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Hope our paths cross again.

 

見知らぬひとによく声をかけられる、と、先日書きましたが、先ほど郵便局に行って、帰ろうと自転車のカギをはずしかけた矢先、「この道の名前はなんですか、秋葉原まで行けますか」と、同じく自転車に乗った外国人の紳士に声をかけられました。

 

とりあえず道の名前と、途中で曲がれば秋葉原まで行けることなどを伝えると、ほかの道についてはどうかなど聞かれ、その紳士は自転車で秋葉原に行ったことはあるが、どの道を通るのが最適かということでおたがいのベスト経路についてディスカッションがはじまり、彼は世界中を飛び回っているとのことで、自分はどの国でもだいたい自転車移動、東京はひろいというけどそうでもないなど、街の事情から治安、宗教、政治、とどんどん話がふくらんでいったのでした。

 

 

適当なところで帰ってもよかったのですが、その紳士がわたしの年齢をぴたり、と当てたことに驚き(いまだかつて当てられたことがないので)、このひとはどんなひとなのだろうという興味でとりあえず話を聞いていたのですが、なんか経歴が華麗というかドラマティックというか、スパイor詐欺師? と疑いたくなるような展開で、まあ、自分をだましたところでなんの得にもならないけども、、と思いながら聞いてました。

 

 

ところが、わたしの反応があんまりよくなかったのか、「何か質問してよ質問!」とせまられ(笑)、でも口を挟むタイミングもないくらいのマシンガントークだったし、なぜか特に聞きたいこともなかったんですよね、ただその方の自転車がママチャリだったので、それは誰のものかというのにはものすごく興味があったんですけど、なんとなく聞いたらいけない気がしたし、何か偉い方っぽいので名前とか聞くのもなあと思ったり。

 

すると自ら名乗ってくださって、ちゃんと覚えた? と念押しもされ(笑)、調べたりはしてないんですけど、ほんとにいろんなひとがいるなあ、と。

 

 

あとで時計をみたら、30分以上経っていてびっくり。

あの紳士は何が言いたかったのだろうか、と思い返してみると、

結局のところ、やっぱり愛についてなんだろうなあと。

 

別れ際、「ありがとう、またどこかの道で!」と手を振り、紳士は去って行ったのですが、

ちょうど夕日がさしていて、いい感じでした。

 

 

見知らぬひとと話すのは楽しいですな。

しかも、自分とたぶん全然ちがう世界をみているひとは余計に。

 

またどこかの国に、猛烈に行きたくなってきました。

 

 

というわけで、また。

 

 

**********************

 

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よければおためしを〜☆

 

※郵便料金改定のため、ちょっとだけ料金が変わります。

↑のページをご覧くださいませ。

 

 

 

 

| text | 19:55 | comments(0) | - |
体験、記憶、相対するコマンド

 

きのう、どうしてもまたあのナイス・スポットに行きたくて、とりあえず作業をぶん投げ、自転車飛ばして行ってみたのですが、こっちの地域って、川ばっかり&高い建物があんまりない&すこし行けば海、という環境のせいか、とにかく風がすごいんですよね。

 

で、スポットに到着するとちょうど強風が、それも結構な量と圧で吹きすさんでおり、このままここにいたところで、先日のようなここちよさは望めまい、と思い、近くのスーパーまで戻ってトイレを借りて、するとなんだかおいしそうなピザが並んでいたのでつい買ってしまい、何やってるんだろう、、と思いながら、とりあえず近所の川べりでちょっとぼっさりしてから帰ろう、と、また自転車を走らせたのです。

 

で、走っているうちに、そういえば、と、ある場所を思い出したのでちょっと寄ってみると、風もほとんどないし、気持ちいいじゃん、、という感じでしばらくぼっさり。

 

木々と土のせいか、しっとり落ち着く、新たな読書&ぼっさり場となりました。

 

 

 

 

 

ベンチ前の風景はこんな感じ。

 

 

 

帰りながら思ったのですが、

ひとって、やっぱり記憶だよなあ、と。

 

たとえば、恋愛がわかりやすいと思うのですが、

楽しかったり、すごく理解し合えたと感じたり、気づかせてもらったり、受け容れてもらったり、いろんな素晴らしいと感じる経験をしたひととの関係が終わりそうになったりすると、「あの時間」の数々を振り返り思い出し、「戻りたい」「あの感覚をもう一度!」という思いが「このひとでなければだめだ」となって、執着というものにつながったりするんですよね。

 

 

ひとって、その体験にこころが動かされれば動かされるほど、この場合でいえば、幸福感とか安心感とか、一体感、愛ともいえるかもしれないけれど、それが「特別」でとっても「重要」で、「大切なもの」という“ラベル”とともに記憶されて、「これ以上の体験は起こらないかもしれない」が選択され、「それじゃなければだめ」が選択され、極端な例だとそれ以外は「却下」になるんですね、ほかは認めないよ、と。

