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ここのところ毎日、仕事以外の時間はずっと部屋の整理をしていて、とりあえずこれが収束するまでほかのことはできないというか止まらない、堰を切ったようにといいますがそんな感じかも、そのくらい仕事のきりがついたらもう延々とやってる、いやむしろ整理の合間に仕事してるといってもいい、というくらいの勢いなんですけども、こう書くとなんかすごい集中力あるっぽくみえたりするのかもですが、結局のところ時間をはじめあらゆる配分とか割合とか適度適量といったものがよくわかってないだけなのだと実感します、その出てくるいろんなものを眺めてみるととてもよくわかる。
ときどきめちゃめちゃいそがし〜、となるのも、まあほんとにそういうときもあるんですけど、それにしてもやっぱり配分もっとできるはずなんだよね、絶対。
とはいえ、こうしたことも、とどのつまりはなんらかの要因があって、たとえば部屋の片づけが極端にできないというご相談もよくありますけども、その他もろもろの計画が立てられないとかなぜか一歩踏み出せない、先延ばしにしたいわけじゃなくてもなってしまうといった、「わかってるしやりたいんだけれどもできない」って、そうなる理由というのがあるんですよね、だからどれだけ言われようと自分を責めようとも、できないもんはできないんだと。
なんてことも、整理しながら気づくこと多々で、よく部屋と頭のなかはいっしょといいますけど、ほんとだね(半笑い)という感じであります。
さらに自分、「最近また大々的な片づけを〜」って結構な割合で言ってる気がするんですけど、いままでのそれは目に見える部分をこう、ブルでざっくり掘ってかっさらってく感じ、あるいはもう廃棄は決まってるけど実際に動かせてなかったものを集めてグッバイする感じだったのが、今回は完全に重箱の隅をつつく感じ、素敵な見出し的に言えば、「隠れていた部分に光を当てる!」がテーマなのです!
だから時間がかかってるんですな、ある意味発掘したものに付着した泥をハケで落としてく作業にも近く、結構しんどい。
で、重箱を開きその隅に近づくたびに、気づきはもちろんのこと、面白かったのが、腰を据えて整理をはじめてから2、3日、やたらと怒りが出てきたんですよね。
最初にカセットテープの整理をはじめたんですけど、そのテープにまつわる記憶をいろいろ思い出したりというのはまああるじゃないですか、でもそれとはとりあえず直結はしていないことで思い出したできごととか、つい最近のことに対してとか、その対象は無作為なんですけど結構強い怒りが出てきて、そんなときはそこから離れて自分をみるわけですが、なんか自分すごい怒ってるなあと、実はいろいろがまんしてたんだなあと。
できごとそれ自体、というよりも、感情のつながりから呼び起こされる記憶、みたいな感じで、いろいろ出てくるんですね。
ものを動かすって、ほんとに物理的にエネルギーを動かすことなんですよね、それにともなって、当然だけれどもその周囲のエネルギーも動く、変わる。
特にずっと動かしてないものって、やっぱり理由があるし、それはさまざまですけど、動かすにはそれだけパワーが必要な気がして、ますます動きを止めるべく先送りにしたりする。
よく自分を変えたい、変わりたいというじゃないですか、でもそうしないのって、背後にはいろんな理由があって、変化に対する抵抗が起こってる、現状のままはいやだしわかってるんだけど、動けない、動かせない、といった状態が続く、続いてく、というよりも、実は自分が続けてる。
と、長くなってきたので、その理由、たとえば自分の場合のとあるケース、みたいなことを次回書きます、絶対書きます! 書きますなるべく近日に!
