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ワークやセッションというものの意味<後編>

さて、前編の続きです。

セルフワークやセルフヒーリングについて、これらの落とし穴というか、自分でやるよりも他者から受けたほうがいい場合と、自分でやれることの線引きについて書いてみます。

まず、潜在的に、ひとにたよってはいけない、という観念をもっているひとがとても多いです。
そして、ひとにたよりたくない、というケースも。

確かにメカニズムがわかれば自分でヒーリングなりワークすることはできるわけですが、ここで問題なのはその視点、やり方がエゴ/マインドに基づいている場合。

これはわたしのクライアントさんの傾向ですが、特にフラワーエッセンスを継続されている方、内観が上手な方がとても多くて、すごいなーとよく思います。
実際、エッセンスをつかったワークの特徴として、エネルギー、つまり周波数レベルで調整していくため、不要な感情の解放が起こり、すると気づきが起こりやすくなってきます。

自分の感情やほんとうの声を聞こうと、それまで外に向いていた視点を自分に向けはじめれば、さらにそれはくっきりとしてきて、たとえば忘れていた記憶が蘇ったり、具体的なことでなくても、何が自分を苦しめていたか、そのストーリーの一端がみえてきます。

このからくりがわかれば、さらに内観しやすくなるため、深くセルフワークができるようになってくるんですね。

ただ、問題なのは、解放、手放すという部分、そして新たなストーリーにはまり込んでしまうこと。

それはエゴ/マインドと本来の自分というもの(まあ、本来の自分、というものもいないっちゃいないんですがそれはおいといて)、つまり誰が誰に対してワークし、ヒーリングし、誰が何を手放すのか、その視点が曖昧なままセルフワークを続けると、内観というよりも、まさに迷宮のストーリーに入り込んでしまい、迷いや混乱、体験する必要のなかった苦しみを付加することになってしまう。

実際、核となっている部分へのアクセスは他者の手を借りてもなかなか難しいため、特に抵抗や抑圧が強かったりするとそこでストップ、そもそもエゴ/マインドはかくそうとするのが役目みたいなものですから、自分は何をやってもだめなんだとか、これだけやったんだからだいじょうぶ等々、結構簡単にその“ジャッジ”にひっかかってしまうんですね。

たとえば内観とか、言葉をつかって問いかけていくワークって、別に何か論理的なこととか分析みたいに思われてる方もいるみたいですが、そういったこととはむしろ対極で、たとえるなら、からまった糸をほどいていくのと同じ作業です。

本物の毛糸とか糸がからまっているのをほどくのって、すごいめんどくさいじゃないですか、けれども、わたしのセッションや特にワークショップで体感された方はおわかりだと思いますが、ほどけたら、もうカードとか引く必要がない。ほんとになんにもいらない、ただ自分をみてくだけ、糸をどんどんたぐっていくだけで終わり。

ほどけたときって、すとん、と胸におちた状態で、なーんだ、と思うこともあれば、自然に涙が流れてきたりもしますよね。

つまりこの時点で解放が起こり、手放すという行為をあらためて重ねる必要もない。あとはそこにできたスペースに、それこそ自然治癒力で必要なことが勝手に起こってくる。それまでのダメージが大きかったり、たとえば深いトラウマなどであれば、ヒーリングをするとなおいい。

ただ、これを自分で行うというセルフワークの落とし穴は、この、糸をたぐっていたつもりが、ほんとはそこにまったく関係ないはずの“別の観念”や“思い込み”を無自覚に挿入して新たに糸を足してしまったり、途中でぶっちぎってしまって、核の部分が残されてしまう、そしてそれに気づかないこと。

さらにいえば、ほんとはそこで終われるはずが、そこにあったできごとに対する思いや感情に気づけても、 今度はそれを手放したくない、気づきたくない、みたくない、という感情が付随している場合。
ここからが、前々回に書いた“言葉では難しい領域”だと、ANANYAが感じているケースです。

以上、内観というか言葉をつかったワークを例に書いてますけど、ツールやプロセスがちがうだけで、これはほかのワークやヒーリングのメカニズムでもあります。

まとめてみると、これもそのひとの信念体系や観念によるので一概にこうだ、とはいえないわけですが、それでも、ほんとにけがや何か病気にかかったときにどうするかとおんなじ。
その程度によって、自分での対応の段階もさまざまだし、できることは自分でやったらいいですし、それでだめなら病院など治療を受けに行くように、ぴん、ときたところを選んだらいい。

