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たとえば、問題と思われることを解決したいとき、相手を説得するとか、なかったことにしようとするみたいなアプローチが多いと思うんです。自分の思う通り、極端にいえば、それは牛なのに、パンダになってくれと懇願、もしくは脅迫、さらには無理やりパンダの着ぐるみ着せちゃうようなことをする。
すでに起きたことにちから技で挑んでも無駄なんですよね。だって、着ぐるみの下にいるのはやっぱり牛なんだし、もっといえば、その“問題”と思っていること自体がまやかしなのかもしれません。そう、そこにいたのは牛でさえなかったのかもしれない。
いちばんの解決の方法は、それを“問題”と見ないことかもしれません。すると解決、という概念自体がなくなります。
これは別に詭弁ではないです。それをどう見るか、その種類とバリエーションの数だけ未来という名の現実が発生する、いや、すでに存在している現実を、むしろ選んでる。
って、わかりにくくなったかもですが、なんというか、キャッチボールのように、ものごとを進めていくイメージ。あるいは来た波を避けずにどんどん乗ってく感じ。
その都度視点を変えてみれば、何通りもの行き先が生まれ、
それは思いもよらない場所に連れて行ってくれるかもしれません。
変わりたいと思ってはいても、実はひとは変化をおそれているものです。
習慣を変えることへの抵抗という脳の性質もあるでしょうし、未経験のことや新しい環境への不安、おそれ、面倒くささによって、とりあえずいま/まだなんとかなってるし、、とそこに留まるわけです。
慣れていることや場所って、難があっても勝手がわかっているし、予測がつくので安全だと“信じてる”から。
そして、いつか、と思いながらもそこに居続ける。
けれども「いつか」って、来ないものです。「いつか」という状態そのものが、継続されていくんですね。
長らく着ていて相当くたびれてるけど、いやだからこそ愛着たっぷりの服を、思い切って脱ぎ捨てて、新しいものに着替える勇気。
さあ、思い切っちゃいなよYOU、そんな感じです。
一気にいかなくてもいいんだし、たとえば部屋にあるもの、なかでも常に目につくものから、毎日一個ずつ新しいものと取り替えてみるのはどうでしょう。たぶん、たった一個でもそれは部屋のなかで輝きを放つだろうし、いつか、ではなく、ものの数だけ日数を経たら、目の前の風景はすっかり変わってます。
それに、そもそも手放せない理由って
「愛」ではなく、「執」かもしれないし、ほんとはそれしかないからとりあえずもってるだけ、なのかもしれません。
年末といえば、のひとつに「大掃除」というものがあると思うんですが、これは新しい年を迎えるにあたって、なわけですけれど、年じゃなくても何か新しいもの、つまり、いまは目の前にないけれども、これから迎え入れるためのスペースをつくる作業、という意味でとても理にかなってますよね。
というか、そうでないと置き場がなくなって、部屋がどんどんせまくなってしまい、身動きがとれなくなる。
これは観念とか概念の話なんかではなく、物理的なことですね。
ゲームにたとえたらわかりやすいですね、たとえばアイテムをいっぱい携えて旅をする、いまは必要ないけどいざというときに困るからあれもこれも、とたくさん袋に入れておいたはいいけれど、ほんとに必要なものがまさに目の前にあらわれたものの、もう袋がいっぱいで入らない。しかもこれが実際の身体で、ならば、重いし非常に動きづらい。いままさにつかうべきものがなかなかみつからなくて、むかつくことさえあるかもしれない。
頭のなかもおんなじで、ああなるかもしれない、そうなったらどうしよう、と思考をひとつひとつ生んではどれも選べずいっぱいいっぱいになって、アイディアがまさに水面下から浮かび来ていようとも、気づける余地がない。
備えあれば憂いなし、といいますが、ほんとに必要なものを自覚的にもつならば、きっともっと見晴らしがよく、らくで、動きやすいと思うんです。
部屋を片づけるとなぜすっきりするかというと、目の前のあれやこれやが、ほんとは必要ないとわかっていたからかもしれない。
もののもつエネルギーって、結構膨大です。
もちろん思考も感情も、そこにとらわれている気分、
奪われたエネルギーも。
この前本屋さんに行ったら、マインドフルネスのコーナーができていて、うちテレビがないので知らなかったのですが、NHKで特集があったそうですね。で、この画像を選ばれた方はそれです、マインドフルネス瞑想です。