さらに「良い」「正しい」が追加されもしたり。

 

けれども、結局のところ、そこには自分がその経験によってなんらかの思いが満たされたという感覚、

その記憶が発端だと思うんです。

で、それが大きいと感じれば感じるほど、より求める。失いたくない、になったりする。

 

 

その体験の逆方向が、恐怖、絶望感、罪悪感、惨めさ、孤独、といったラベルが貼られた記憶で、上の例が「求める」なら、こっちは「避ける」というコマンドでもって対応すると。

いらない、むしろ失くしたいよと。

 

 

もちろん、そんなに単一的ではなく、そこからさらなる選択が起こり、このケース、また別のケース、というように、それぞれのラベルとコマンドの詳細設定が日々行われ続けている。

 

で、あるとき、このケースはどうしたらいいのだよ〜と迷ったりして、

でもそんなときが、チャンス(どんな?)なのかもですね。

 

 

とりあえず、「求める」と「避ける」、

これにとらわれないと、すごーくいろんなことがスムーズだなあと感じます。

 

もちろん、求めちゃいけない、避けちゃいけないわけではないです。

車にぶつかりそうだったら当然避けるし、

喉がかわいてたら水を求めるよ砂漠だったらなおだよ、

(って、なんか、例がぱしっ、とこなくてすんません、届け! 言いたいこと!)

 

 

どっちにしてもそうなったらそれはまた掟となり、今度はそれらがコマンドになるわけですが、

それを生み続けるその正体は誰なのか、なんなのか、と。。

 

 

結局のところ、こっちがこうだったらこっち、という

この仕組み(あえて)に乗っかっていく限り、

だったらこれはどうなの? が延々と続くわけですよね(つまり正しいか否か、良いか否か)。

しかもその発端は記憶であり、時間なのだと。

 

 

でもね、

その記憶に揺れ続けて生きていくのが人間、とも思うのです。

 

とはいえ、

あの素晴らしい体験以上のものは結構そばにあるかもしれないし、

あのひどい体験もまた起こるとは限らないということ。

 

あえていうなら“正解”は「ほんとのことはわからない」。

 

だから、なんの記憶も経験もぶっ超えて、

そのときの感覚、でいけばいいんじゃね?

 

(と書きつつ、「わかってるけどさ〜」という何者かの思考が、、)

 

 

というわけで、また(笑)。

 

 

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| text | 16:19 | comments(0) | - |
あるひとが夢に出てきたこと、発見された場所

 

先日、たぶん三度くらいしか会ったことのないひとが急に夢に出てきました。

最後にお会いしたのはもう10年近く前だし、おたがいプライベートな連絡先を交換するような感じでもなかったので、突然出てきてびっくりしました。

 

会ったことのない著名人とか、亡くなった偉人やいわゆる神さまの夢は、あんまり不思議(内容はそうでも)には思わないのだけど、実際に会ったことがあって、でもその後特に交流もなく何年も忘れていたひと、というのはめずらしくて、夢の内容が印象的だったこともあり、ちょっと気になってネットで調べてみたのです。

 

ところが、名前すら覚えていなかったことに気づいて、いくつかのキーワードを入れて検索してみたところ、わりとすぐにヒット、どうやら結構すごい方だったようで、本も出版されて、いろいろご活躍のようでした。

 

まあでも、わざわざ会いに行かなくてもいいような気もするし、本も読まなくてもいいような気もするし、と思ったのですが、気にはなったので、とりあえず図書館で借りてみることに。

 

読んでみると、ああこんな感じだった! とその方の特徴を思い出して、相変わらずラディカルだな〜(笑)と、ちょっとほっとしたりもしました。

 

で、ロスでのあれやこれやをいまだ消化中、という状況のなかで、とりあえず毎日ブログを書いていることからもわかるように(笑)、まあ、結構内面的な変化が起こってるんですね、で、不安とか恐怖とかの感情がときどきわあっと起こってきてワークするんですけど、ここ数日書いているみたいに、それらの感情や思いの発端と思われる掟や、その掟が発生するに至る何かが、なかなかみつからないことがあるわけです。

 

 

というか、ほとんどみつけられないよね、奥にあるものって、そもそもそれをみたくないから掟だのなんだのをつくってかくすわけだし、だから先日も書きましたけど、いろんなツールやひとの手がある。

 

で、家での作業中に、ここ数日あったいろんなことが、ふと思い返せばこれパターンになってたわ、、と気づいて、探っていくとやっぱり不安とか恐怖がわいてくる、そのことを考えるとじわじわと胸にしびれが起こったり、腰に痛みが起こったりといった体感もある。

 

ここに飲み込まれてしまうと、ある種のひとはパニックになったりもして、そのおそれの感情をさけるためのネクストが起こるんだと思うんです。

 