ただ、いちばんまずいなと思うのが、上に書いたような、もっと早くらくになれるところをいろんな観念や思い込みなどで遅らせてしまったり、さらに糸をからめてしまうこと。

実のところ、こうしたワーク、セルフでもそうでなくても苦手なひとは、単にやり方がよくわからないという場合も多いですが、抵抗しているケースがとても多いです。

前編でも書きましたけど、自分のなかにある感情や思いを知るのがこわい、知ってしまったらどうなるのだろう等々のおそれから、みないふりをしてしまう。

結局この状態だと、セルフでやっても、肝心なところは避けてしまいますよね、ある意味自分で自分を手術するみたいなことだから。

これは言葉、つまりマインドに直接はたらきかけるようなワーク以外の、たとえばエネルギーワーク等でも同じだと思います。同じやり方で行っても、そのワーカーやヒーラーによってあらわれてくることがちがいますよね。

結局のところ、言葉があろうがなかろうが、誰が何を理解し、誰が何にフォーカスしているのか。言葉だってエネルギーなのだから。。


と、いろいろ書いてきましたけれども、でもね、ぶっちゃけ、ワークもヒーリングも、全部エゴ/マインド、つまりストーリーだということ。
ここに気づけば、ほんとになんにも必要がない。
それがワークもヒーリングもほんとうにはいらない、という理由です。

とはいえ、気づき、目覚めが起こるまでは、、とこれはまた別の話になってくるのでひとまず。

どちらにしても、自分でやる場合は、一度、信頼できそうなひとのセッションを受けたりやり方を確かめたりと、それこそ、自己判断で走らないことが肝要かなと思います。

もっと、いろいろなケースや簡単なワークのやり方なども書いてみたいのですが、ちょっとブログでできる範囲ではないので、別のかたちでできたらな&セルフワークに特化したワークショップをやってもいいのかもね、と思いつつ、とりあえずこんな感じで。

長々と読んでいただき、ありがとうございました。
また近々、ブレスワークの感想など紹介できたらと思います。

ここちよい週のはじまりを☆


************************

フラワーエッセンスのお申し込み
7月分、締め切らせていただきました。
申し込んでくださった方、発送は来週になります。←すいません、今週(7/25〜)です。順次発送します!



| text | 01:20 | comments(0) | - |
ワークやセッションというものの意味<前編>


やっと前回の続き、と言っても、特に前回分を読んでいただく必要もないかなと思うので、今回分を<前編>として、早速ワークやヒーリングというものについて、あらためて書いてみます。

たとえば、転んでけがをしたとします。
軽いけがなら水で洗ってバンドエイドを貼ったり、舐めとけば治る、というように、ほんとにそれだけでだいじょうぶだったりします。

心理的なことも同じで、たとえばあるできごとが起こり、ネガティブな感情が引き起こされた場合、「舐めとけば治る程度」が行動としてどんな感じかはそれぞれだと思いますが、たとえば考えても仕方ないので忘れるとか、楽しいことを考えるとか、誰かに聞いてもらうとか、カラオケとか運動とか音楽を聴くとかやけ食いとか、あるいはひたすら寝るとか、自分なりの手段で対応しますよね。

結局のところ、何がいやかといえば、苦しみやおそれなど嫌な感情を持ち続けること。
その感情がなくなれば、ぶっちゃけなんでもいいんだと思うんですよ。
ところが、その感情よりも、できごとが起こったこと自体にフォーカスして、それをなんとかしなくてはならない、と思い、あれこれ策を練りはじめる。

実はそれこそが苦しみのはじまりなんですけど、めちゃ長くなるのでとりあえず割愛。
とにかく感情や思考という領域でも、からだと同じように自然治癒力というか、ニュートラルな状態、つまり本来の状態に戻ろうとするはたらきがあるわけで、とりあえずなんとか立ち直れば/気分が変われば、それでよし、と。

だからたいていのひとは発散、気にしない、がまん、忘れるべしと、ワークだとかヒーリングの必要性を思うことなく暮らしているわけです。

ただ、そうした自分なりの対応だけでは無理なとき。
身体のけがであれば、血がちゃんと止まらないとか、膿んできたとか、目に見えて状態がわかるためだと思いますが、その段階にあわせてまた対応しますよね。血がだらだら流れているのを放っておくというひとは、なんらかの理由がない限り、いないと思うんです。

