こんばんはー。
最近、引っ越しの準備もあり、「迷ったら捨てる、滞ったら捨てる」をポリシーにいろいろ処分しているのですが、使うつもりでとっていたし、こう使おうというヴィジョンもあるけど使ってない、という品々を、もう思い切って捨てよう! とごみ袋に入れかけたそのとき、そういえばオークションではどんな感じなのかしら、とふとのぞいてみると、ひとつはそこそこ、もうひとつはかなり需要のある感じ。まあ落札されなかったら捨てればいいんだし、と、3年ぶりくらいに出品というものをしてみたんですけれども、数百円で出したにもかかわらず、ひとつはほぼ定価、もうひとつは定価以上になったんですね。
よく、欲を出すといけない、とか言いますけど、それってほしがることがよくないわけじゃなく、執着してるかどうかなんですよね。今回の場合なら、絶対に売れなければいけない、なるべく高額で云々、こうでなければだめなのだ、とプレッシャーをかけたりしがみついてしまう。恋愛とかで、絶対にこのひとじゃないとだめ、と思うとき、その下にあるほんとの思いはなんなのか。。
反対に、あきらめた途端に状況が好転するとか、どうにでもなあれ、って、最初から手放しているとどんどん思う方向に流れていったりするじゃないですか。それは、ものも誰かも状況も自分も、すべてを自由にさせておくからなんですよね。あるがまま、ということ。
以前、ある知人が、みんなが自由に生きたらひとを殴ったり好き勝手なことをして世界がめちゃくちゃになる、と言ったんですけど、ひとのイメージというのはそれぞれだなあとあらためて思いました。でも自由って、そういうことじゃないよね。
なんでも自分の好きなことをして思い通りに生きる、というのは確かに自由というものの定義のひとつではあるけれども、結局は観念なんですよね。ときどき、ああいうのはおかしい、とか、そうするならこうしなければならない、とか、あっちよりこっちのほうがいいに決まってる等々、ほんとに多くの観念というか制限をお持ちの方が、われわれに自由を、みたいに叫んでいるのをみると、その考え手放したら自由なのに…と思うことがよくあります。
しかも、自分とちがう考え方、観念をもっているひとびとは敵であって、自由を抑圧する対象、という設定なんでしょうけど、もんのすごい曖昧だし、完全にストーリーですよね。でも、ほとんどのひとびとがそうやって生きてる。もちろん、わたしもうっかりはまったりしますけれども、ほんと、シャドウボクシングみたいな感じ。
先日の“楽しくしなければならない”も同じで、“自由でいなければならない”も、自由、というか、自由というイメージやストーリーに対する執着ですよね。
じゃあほんとの自由ってなんなのか、といえば、起こったことをそのまま起こらせしめる、という感じでしょうか。つまり、それの動くままにさせてやる、ということ。これは感情もそう。たとえば怒りが起こったら、それをどうこうせずにそのままにさせてやる。けれどそのとき誰かを攻撃する、というのは、その怒りをなんとかしよう、しなければならない、そうでなければ自分は安心できないとか損なわれてしまう、みたいな思いへの執着であって、あるがまま、というのとはちがうんですよね。これに気づくと、いろんなことがほんとうに楽になって、いろいろスムーズになってくはず。。
というわけで、観念、イメージ、ストーリーに執着しないということ。結局、それを見抜いてくだけ。で、ここでおちいりやすいのが自由、あるがままでいる“ふり”。そうしていれば、うまくいくんでしょ、というこれもまた取り引きというか駆け引きというか、勝手なストーリーなんですよね。。
結局、いつでもどうにでもなあれ、がいちばんなんじゃないですかね。って、これも“ふり”になると…endless…なのでおやすみなさい☆