というわけで、とりあえずまた☆
きのうの補足的にすこし。
まず玄米のこと。
わたしの場合は、どのくらい食べていたかはもうずいぶん前のことなのであんまり覚えてないですが、少なくとも半年は日々食べ続けてのやっぱりNG、でした。
で、そのあとのテキストで、「食べておなかこわしたら〜」「肌にぶつぶつが出たら〜」と書きましたが、これは玄米を食べて、といってるわけではなくて、何かを食べたときに、もっというと誰かがいいと言っていたから、のような“知識”や“頭”で選んで食べてもからだが……だったら、ということです。
でも、たとえば、それこそ玄米とかそうだと思いますけど、からだの毒素が排出される過程というもの、いわゆる好転反応とかめんげんとか浄化と呼ばれる現象が、おなかこわすとかぶつぶつが出るというかたちで起こることはありますよね。
で、やがて落ち着いて健康の循環、リズムができてくるという流れが起こるひともいる、ケースもある。
とはいえ、実際ほんとにそうした反応なのかどうかも、からだをよくみて感じていたら、やっぱりわかると思うんですよ。
それからもうひとつ、補足的に書いておきたいなと思ったことが、「動物を食べるかどうか問題」。
きのうもすこし書きましたけど、肉は食べないけど魚は食べる、それから、四つ足は食べないけど二本足は食べる。
実はこれ、実際に質問をされて、なんで足の数で食べるか食べないかを決めるんだろう、と不思議だったんです。
で、その方がなぜそうされてるのかは聞かなかったのですが、ちょっと気になったので、この四つ足は食べないということについてあとで調べてみたところ、諸説あるみたいで、代表的なところでは、人間との感情的な理解ということのようなのですが、うーん鶏も結構伝わり合うぜ? と思うんですよ。魚もそうだと思うし。
さらに、この動物食べるかどうか問題で必ず出てくる、じゃあ植物はどうなのか問題。
植物も、話しかけるとぐんぐん成長したりするし、意識や感情的な反応についての実験証明とかありますもんね。
いや揚げ足をとりたいわけではないんです、実際この問題、議論するとかほんと不毛だと思うし、
結局、相反する主張が出てくるというのは、そもそもこれって脳、頭から判断される概念、観念、価値観、つまり人間ならではの見解、選択なんですよね。まさに二元性。
実際の動物をみてみたらわかるけども、動物はかまわず襲うし血したたらせて食うよね相手を。
あんなにかわいいねこちゃんだって、ねずみややもりをすごいいたぶるじゃん、以前住んでいた家で同居してたねこちゃんなんてもうしょっちゅうでしたよ、そのたびに「なんでそんなことすんのやめなよ!」「にゃー!」みたいなやりとりがありましたよね。
とにかくそれを残酷とみるのは人間だからだし、もちろん、だから残酷と思ってはいけないとかそういうんじゃないですよ、というかそういう発想がそもそも頭の話で、つまり考えとか論をかぶせてきたら、同調だろうが相対だろうが頭だしもっといったらエゴ/マインドなんですよ、で、それが人間。
でも、動物同士でも、犬とねこちゃんがすごいなかよしとか、鳥とねこちゃんがすごいなかよしとか、全然別の生きものが育てるとかたくさんあるじゃないですか、それって、もともと備わってる本能、あいつは敵、というそのもっと奥にあるものですよね。
結局われわれ人間、備わった脳の機能、マインド、感情、それがあるからこそのあれこれであり、
知識とか頭でどうこうした判断をとっぱらったら、動物食べないというのも、根底には全生命の交差するエリアにある何か、だと思うんです。
そしてそこには“反”も“禁”もないんですよ。“対”がない。
それは考えた何か、ではないから。
というわけで、また〜!