けれども、こころにおいては、まだだいじょうぶではないのにだいじょうぶなふりや、傷ついたままの感情を見ないようにしたりと、目でみることのできない感情やこころについては、なおさら蓋をしてしまう。
というより、自分が傷ついているという事実やその背後にある理由などをあきらかにすることに、そもそも抵抗がありますよね。

身体においても、結構病院嫌いなひとが多いと感じますが、むしろ自分では対応しきれない症状が起こるときほど、見ないようにしてしまう。
もしもとりかえしのつかないような病気だったらどうしようみたいに、やっぱりこわいんだと思うのです。

なかでもいちばん多いのは、気を紛らわす、とりあえずその場を乗り切るという感じだと思うのですが、 それが積もり積もっていくと、なんらかの影響が現実としてあらわれてくる、肉体的には症状が悪化するなど、とても顕著ですよね。

そんなとき、つまり自分だけでは回復できないときに、ヒーリングやワーク、とあえて名づけられる行為が必要とされてくるわけです。

そんなことわかってるよ、って思われるとも思うのですが、そのメカニズムがほんとにわかっていたら、それこそ、この感じなら舐めとけばOK、でもこの感じだとひとの手を借りたほうがいいなど、自覚的にそのやり方を選ぶことができてくる。
過度に依存することもなくなるし、ほんとはもっと早く対応していれば、みたいなことも避けられるだろうし、何より苦しみの感情で過ごす時間が少なくなると思うんです。

ところが、ここでひとつ言いたかったのは、その線引きです。
もっというと、セルフワークやセルフヒーリングについてのことです。

と、長くなってきたので、続きは次に


 

| text | 18:00 | comments(0) | - |
7月〜8月のフラワーエッセンスのお申し込みについて

先週、亡くなった友人のお通夜、告別式で、友人やご家族のことはもちろん、ものすごくたくさんのひとと会ったりして、またいろいろ思うところがありました。

いままで亡くなったひとの分まで精いっぱい生きようとか、そのひとの遺志をついで、みたいなことは一度も思ったことがなく、今度も思うこともなく、やっぱり自分というものをみつめるだけなのですが、思ったのは、自分にはまだ肉体があるんだなあとか、そんな自分の時間はまだ続くんだなあ、自分は生きてるんだなあ、とか、なんか生き残り感なんですよね、だからと言ってどうということもなく日々暮らしていくのですが、それでもこころを残していることをできるだけやりたいな、とあらためて思ったりしています。

というわけで、ようやくまたひと段落したので、先日のワークやセッションについての続きを書きはじめましたが、なかなかまとめるのがたいへんなので、とりあえずとりいそぎお知らせを。



★★7月〜8月のフラワーエッセンスのお申し込みについて★★

調合の窓口が移転するため、しばらく発送がお休みになります。

・最終お申し込み締め切り日:7月21日(木)夜まで
・お申し込み再開日:8月15日(月)から



お知らせ、ぎりぎりになってしまいすみません。
結構長い期間なので、継続中の方、おつらい場合はなんらかの対応をいたしますので、遠慮なくご連絡くださいませ。
ご不便おかけしますが、なにとぞ、よろしくお願いいたします。


それではまた近々。
梅雨から夏の気圧の変化等、体調など崩されませんよう。

いい感じの毎日を☆




| フラワーエッセンス | 20:02 | comments(0) | - |
選挙のことなど

こんにちは。
今週前半は最近ごぶさたしていた友人と続けて会ったり連絡が来たり、後半は身近な友人が亡くなって正直さっきまでほとんど何も手につかない状態だったのですが、落ち込んだままでいても何もならないし、ふと思い立ったので書いてみます。

ほんとは今年後半のことも含めてwebDICEのほうに出せばよかったんだよねと思いつつ、先月、自分のなかでまたいろいろ変化があって、ワークショップも延期したりと、個人セッションは別として、全体的に何か自分からはたらきかけるみたいなことを控えてました。