それは相手または自分への怒りや攻撃になったり、忘れるために食べたり飲んだり何かをしたり、いわゆる防衛本能というやつがはたらいて、それを避けようという動きが起こる。

 

でも、それは一時的におもてにあらわないようにみえるだけで、消えたわけではないんですよね、だからときどき発作のように何かのきっかけでまた起こる。で、また対処する、それがひどくなると、避けたり抑えるちからも増幅して、、となる。

 

 

ちょっと話がそれてしまったのですが、そんなときにわたしの対処法のひとつは、とりあえず自転車に乗って自然がある場所にいく。たぶん、抑圧も避けることもせず、ニュートラルな状態にもっていこうとするんだと思いますが、その移動の間にセルフワークができるという利点もあったりします。

 

 

さっきの、あるパターンに気づいたときも、とにかく川または海へと思い、なんとなくそのひとの本をもって自転車で出かけたんですね。

で、いままで行ったことのないほうに行ってみたのですが、すごいナイス・スポットを発見しまして、そこで本を開いて、ちょうど読みかけの、しおりをはさんでいたページを読みはじめたんです。

 

 

もうお察しがついてると思いますが、そう、もうねえ、そこにこたえが書いてあったんですよねー自分のそのパターン発生のストーリーが。。

 

で、うっわーすげ〜ありがとう◯◯さんこの本書いててくださって!!&これを手にとらせてくれたすべてのもの!!! と思わずガッツポーズが出ましたよね、こころのなかではなく実際にね、全身驚きとちからの漲りのふるえが起こるほどに。。

 

 

ここでまた思うのです。

やっぱり、必要なことって必要なときに起こるし、

何かひっかかる、そんな自分の感覚をないがしろにしないようにしようと、

そのためには、やっぱり、ものごとをジャッジしないでニュートラルに、ただみることだね、と。

 

 

というわけで、画像はそのナイス・スポットです。

新しい読書&ぼっさり場となりました。

ひろくて最高、ここで仕事もしてみようとおもいます。

 

ではまた。

いい感じの週末を〜☆

 

 

 

 

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よければおためしを〜☆

 

 

 

 

 

| text | 14:00 | comments(0) | - |
瞑想、カレー、可能性、正しさの罠

 

 

先日ある知人から、ある技術について、それではAもBもできないから、というメールがきて、うーん、たしかにすべてはできないと思うけど、でも自分、とりあえずAもBもできるケースはあったよ、と思ったのですが、なんかそれをたとえばこんな場合、みたいに説明を書いて送ったりするのも非常に面倒、と思い、どう返信したものか、と保留にしてたんです。

 

そしたら今度は別の知人が、AもBも結局はこういうものだから、その技術でできる、という趣旨のことを言っていて、うーん、それもまたどうなのだろう、できないケースもあると思うよ、自分がそうだったから、と思って、それは本人に伝えたんですね。

 

その知人同士は知り合いではなく、たまたまわたしは両方を別々に知っているだけだったので、シンクロというか、タイムリーだなあと思ったのですが、どちらの主張も、というかとらえかた伝え方に実はうんざりして、すごく不快感をおぼえている自分に気づいたのです。

 

 

自分の体験がたまたまそのどちらでもあり、どちらでもなかった。

ということは、それぞれが自分の経験だけで判断して結論を出している。

だから否定的な気持ちが起こった。そうじゃないかもしれないという可能性だってあるのに(というか自分がそもそもそのケースなのに)、なぜ検証もせず決めつけるのだと。

 

 

これは一見中立で正論っぽいですよね、でも、ほんとに自分がニュートラルであるなら、不快感は湧いてこないかもしれない。

という思いが自分のなかに起こる。

 

 

そもそも相手やものごとの何かをみて不快感が起こる、というのは、自分の感覚や意見、ポリシーに反している、あるいは受け入れがたい理由があるからで、そこには「正/誤」「良/悪」等々、その感情が発生するなんらかの発端があると思うんですね。

 

 

で、自分をみるわけです。この不快感の理由はなんだろう、なぜ決めつけられると腹がたつのだろう、と。

 

そこに「掟」の存在がきらり、と光っているわけです。正しい間違ってるを超えて、なんか、あんまりいい感じじゃない光が(笑)。

 

 

この「掟」をみつけて、破っていく方法のひとつが瞑想ですよね。

しかし、この瞑想というのもひとくせもふたくせもあるなあと思います。

 

というか、ほかの例にたがわず瞑想それ自体ではなく、そのとらえかた、まあ結局はエゴ、ということになるのですが、

こんなに多くの解釈や意味づけされるものもめずらしいのではないかというくらい、一家言もったひとがたくさんいると思うんです。

 

エゴにはまらないためにやってる(あえてこう言ってます)はずが、まんまとエゴにはまってしまうという、

文字通りミイラとりがミイラに、のもっともわかりやすい例なんじゃないですかね。

 

