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やっと前回の続き、と言っても、特に前回分を読んでいただく必要もないかなと思うので、今回分を<前編>として、早速ワークやヒーリングというものについて、あらためて書いてみます。
たとえば、転んでけがをしたとします。
軽いけがなら水で洗ってバンドエイドを貼ったり、舐めとけば治る、というように、ほんとにそれだけでだいじょうぶだったりします。
心理的なことも同じで、たとえばあるできごとが起こり、ネガティブな感情が引き起こされた場合、「舐めとけば治る程度」が行動としてどんな感じかはそれぞれだと思いますが、たとえば考えても仕方ないので忘れるとか、楽しいことを考えるとか、誰かに聞いてもらうとか、カラオケとか運動とか音楽を聴くとかやけ食いとか、あるいはひたすら寝るとか、自分なりの手段で対応しますよね。
結局のところ、何がいやかといえば、苦しみやおそれなど嫌な感情を持ち続けること。
その感情がなくなれば、ぶっちゃけなんでもいいんだと思うんですよ。
ところが、その感情よりも、できごとが起こったこと自体にフォーカスして、それをなんとかしなくてはならない、と思い、あれこれ策を練りはじめる。
実はそれこそが苦しみのはじまりなんですけど、めちゃ長くなるのでとりあえず割愛。
とにかく感情や思考という領域でも、からだと同じように自然治癒力というか、ニュートラルな状態、つまり本来の状態に戻ろうとするはたらきがあるわけで、とりあえずなんとか立ち直れば/気分が変われば、それでよし、と。
だからたいていのひとは発散、気にしない、がまん、忘れるべしと、ワークだとかヒーリングの必要性を思うことなく暮らしているわけです。
ただ、そうした自分なりの対応だけでは無理なとき。
身体のけがであれば、血がちゃんと止まらないとか、膿んできたとか、目に見えて状態がわかるためだと思いますが、その段階にあわせてまた対応しますよね。血がだらだら流れているのを放っておくというひとは、なんらかの理由がない限り、いないと思うんです。
けれども、こころにおいては、まだだいじょうぶではないのにだいじょうぶなふりや、傷ついたままの感情を見ないようにしたりと、目でみることのできない感情やこころについては、なおさら蓋をしてしまう。
というより、自分が傷ついているという事実やその背後にある理由などをあきらかにすることに、そもそも抵抗がありますよね。
身体においても、結構病院嫌いなひとが多いと感じますが、むしろ自分では対応しきれない症状が起こるときほど、見ないようにしてしまう。
もしもとりかえしのつかないような病気だったらどうしようみたいに、やっぱりこわいんだと思うのです。
なかでもいちばん多いのは、気を紛らわす、とりあえずその場を乗り切るという感じだと思うのですが、 それが積もり積もっていくと、なんらかの影響が現実としてあらわれてくる、肉体的には症状が悪化するなど、とても顕著ですよね。
そんなとき、つまり自分だけでは回復できないときに、ヒーリングやワーク、とあえて名づけられる行為が必要とされてくるわけです。
そんなことわかってるよ、って思われるとも思うのですが、そのメカニズムがほんとにわかっていたら、それこそ、この感じなら舐めとけばOK、でもこの感じだとひとの手を借りたほうがいいなど、自覚的にそのやり方を選ぶことができてくる。
過度に依存することもなくなるし、ほんとはもっと早く対応していれば、みたいなことも避けられるだろうし、何より苦しみの感情で過ごす時間が少なくなると思うんです。
ところが、ここでひとつ言いたかったのは、その線引きです。
もっというと、セルフワークやセルフヒーリングについてのことです。
と、長くなってきたので、続きは次に。
7月に入りましたな。
先月後半は編集の仕事や、毎年出品しているTシャツ祭りのためのTシャツ制作、そしてリーディングやブレスワークのセッション、と、日々さっさと過ぎていき、今週に入ってようやくひと段落、ひさびさにぐったりとして、昼寝や読書をしたり、休み休み過ごしつつ、フラワーエッセンスのためのリーディング、そして先ほど今週分の発送が終わってまたひと段落、という感じの7月初日の宵の口です。