先日、友だちのお店に行った帰りに、ふと思いついて、そこから近いオーガニック商品のお店に寄って、食べものの本をみたりしてたんですけども、置いてあるのは当然マクロビとか、自然療法としての食事についてのものじゃないですか、で、ここ数ヶ月(といっても、まだ3ヶ月くらいか、、と思うとやっぱり時間の感覚って雰囲気ですな)の自分の食生活はその対極といってもいいあり方で、とはいえ、目指してるのはどちらも「健康」であって、結局のところすごいざっくり言ったらそのちがいはルートなんですよね、その背景の考察にしたがって導き出されたルート、といったほうがいいですかね。
またこまかく書くと長くなる&ややこしくなるんでいろいろすっ飛ばして結論にいっちゃいますが、
というかわたしの出した結論ですよ、
とりあえず、全人類すべてに合うやり方はない、すんごい煮詰めてったら最大公約数の図のあのまんなかのエリアが肉眼でみえるのかな? くらいのなんかがあるのかもしれないけど、いやむしろ、論としての「すべてに合うやり方はない」がそこに入るのかも? って、またややこしくなってきたね(笑)、とりあえず、瞬間的、期間的にそれはあるかもしれないけど(おお、“時間”が出てきましたね)、普遍的にはないんじゃないかと思うんですよ。
そのお店にはマクロビ、自然療法食以外に、ネイティブアメリカンの教え的なとこから書かれた食についてのお話がのってる本があって、そういえば自分もネイティブ〜のごはん本持ってたじゃん! とうちに帰ってひさびさにみてみたら、基本穀物、肉、豆なわけですよ。
で、ほかに健康としての食を挙げるならアーユルヴェーダの食事法とかすごいじゃないですか、前に書いたかどうかわからないけれども、ホットオレンジジュースにブラックペッパーとか、ホットミルクにギーたっぷりとか、では薬膳はどうかといったら枸杞だのナツメだの緑豆だのよくみつけたね! というメンバーにくわえて、風邪のときには鶏肉とかさ、もう世界の食事の全ジャンルを一同に会したら、なんかもうすごいメンツが勢ぞろいなわけですよ、土とか虫もエントリーされるしさ、どうなのよもう。
なんでこんなこと考えてるかというと、ひとつはやっぱり、自分に合うものってなんだろうというごく日常の生活のことが発端ですが、リーディングやフラワーエッセンスのご相談のなかで、食べものや食べ方に関する話が結構出てくるんです。
たとえば完全なヴィーガンの方、ベジの方、ローの方、玄米食の方、肉を食べる方、肉は食べないけど魚は食べる方、このあたりがジャンル分けとして代表的なところかと思うんですが、もっとこまかくいくと四つ足の肉は食べない、五葷は食べない、乳製品をとらない、でもこれはヴィーガン的な問題ではなく成分の話だったり、もっともっとあるよね、とにかくいろいろなわけですよ。
で、わたしは玄米がからだに合わないんですね、好き嫌い抜きに、ダイレクトにからだにくるのでだめなんです。
これは、マクロビもされてる整体の先生に実際に相談もして、たしかに合わないのでやめたほうがいいとのことで、それ以来、自然食系のお店に行ったときとかは食べますけど、家では食べない。
その話をすると、玄米食の方で、じゃあ自分もやめたほうがいいのか、と不安そうに質問される方がときどきいるんですね。
で、「でも自分は好きだから」とか、「でも自分には合ってるんです」とか、いやいやだったらそれでいいじゃないかと。あなたは好き、あなたは合う、わたしは合わない、って、それぞれ自分の話をしてるだけであり、無理してどちらかに合わせる必要ってあるの? と。それ、からだじゃなくって頭の話だよねと。
もっというと、自分のことでさえなくなってしまうよねと。
これって、食べもののことだけじゃないですよね。
そして、好き嫌い、合う合わないからも離れて、頭のなかの“正しさ”ではかってたりする。
からだを基準に考えると、善とか悪とか正とか誤とかなんの意味ももたなくなる。
というか、なかったことに気づく。
誰がなんといおうとそれ食っておなかこわしたら正も義もなくアウトじゃん。
肌にぶつぶつがあのひとには出なくても自分に出たらそれは自分のなかでなんか起こってるんだよ。
それ、食べものじゃなくても全部そうですよね。
でしょ?
わたしは海外に行くと、すごいらくなんです。
お通じがさらによくなるし、カンとかもどんどん冴えてく感じ。
それはなぜだろう、と思ったら、
自分とひとはちがうということがとてもはっきりしてるからなんだなと。
ちがってて当然であたりまえで、それで全然OKなんだと。
想像してみたらさあ、最大公約数の図、数学で習ったポピュラーな例ではAとBという二つの楕円であらわされてますけど、
全人類の人数分の楕円が交差するエリアだよ? どうなのよ、どんくらいなのよ???
とはいえ、
食事の方法や食べものにどのくらいの公約があるのかは別として、
物質というものに限定せずに全人類の楕円を交差させてできるまんなかのエリア、
そこに入るのは、いったいどんなものなんだろう。
って想いを馳せてみたりすると、ちょっと楽しくなりますな(笑)。
というわけで、9月に入りましたけど、
今月は自分のいちばん好きな月なので、
なんか楽しいことがたくさんあるといいなと思いつつ、
いい感じの今月で☆
ではまた〜〜〜。