 

とはいえ、ここでは掟をみつける、エゴにはまらないうんぬん言ってますが、

実際のところ、ほんとにたくさんの瞑想の方法があって、解釈が多く生まれるのもまた当然のことだとも思います。

 

 

たとえば、「こころを落ち着かせるための瞑想」を行っているひとに「瞑想とはなんですか?」と聞けば、

文字通り「こころを落ち着かせるもの」または「リラックス」とかえってくるかもだし、

 

「呼吸を主体とした瞑想」を行っているひとであれば「呼吸を整えることによって起こってくる細胞、脳内分泌物のはたらきにより〜」みたいなこたえがかえってくるかもしれない。

 

つまり、ある目的を解釈をもって行っているとすれば、それぞれの認識や思いがこたえとしてかえってくるわけで、

どれも正解ではあるけれど、どれも瞑想そのものをさしはせず明らかにはしないと。

(と書いていて、やっぱり時間なんだなあと思いました)

 

 

覚醒したひとに「瞑想とはなんですか」ときくと、たいていは「瞑想はするものではない、起こるもの」というのが定番(あえて)だと思います。

つまり、行為者というものがいない、と。何かを得るためにするものではない、得るなにもなく、得ようとする誰もいない、と。

 

 

ほんとにそれを行うひとによって、かえってくるこたえはちがう。

 

 

わたしがものごとを決めつけられることに対して不快になるひとつの理由は、ここにあるんですよねえ、だって、ほんとに視点がちがえば体験も変わってくる。

もっといえば、体調がいいときとよくないときで感覚や考えがちがったり、変わることだってある。

 

そのくらい、いろんなことってゆらいでるんじゃないのかしら。

変わらないものなんて何もない。というか、固定されているものがない。

そのなかで、けして変わることのないそれ…はまた別として、、

 

 

「これとはこういうものだ」と決めつけてしまうと、ほかに感じることや見え隠れしているものがそこで切り捨てられてしまう、

ほんとはもっともっとすごかったり素敵だったり、あるいはいらなかったものを見過ごしてしまうかもしれない、

 

つまり、それ自体を媒介とした自分自身の可能性を限定してしまい、もっと動きひろがっていくかもしれない何かの動きを、

まるで自分がすべて掌握しているかのような錯覚にさえおちいってしまったり、、というのが、

たとえば瞑想でいえば精神世界関連かもしれないけれど、

そこに限らず、あらゆるところでみられることのような気がします(自分も気をつけないとです、ほんとに)。

 

 

で、瞑想のことを考えてたら、ああこれ、カレーもそんな感じかも、とふと思いました。

 

家庭の数だけカレーがある、と誰かが言ってたかもしれませんが、いやひとの数だけあるのかもしれない。

 

なかでも、カレーに対するものすごい情熱、そして自分を語るみたいなタイプのひとのカレーって、実際のところ食べる前からおなかいっぱい、になってしまったりもして、

なんか、カレー自体よりも、努力とか知識とか探究心とか成果とか、そのひと自身の思いを食べさせられるような気がしてしまって、

わたしはただのカレーが食べたいんだ! 好きに食べさせてくれカレーを! ただおいしいカレーを!

とこころのなかでスプーンを振り上げ、叫ぶばかりです。

 

 

ひとが望んでること、ほんとに体験したいことって、解釈でも概念でも掲げた目的でさえなくて、

たぶん、もっともっとシンプルで、たいへん原初的なことなんじゃないかなとおもいます。

 

いくらこうだから、と思っても、

ほんとのことなんて、誰にもわからないんだもの。

 

 

とはいえ、「ほんとのことは誰にもわからないんだから決めつけてはいけない」もまた「掟」になってしまうんですよねえ。

 

結局のところ、それもまた「正しさ」の罠なのだなあ。

 

って、またネバーエンディングじゃん。

 

となると、やっぱり、非、、、、

 

 

というわけでまた(笑)。

 

 

**********

 

あ、ちょっとお知らせです〜。

以前やっていた「チャクラのバランスを整えるキャペーン」

リクエストがありましたので再開します。

ストックがなくなったら終了なので、とりあえず6月のなかばくらいまでにします

(セッションでもつかったりするので、早めに終わるかもです)。

 

興味がありましたら、ためしてくださいませー。

 

http://ananya.jugem.jp/?eid=384

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| text | 15:15 | comments(0) | - |
掟。白紙。

 

たとえば「人付き合いは、」という言葉。

そのあとに続くのは、

 

「楽しい」

「つかれる」

「楽しいときもあるけど、つかれるときもある」

「苦手」

「相手によってちがう」

 

