われにかえる。
そんなことを、やってみてください。