瞑想って、宗教と全然関係ないし、神秘体験とかするためにあるんじゃないんですよね。
たとえば頭のなかって、常にああだこうだと言いたい放題じゃないですか。そこに参加せず反応せずに、あくまでも目の前で起こっている現象として、それらを眺めてみる。
そのうちただただ静かで穏やかなひろがりを感じるかもしれない。
すると、さっきのああだこうだは、その上で繰り広げられるおしゃべりで、自分本体ではないと気づくと思うんです。
眺めている視点、気づいている自分、勝手にあふれてくる思考にではなく、こっちにとどまってみる。
別に座禅組んだりしなくてもいいし、頭のなかでなんか会話がはじまったな、と思ったら、すぐに気づいている自分の側にシフトする、それだけでいい。忘れてまた頭のなかの言葉の渦に巻き込まれてしまっても、また戻ればいい。
それは自分じゃなかった、ということに気づき続ける練習、とでもいいましょうか。
これまでずっと見続けていたその視点、立ち位置からみていたものを変える、という練習です。
道具もなーんもいらない。本来の自分のまま、そのまんま。
ストーリーを断つ、履歴書、プロフィールを書き換える。そうしてもいい、そうしてはどうか。
よく自分ってこういうひとなんです、っていうひとがいますが、“そういうひとである”自分について、ほんとはどう思っているのでしょう。
これはもう立派な自己紹介なんですよね、で、実際、自覚はなくともアイデンティティになっていたりする。すると、そういう自分、で居続けるように、望もうが望まなかろうが無意識に振る舞う、これは脳のはたらきでもありますが、自分像を逸脱することが許されなくなってくる。どんどんどんどんそういう自分になり続けていく。
自分はどういうひとか、を点検してみるといいと思います。
もっといえば、自分をどういうひとだと定義してるのか。
実際に、自分のプロフィールを書いてみる。学歴、職歴含め、何歳のときにどんなことがあったとか、あのときこんな行動をとったとか、自分がこれまで経験してきた事実を通して眺めてみたときに、自分は自分に対して何を感じ、どんな評価を与え、何を冠し、どんな自分が出来上がったのか。
でもね、そこから出来上がった自分というものって、たとえこんな道を歩いてきたからといって、別にそういう自分じゃなくてもいいんですよね。
あんなことがあったんだから、こうなるのも仕方ない、それはひとつの“考え”なんだもの。
そこには別に規則なんかなく、そういうもの、という雰囲気があるだけで、
どんなプロフィールでどんなストーリーを生きたっていい。
自分の人生、どうあるか、選んでいいんだもの。
というか、それが自分を生きる、ということなのではないでしょうか。ね。
哺乳類って、生まれてとりあえず大人の状態に成長するまで、姿形にものすごい大きな変化ってないですよね。たとえばアルバムの写真をみても、これ、身体の大きさと服装とかがちがうだけで、顔全部いっしょじゃね? というひともいるし、家族全員、誰かひとりの顔だけでもいけそう、というひともいたり。。
でも鳥とか魚とか虫って、最初は全員たまごからのスタートですよね、で、虫は幼虫、さなぎ、成虫と、それぞれの段階で全然ちがう風体だったりする。
なんか、いま思ったのは人間、赤ちゃんから大人になるまで、実は結構盛大に変わってるはずなのに、見た目の段階があんまり壮大じゃないばっかりに、「変化」というものに対してもなだらかに変わってゆく、つまりいきなり「ええっ!?」というように現状をぶっ超えて変わることを望んではみても、なんか現実的ではなく、そうした変化を“奇跡”、そしてそうそう起こるもんじゃない、とか思ってしまうのって、それが理由のひとつなのかも、と。
さて、これを引いた方のテーマは「変容」です。
その準備ができている、と。
どんな風に変化していくかって、結局、それぞれの状況に応じたプロセスであって、自分はそこに関与できません。
けれども、どんな経過を辿ろうとも、ゴールがよければオッケーなんじゃないでしょうか。
そのためには決めること、どんなプロセスが進行しようとも構わない、と受け容れること。
そうそう、つまり変容って、状況や自分が「変」わることを受け「容」れること。
で、その準備が頭ではわかんないかもですけど、つかってない脳的にはもうオッケーになってるんだよ、と。
もっといえば、どうしてそっちにいきたいのか、なんて、もうとっくにわかってるでしょうよ、と。
今年の残り〜来年に向けて、とりあえず何をしたらいいか、もうご承知のことと思いますので、ぜひそれを☆