等々、いろいろだと思うのですが、

これらはそれぞれがなんらかの経験によって感じたこと、導き出されたいまの結論、みたいなもので、

このなかに正解があるわけではないし、どれかに自分を寄せてく必要もなく、

けれど、たとえばポジティブにとらえる、あるいはそうなりたい、と思っているなら、「そのためにはどうしたらいいか」と考えると思うんですよね。

 

って、書いていて、なんか自己啓発っぽいなーと、ひとが言ったり書いてるのは全然いいんだけど、自分がそんなふうに述べることにはものっすごい居心地のわるさを感じます。何言ってやがんだ自分、て感じ。

 

というのが、ANANYAの感覚なんですけど、

ひとつはこの書き方なんだよね、なんかこう、いいこと、大事なこと言いますよ的な感じがもうすごい自分に嫌悪&恥、なんですねえ、ひとはいいんですほんとにひとは(この「恥」の感覚というのも曲者だとおもいます、それはまた機会が訪れたときに)。

 

で、だいたいここで書くのをやめるのね、いままでもそう。

 

なんか、教えてあげます、みたいな感じがするんですよね、それがすごい嫌で、セッションはそういうことを言ったりする場、時間、で、自分はそういう役、という前提があるのでそのまま伝えることができるんですけど、

普段の雑談とか、友だち同士の会話のなかでそれが起こってくると、途中からものっすごい自己嫌悪がおそってくるんですね、むかしっから。自分何様よ? って思ってしまって。

 

 

気づいたことをシェアしたいということと、書いてるうちにさらに自分で気づくことがあったり、全然ちがうところへ向かっていったりと、そこが書くことの面白さだったりして、とはいえこれらもストーリーで、、と書いていくと、二元と非二元との混在に混乱して、、というのが陥りやすいところなのかもで(少なくとも自分は)、そういうのも書くのをやめてしまう理由で、もっといえば、自分の場合は人付き合いの困難さにもつながってますね。

 

 

話を戻しますが(これもきのうの、どんどこ思考を拾ってつなげて最終的に別次元にたどりついたか? くらいの展開になったりするのとおんなじ。結局、なぜそうなっていくのかのひとつの理由は、「変えたい」ということなんだろうな、それが「じゃあどうすれば?」になる、つまりそれがいわゆる「いまの否定」というものなんですな、だから「受け容れろ」と。って、仕組みはわかってるつもりでも、こまかくみてくとこんなふうにひっかかる場面がいっぱいあるんですよねー、で、間の説明ぶっ飛ばしてみえてくるのは「わたしは完璧でなければならない、完全に理解し血肉になってからでないとそういったことを言うべきではない」という「掟」があることに気づいたりするわけです。これも、単に浮かんでは消えてくだけの思考のひとつを採用してるだけ、なのにそこからはじまるストーリーはほんと無数の展開をはらんでますよねーほんとすごいな人間!&自分、まだまだ自分へのゆるしが足りないんだわね、きびしーッ)、

 

 

って、もう話戻さなくていいよね。

なんかみえてきました自分また。

 

 

でもこれで終わりじゃないのよ、その「掟」をさてどうするか、とネクストがあって、

ここでセラピーとかカウンセリングとかヒーリングとか、病院でもいいけどさ、その「掟」がつくられたことで発生した苦しみ、生きる困難さにアプローチすると、それが、その先の展開についていけないストーリーを解除していく、みたいな感じですかね、

 

つまり、話を最初に戻す、というよりも、何も書かれていない状態、白紙に戻すんだと。

 

一連の癒しや治療(からだの健康ももちろん)の仕組み、ってそれなんですな。

 

しかし、この自分ではどうにも破れそうにない掟、それだって思考のすんごいやつなんだしストーリーなんだから、どうにかしなくてもいいんじゃないの? むしろ、したらだめなんじゃないの? といえば、まったくもってその通りで、

そこでぶった切って、まさにいままで書いてきた原稿を丸めてファック&バイ、永遠に!(って、別にそんなの言わなくていいんだけども、これもいわゆるアファメーションだったりして) とゴミ箱に入れれば終了です、終わり、

というか最初っから頭のなかにしかないから。

 

ところが厄介なのが、その掟を守るにいたる理由、いやだ苦しいと思ってはいるのに持ち続けてしまう、いわゆる手放せない理由、というものがあったりする。

 

あるいは白紙にしたつもりだけどほんとにそうなってるのかどうかわからない、という新たな不安や、

捨てた、白紙にした、と言いつつ、単に蓋をして置き場所を変えてるだけだったりとか(見ないふりとか抑圧とか)。

そんなふうに思わせるものがいわゆるエゴですな。

 

それをほんとに白紙に戻すお手伝いをするのが、セラピスト等の仕事なんだとおもいます。

で、それに対してどんな視点で、どんな方法をとるかによって、役割と名称が異なる、と。

 

 

完璧になるまで言っちゃいけない、という掟がないと、自由ですな。

間違える自分をゆるす。

 