いや、この自分の変化の感覚はもう以前からどんどんあって、今年は特に何段階なのか段階でさえないのか、なんというか、部屋の模様替えのときって、いったんあるものをひっくり返して部屋中が混沌としつつ、日々作業できるだけのスペースと部分的に整頓されてる余白がいくつか、みたいなあの感じに近いかな、余白ができると新しいことが入ってくるし、するとまた新たな発見があって…で、それに応じて景色が変わり、ものやひととの関係性が変わり、みたいななんかね、頭で考えてできる配置ではないし、こっちだ、という方向性すら決めてない/決まってないので、身をまかせるしかない。

この感じって、先日書きはじめたワークやセッションについてのことにもかかってるんですよね(ちゃんと続き書きますよ!)。自分で選ぶこと決めること、ゆだねるということ。

で、本題に戻りますと、webDICEのほうに出せばよかったと思ったのは明日の選挙のこと。

これを読んでくださってる方は、政治についてとかどう思われてるんですかね。
特に音楽のひとに政治のことを語ってほしくない、みたいな意識があったり、ちょっとアンタッチャブルというか、あえて関わらない領域みたいな感覚とか、この部分については考えるけどとか、いくつかの意見に集約はされるかもですけど、こんなにスタンスがいろいろなこともないかもね、と思ったりします。

たとえば、好きなアーティストや何か共通の趣味がすばらしく一致してたりいつも遊んでる友だちでも、政治についての見解で、途端に意見が合わなくなって気まずくなったりということがありますよね、わたしはあるんですけど、でもそれで政治に対する嫌悪感を募らせてるだけではいられないんじゃないかと。

このことについても、ちゃんと書くとすごい長くなりますし、わたしがすべくは直接的な政治論を述べることなどではない&できないので書かないですけれども、とりあえず明日の選挙、行きましょうと。

とあえて自分が書こうと思った理由はいくつかあありますが、いちばんは以前都知事選のときに、知人のスピリチュアル関連のひとが「ええっ!?」と思う候補者に、しかもほかのひとがわからなかった、という理由で投票していた事実をあとから知って、これじゃいろいろ変わらないのも仕方ないよね…と思ったことです。

それも含めてスピリチュアル関連のひとって、なぜ具体的に目の前で起こっていることについてあんまり言わないのかなと疑問に思っていたこともあります。

そもそも自分がwebDICEでメディスンを出そうと思ったのは、自分のバックグラウンドがそうだったということも大きいですけど、そうしたスピリチュアル、みたいな界隈ではないところにはたらきかけたかったからなんです。

隔週ペースで書いていたときに、3.11や都知事選の前日など、実際目の前で大きなことが起こっているときに更新日がぶつかったこともしかるべくだなと思ったし、なんのための誰のためのワークなのかヒーリングなのか。
当時DICEでもちょっと書きましたけど、その愛はどんな愛か、どのへんのワンネスなのか。

とにもかくにも、全部つながってんです。
これはもうどうしようもなく。
いま、自分の、ごく身近な何かについて不安や怒りをおぼえて何かを変えたいと思うのなら、 それがどこにつながっているのか。

それを変えるのが政治だなどと言ってるのではまったくもってないですよ。
でも、すくなくとも、仕事や経済的なこと、ほんとにあたりまえの生活について、すぐにはわからなくても、なんらかの変化を誘発するきっかけにはまちがいなくなるはずです。
実際に、あたりまえに思って暮らしていることが、政治的な要因からきている部分がとてもたくさんあることにも気づけるはず。

って、いろいろ書きましたけども、 そもそもわたしがこんなことを書くこと自体があれよね、って思ってください笑。

そんなわけで、また。
後日、先日のつづきやブレスワークのこと、書きますね。

では、ここちよく、自覚的な週末を☆



| text | 17:20 | comments(0) | - |
ワークやセッションというものの意味<序章>


7月に入りましたな。

先月後半は編集の仕事や、毎年出品しているTシャツ祭りのためのTシャツ制作、そしてリーディングやブレスワークのセッション、と、日々さっさと過ぎていき、今週に入ってようやくひと段落、ひさびさにぐったりとして、昼寝や読書をしたり、休み休み過ごしつつ、フラワーエッセンスのためのリーディング、そして先ほど今週分の発送が終わってまたひと段落、という感じの7月初日の宵の口です。