ちょうど夏至の前後に心身不安定という方が結構いらして、わたしも梅雨に入ると、気圧の影響による自律神経とかの諸々のせいだと思うのですが、毎年めまいとか湿疹が出たり、気分的にも重かったりするんですけど、今年はとりあえずそうした症状も出ず、気分的にはいろーいろ思うことがあったりしましたが、特にTシャツ制作期間中は、デザインして製版して刷る、食べる、お風呂、寝る、という一連の工程を黙々々、とやるなかで、ああ集中っていいな、と思ったり、からだはめちゃめちゃつかれましたけど、思考は実務のこと以外ほとんどない状態でよかったです。
何より、好きなことを無心でやってるからだよね。
そう、ほんとに集中してるときって、いまさらいうまでもなく無の状態、つまりいわゆる“いまここ”ですもんね、で、別に集中してないときでも、好きなことをやっていないときでも、この状態でいていい。
でも、ひとって、何か考えていないといけないような気がしたり、そもそもエゴ/マインドは何かしなければいけない、というプログラムの働きなわけで、そんななか、自分に向き合わなければとか、手放さなければ、とか、実はそうしたワークや癒しに関係することもほんとうのほんとうには必要ない、っていうと混乱するかも&誤解を招く感じになるかもですけど、実際にはそうなんですよね。
たとえば、わたしはずっとカードリーディングをやってきたわけですけど、正直、なぜ自分のところへ? と思うようなご相談をもってこられる方がいつからか増えてきました。
難病の方や摂食障害の方など結構重度な疾患を抱えている方や、末期がんやいわゆる不治の病いのご家族をもっている方、ほかには心療内科的なこと、幼少期の経験からかなり深いトラウマを抱えた方、さらには霊的なことに関するご相談等々、実際のところ、カードをつかわずにセッションすることも増えてきていました。
リーディング、というか「言葉でどこまで癒すことができるのか」という質問を、以前、講座のなかで何度か受けたことがあります。
実際のところ、言葉の作用はとても大きく、“そこ”にふれれば癒しも起こります。泣くつもりはなかったのに、と言いながら涙を流される方も多くいますし、はっと何かに気づいた瞬間、表情、つまりエネルギーがみるみる変わるのはいうまでもなく、でもそれは何もリーディングの言葉でなくても、普段、友だちや恋人や誰かとのやりとりのなかでも、じゅうぶん起こっていることだと思います。
ただ、言葉だけではどうにもならない領域があります。
たとえば肉体にあらわれてきていることや繰り返しているパターン、依存的な問題など、それがどこからきているのか、情報として降りてきてはいるものの、これ、言葉じゃどうにもならないよ、と。わかっているのに対応できないといったジレンマを感じるようになったんですね。
どれだけ言葉で説明して、ああしたらどうか、こういうのはどうかと提案してみても、それができないから困ってるんじゃん、っていうデッドエンド感、特に恐怖が強い場合、頭ではわかっていても、どうしようもない。
そこで、フラワーエッセンスのセラピストの資格をとったんですね。
もちろん、肉体の疾患についてはお医者さんや漢方、鍼灸、整体などをすすめることもあります。
けれども、そこまでいかない場合、あるいはその併用として、とても効果が得られる可能性があるから。
それは自分が10年近く、ただのクライアントとしてつかってきての実感からで、何より安全性が高いこと、そして植物はとてもやさしい。言葉や意味づけを必要としない領域。
けれども、エッセンスだけでなく、ヒーリングやヒーリングのツールは、すべてが一気に解決するような魔法ではなく、サポートです。
楽しく、自分の思う通りに生きたい、安心したい、もうほんとにシンプルでいい。まずはそこからはじまる。
で、そのためにできることは何か、そのサポートなんですね。
と、ここまでで結構長くなってしまった&そこそこ壮大なテーマ&自分でも追ってみたいので、へんにまとめず終わりまで書こう、という意味で、いまタイトルに「1」をつけてみたところです笑。
※↑さらにタイトルを変え<序章>としました&本編<前編>は こちら(7/23)
もういっつも書く書くといって書く書く詐欺にならないよう&ていねいに書いてみたいので、よければ気長におつき合いくださいませ。。
ブレスワークのご感想もいただいているので、それも途中ではさむかもですが、今月はわたし的にかもしれませんけど、再編、改変、再定義、みたいなワードが上がってきてます。
あと、もっと多くを望んでいいんだよ、って感じ。
まあ、そんな感じなので、よろしくお願いいたします☆
ではでは、かなりいい感じの7月を☆☆☆
いつもありがとう!