すんません、勝手に書いてるだけなのに、ちょっとらくになってしまいました(笑)。

けど、もうちょっと探ります。

 

 

とりあえず自分、やっぱりフリースタイルが好きだ。

 

 

というわけで、また。

今日もいい感じで〜

 

 

 

 

 

 

 

| text | 12:39 | comments(0) | - |
弱さ、強さ、測定装置、つまりは比較、ストーリー

 

何かあったりすると、よく「こころの弱さ/強さ」という見えない測定装置みたいなものが登場するじゃないですか。

それは自分/あなたのこころが弱いからだめなんだ、

もっと自分/あなたは強くならなくては、という具合に。

 

で、そのために、どうしたらいいかと考える、探す。

何かの本を読んだり、セラピーやセミナーに出かけたり、旅に出るひともいるだろうし、運動をはじめるひともいる。

その方法って、たぶん、無限にあると思うんです。

 

まだ強くなってない、と感じる限り、

だからもっと、と探し続ける限り、

それにともなって、新しい何かもみつかり続けると思うんです、たぶん。

 

だけど、そもそも、その弱さ強さをはかる装置って、ほんとは存在しないんですよね、

目に見えてさわって、その数値や硬度、強度を確認することができない。

 

もともと頭、思考のなかにしか存在してないので、

ほんとは弱くもなければ強くしたりもできない。

なんらかの感覚を、弱い/強い、という概念として、

もっとくだけていえば、そういうふうに呼ぼう、

ということにして採用しているだけ。

 

弱いこころもないし、強いこころもない。

だからほんとは、弱くも強くもなれない。

 

だって、もともとそんなものがないんだもの。

 

 

苦しさ、不快感、不安、という、何か自分にとってここちよくない体感が起こると、

それをなくしたい、という思考が発生して、

それをなくすためにはどうしたら、

あるいは、なぜ苦しいのだろう、という思考が発生して、

次、また次、と、そのときに選んだ(しっくりときた)思考によって、

「ここちよさを求めて」みたいなタイトルのストーリーがどんどん展開される。

 

「ここちよくない」を「ここちよい」に変えるために、あるいは「常にここちよくあり続ける」ために奔走する。

 

もしかしたら、ひとのすべての行動、営みって、

それが目的になってるのかもしれないですね。

 

で、そのバロメーターのひとつが「弱いこころと強いこころ」。

ほかには「満足/幸福指数」といったところでしょうか。

 

 

ほんとは存在しないものだから、とりあえずのゴールを決めたりすると、

そのときのなんらかのバロメーターが機能して「第1章<完>」となる。

で、最後にいちおう確認しておこうか、と「まとめ」とか「チェックリスト」の項目をつくったり。

 

 

と、新たな思考が出てくるたびにストーリーが紡がれてゆくので、

このテキストもどんどん長くなっていくわけですな(笑)。

 

 

で、まさにネバーエンディングストーリーなので、

ここでの本題に戻ってみると(まとめ)、

 

弱いこころも強い自分も、頭のなかにしか存在しない、

つまり、それ自体がない。

 

と、あらゆる場面でさんざん語られ続けていることを書いてみました。

いまさら自分が、、と思っても、あらためて気づくと、書いてしまうのよね(ゆるせ!)。

 

 

なんというか、何周かして、非二元のほうに戻ってきたせいか、

自分がほんとうにおそれていたものが何か、みえてきた気がしてます。

どんなにひどい体験でも、自覚できてるものはダミーで、

ほんとのトラウマと呼ばれるものって、自分では気づかない、その下にかくれているそうですが、

たしかにそうなのかも、と思います。

 

人間って、ほんとにすごいねー。

 

 

というわけで、とりあえず、

「弱いこころも強いこころもないんだから、ある、と思っちゃだめ」

につづく新しいストーリーに気をつけつつ。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| text | 15:25 | comments(0) | - |
ほんとの近所(?)の風景について

 

先日、ほんとは近所じゃない風景のことを書いたあと、じゃあほんとに近所の風景ってどんなだっけ、と思い、写真に撮ってみました。

 

といってもわざわざ撮りに、ではなくて、毎日のように通る場所なので、買い物帰りに「そうだ!」と思い出して撮ってみた、という感じなんですけども、最近ぐっとここちよさがましている気候のせいもあり、は〜やっぱり気持ちいいな〜という、そのまんまの感想で、ふんわりした気分のまま帰ってきてしまいました。

 

実は、じゃあほんとの近所の風景についてはどうなの? というのを書いてみよう、という目論見があったんですよね、近所って結局、物理的な距離のことよね、それっていわゆる時間のことよね、とか、この間別のことで思っていたアインシュタインのこともつながりそうだよな、とか、で、「ほんとに風景そのものをみて感じること」と「メタファーとしてみる」というのをやってみたらなんか出てきそうじゃね? と思ってたんですけど、ほかに考えていることもあって、最近離れていた非二元のことに戻ってみたりして、