ちょうど夏至の前後に心身不安定という方が結構いらして、わたしも梅雨に入ると、気圧の影響による自律神経とかの諸々のせいだと思うのですが、毎年めまいとか湿疹が出たり、気分的にも重かったりするんですけど、今年はとりあえずそうした症状も出ず、気分的にはいろーいろ思うことがあったりしましたが、特にTシャツ制作期間中は、デザインして製版して刷る、食べる、お風呂、寝る、という一連の工程を黙々々、とやるなかで、ああ集中っていいな、と思ったり、からだはめちゃめちゃつかれましたけど、思考は実務のこと以外ほとんどない状態でよかったです。
何より、好きなことを無心でやってるからだよね。

そう、ほんとに集中してるときって、いまさらいうまでもなく無の状態、つまりいわゆる“いまここ”ですもんね、で、別に集中してないときでも、好きなことをやっていないときでも、この状態でいていい。

でも、ひとって、何か考えていないといけないような気がしたり、そもそもエゴ/マインドは何かしなければいけない、というプログラムの働きなわけで、そんななか、自分に向き合わなければとか、手放さなければ、とか、実はそうしたワークや癒しに関係することもほんとうのほんとうには必要ない、っていうと混乱するかも&誤解を招く感じになるかもですけど、実際にはそうなんですよね。

たとえば、わたしはずっとカードリーディングをやってきたわけですけど、正直、なぜ自分のところへ? と思うようなご相談をもってこられる方がいつからか増えてきました。

難病の方や摂食障害の方など結構重度な疾患を抱えている方や、末期がんやいわゆる不治の病いのご家族をもっている方、ほかには心療内科的なこと、幼少期の経験からかなり深いトラウマを抱えた方、さらには霊的なことに関するご相談等々、実際のところ、カードをつかわずにセッションすることも増えてきていました。

リーディング、というか「言葉でどこまで癒すことができるのか」という質問を、以前、講座のなかで何度か受けたことがあります。
実際のところ、言葉の作用はとても大きく、“そこ”にふれれば癒しも起こります。泣くつもりはなかったのに、と言いながら涙を流される方も多くいますし、はっと何かに気づいた瞬間、表情、つまりエネルギーがみるみる変わるのはいうまでもなく、でもそれは何もリーディングの言葉でなくても、普段、友だちや恋人や誰かとのやりとりのなかでも、じゅうぶん起こっていることだと思います。

ただ、言葉だけではどうにもならない領域があります。
たとえば肉体にあらわれてきていることや繰り返しているパターン、依存的な問題など、それがどこからきているのか、情報として降りてきてはいるものの、これ、言葉じゃどうにもならないよ、と。わかっているのに対応できないといったジレンマを感じるようになったんですね。

どれだけ言葉で説明して、ああしたらどうか、こういうのはどうかと提案してみても、それができないから困ってるんじゃん、っていうデッドエンド感、特に恐怖が強い場合、頭ではわかっていても、どうしようもない。

そこで、フラワーエッセンスのセラピストの資格をとったんですね。
もちろん、肉体の疾患についてはお医者さんや漢方、鍼灸、整体などをすすめることもあります。
けれども、そこまでいかない場合、あるいはその併用として、とても効果が得られる可能性があるから。
それは自分が10年近く、ただのクライアントとしてつかってきての実感からで、何より安全性が高いこと、そして植物はとてもやさしい。言葉や意味づけを必要としない領域。

けれども、エッセンスだけでなく、ヒーリングやヒーリングのツールは、すべてが一気に解決するような魔法ではなく、サポートです。
楽しく、自分の思う通りに生きたい、安心したい、もうほんとにシンプルでいい。まずはそこからはじまる。
で、そのためにできることは何か、そのサポートなんですね。


と、ここまでで結構長くなってしまった&そこそこ壮大なテーマ&自分でも追ってみたいので、へんにまとめず終わりまで書こう、という意味で、いまタイトルに「1」をつけてみたところです笑。

※↑さらにタイトルを変え<序章>としました&本編<前編>は こちら(7/23)

もういっつも書く書くといって書く書く詐欺にならないよう&ていねいに書いてみたいので、よければ気長におつき合いくださいませ。。

ブレスワークのご感想もいただいているので、それも途中ではさむかもですが、今月はわたし的にかもしれませんけど、再編、改変、再定義、みたいなワードが上がってきてます。
あと、もっと多くを望んでいいんだよ、って感じ。

まあ、そんな感じなので、よろしくお願いいたします☆

ではでは、かなりいい感じの7月を☆☆☆

いつもありがとう!




 

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