結果的にひさびさにちゃんと時間をとって瞑想っぽいメソッドをやってみたのですが、

 

 

たとえばどんな苦しみもつらさも、やっぱり全部過去(時間を採用するならば)で、すべては記憶、結局のところ、ストーリーなんですよね、もちろん、こころ(これもいろんなとらえかたがありますが)、そしてからだも感情、痛みのようなものを感じている。

胸やおなかにある違和感、もやもやとしたもの、それだけでなくはっきりとしたいたみ、何かをずっと背負い続けているかのような肩の重さ、ことあるごとに起こる頭痛、腰や背中にも何かの感覚があるかもしれないし、そうした体感、そして言葉にできるものもできないものも、それらが過去の記憶、ストーリーから起こっていることであっても、いまそれを感じているのはもちろん事実、でも、、、

 

たとえば、どこからともなく起こってくる思考、感情、体感も含めて、それは自分本体ではなくて、ただ自分、という“場”にあらわれては消えてゆくものですよね、「この苦しみ」に対して「これをどうにかしなくては」という新たな思考、それが担い手となって<「この苦しみ」を「どうにかする」>というストーリーが展開されていく。

次は「ではどうしたらこの苦しみはなくなるのか」が担い、次の思考、また次の思考と連なって、物語が紡がれていく。

 

ストーリーを展開させず、ひとつひとつの断片を、つかまえず、つかまらず、シークエンスにさえしてしまわずに、ただ発生して消えてゆくのを見送るだけ、ほんとにこれだけのことなのだと、もっといえば、見送ることさえしなくてもいい、それこそ“時間”がたてば泡のようにして消えてしまうから。

 

いや、消える、というのともちょっとちがう、なんというか、そういったものはすべて別の空間(あえて)とか次元(あえて)にあるもの、という感覚にいまは近いです。自分本体ではないもの、という意味で(これもちょっとちがうかなーでもそんな感じ)。

 

自分という場(あえて)には、やっぱりなんにもなくて、静かで、おだやかで、けれどもあらゆるものが発生しては消えていく(って書くしかないんだけども、というか点滅とか、浮き上がってくるとか、流れていく、みたいな感じかも)、とにかく言葉ではとらえきれないし、とらえようとすればするほど離れてしまうんですねえ、それでいてありきたりの言葉をはめるしかないというもどかしさ、それがさらに遠ざけてしまうような。。

 

 

まだわたしとわたし以外、で分離しているし、ときに起こる一体の感覚(あえて)はあっても、「これをどうしたら?」という思考、このストーリーに限らず発生し続けるんだと思うのですが、

 

なんでしょうねえ、

思考がどういおうと、何かを紡ごうとも、

何かが起こり続けるだけなのですが、

 

 

と書いて、昨夜は寝たんです。

で、起きたらとりあえずいまのこたえっぽいものが出てました。

 

で、今日はこれからロスでのクラスメイトと勉強&シェア会なので、

まあ考えずに、起こるにまかせてみてみます(っていう表現もなんかなー、って思うそれもエゴ/思考、ほんっとめんどくせえ、、)。

 

 

というわけで、画像は、うちの近所です。

先約がなければこのベンチで本読んだりぼっさりします。

 

そして、上に書いた「ほんとに風景そのものをみて感じること」と「メタファーとしての近所の風景をみる」は、

やってみるとなんか出てくるかもなので、

興味があったらやってみてくださいませ。

 

 

ではまた。

いい感じの1日を〜☆

 

 

 

 

 

 

 

| text | 12:21 | comments(0) | - |
“近所の風景”について

 

急な調べものや、届くのを待てない本があるときに、たいへん助かる本屋さんがあります。

 

自転車でだいたい20分くらい、目の前には海をみながら散歩したりすわったりできるところがあるので、帰りに下のお店でコーヒーを買って、本を読んだりぼっさりしたりします。

 

先日も本を買ったあと、そこでちょっと書きものをしていると、「すいません、話しかけてもいいですか?」と、わたしの父よりすこし若いくらいの紳士に声をかけられ、「この風景についてどう思いますか、どんなことを感じますか?」と聞かれました。

 

普段から、なぜかどこの街でも国でも見知らぬひとからほんとによく声をかけられます。

いきなり相談されたり、お菓子をもらったり、道を尋ねられるのはしょっちゅうだし(特技・逆走、というくらい方向音痴なのに)、電車のなかで突然手をにぎられて「あなたは幸せになる」と言われたり、横断歩道ですれちがいざまに、女のひとから頬にちゅっ、とされたこともあります。

 

自転車に乗っているときは、こどもからよくレースを仕掛けられるので、最初は負けてあげて、相手が満足している隙に思い切り抜かしてやります。

 

そういえばロスでは、わたしをみつけると、遠くからでも必ず声をかけてくれる黒人のホームレスのひとがいて、「りんご食べるかー?」とか「元気かー?」とか言われましたね、何かつらそうに見えたのかな。。

 

 

それはさておき、その紳士、近々ある冊子に寄稿することになったのだがお題が「近所の風景について」で、自分以外のひとは、この風景をどうとらえているのか知りたいとのこと。

 

残念ながら自転車で20分なので近所とはいえないです、と申し上げると、それでも構わないので、この景色について聞かせてほしいとのことで、感じていることを伝えようとしたのですが、あらためて聞かれると、なかなかぴし、っとくる具体的な言葉が出てこないんですよねえ。

 

実際、本屋さんに用がなくても、ときどきだけど、あえてそこを目指してぼっさりしに来たりおやつ食べたりしているくらいだから、もちろんここちよさを感じているのですが、なんか、こうだから、と、自分も誰かも「なるほどー」と納得できるような、はっきりした理由とか、考えたことがなかったな、と。

 

 

感覚って、ほんとは言葉にできないものだし、する必要があるとすれば、「伝える」という行為が発生するときくらいかもね、と思います。

 

それと同じで、自分が普段感じているすべてのことって、意識していないと、すべてあたりまえのものとして、気にもとめないし、自覚すらしようとしないよね、って。

 

 

たとえば、いま、新しくはじめようとしていることのモニタリングをさせてもらっているんですけど、何か改善したいことがあればテーマをもってきてください、と伝えても、特に思いつかない、とほとんどのひとがおっしゃいます。

 

でも、いろいろ言葉をかえて聞いてみると、そこではじめて、それが自分にとって結構大きなストレスになってる、と気づく。

ストレスだけじゃなく、楽しいとかうれしいとか、こう思ってたんだよね、と感じていることも。

 

 

そういえば、メディスンカードのなかに、

「毎日見ている風景のなかに、見過ごしていることがあるのでは?」

というメッセージがあります。

 

 

あの本屋さんの前の海がみえる場所は、たしかに毎日ではないけれども、なぜわざわざあそこへ行くのか、もっといえば、近所ではないのに行く理由ってなんだろうか、

 

と、自分の感じていることをちゃんと調べてみると、おお、と思ったり、みえてこなかったことがみえたりしますよね。

 

 

って、それこそ、すんごいあたりまえのことを、ひさびさに、ていねいに書いてみました。

 

 

でも、あたりまえに、自分もそのなかの風景に同化してしまっていると、ほんとにたくさんのことを見過ごしてしまうよねー。

 

 

というわけで、とりあえず結構片づけてはいる自分の部屋を、別の視点からあらためて眺めてみようと思いました。

 

 

画像は、紳士に「どう感じているのか」と問われた風景です。

 

ではまた〜☆

 

 


 

 

 

 

 

 

 

| text | 18:18 | comments(0) | - |
そこそこ激動。

 

ひさびさにブログのトップをみたら、「一定期間更新がないため広告を表示しています」になっていて、自分のブログでそれが起こるとは思ってもみなかったので、

 

と書いてはみたものの、これといった思いも湧いては来ず、とにかくロサンゼルスから戻ってきて以来、というか諸々全然続いていて、そこそこ激動な感じの毎日です。

 

とりあえず学んだことを消化しながら、黙々と自己調整をしつつ、クラスの仲間とシェアし合ったり、関連のセミナーで新しいことを学んだり、部屋の片づけをしたり(これはまだ続行中)、いままで手をつけていなかったことをせっせとやりはじめたり等々、次の準備をしている感じです。

 

って書いてみると淡々としているようにもみえますけど、特にここ数日は激動だったのです。

 

で、なんでひさびさにブログを書こうと思ったのかな、と思いふと調べてみると、

水星が順行に戻ったようで、

やっぱり星の動きは面白いなと思ったり、

そろそろ動きますかな、という気持ちになってきたみたいです。

 

って、なんか、わざわざ書かんで頭のなかでしゃべってろ感満載な文面ですな、すんません。。

 

 

そうね、たぶん、激動がひと段落したのかも、

で、なんかぼんやりしたいのかも、

 

 

って、ほんとに完全にひとりごとですな。

 

 

と、特になんの気づきも誘発できそうにもなくお知らせもなくタイトルにもまったく関連のない内容のまま今日は終わりたいとおもいます。

 

 

とはいえ、これではあまりにも、、なので、ロスのスーパーマーケットでみかけた「チアシードのプリン」のレシピ写真を置いていきます。

いちおうベジ向けな感じですが、牛乳つかってもいいんじゃないかな。

簡単っぽいので、興味のある方、つくってみてくださいませ。

 

 

そんな感じで、また。

そのうちなにかお知らせできるとおもいます。

 

 

素敵な連休を☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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