texted a ANANYA

メディスンカード・リーディング
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掟。白紙。

 

たとえば「人付き合いは、」という言葉。

そのあとに続くのは、

 

「楽しい」

「つかれる」

「楽しいときもあるけど、つかれるときもある」

「苦手」

「相手によってちがう」

 

等々、いろいろだと思うのですが、

これらはそれぞれがなんらかの経験によって感じたこと、導き出されたいまの結論、みたいなもので、

このなかに正解があるわけではないし、どれかに自分を寄せてく必要もなく、

けれど、たとえばポジティブにとらえる、あるいはそうなりたい、と思っているなら、「そのためにはどうしたらいいか」と考えると思うんですよね。

 

って、書いていて、なんか自己啓発っぽいなーと、ひとが言ったり書いてるのは全然いいんだけど、自分がそんなふうに述べることにはものっすごい居心地のわるさを感じます。何言ってやがんだ自分、て感じ。

 

というのが、ANANYAの感覚なんですけど、

ひとつはこの書き方なんだよね、なんかこう、いいこと、大事なこと言いますよ的な感じがもうすごい自分に嫌悪&恥、なんですねえ、ひとはいいんですほんとにひとは(この「恥」の感覚というのも曲者だとおもいます、それはまた機会が訪れたときに)。

 

で、だいたいここで書くのをやめるのね、いままでもそう。

 

なんか、教えてあげます、みたいな感じがするんですよね、それがすごい嫌で、セッションはそういうことを言ったりする場、時間、で、自分はそういう役、という前提があるのでそのまま伝えることができるんですけど、

普段の雑談とか、友だち同士の会話のなかでそれが起こってくると、途中からものっすごい自己嫌悪がおそってくるんですね、むかしっから。自分何様よ? って思ってしまって。

 

 

気づいたことをシェアしたいということと、書いてるうちにさらに自分で気づくことがあったり、全然ちがうところへ向かっていったりと、そこが書くことの面白さだったりして、とはいえこれらもストーリーで、、と書いていくと、二元と非二元との混在に混乱して、、というのが陥りやすいところなのかもで(少なくとも自分は)、そういうのも書くのをやめてしまう理由で、もっといえば、自分の場合は人付き合いの困難さにもつながってますね。

 

 

話を戻しますが(これもきのうの、どんどこ思考を拾ってつなげて最終的に別次元にたどりついたか? くらいの展開になったりするのとおんなじ。結局、なぜそうなっていくのかのひとつの理由は、「変えたい」ということなんだろうな、それが「じゃあどうすれば?」になる、つまりそれがいわゆる「いまの否定」というものなんですな、だから「受け容れろ」と。って、仕組みはわかってるつもりでも、こまかくみてくとこんなふうにひっかかる場面がいっぱいあるんですよねー、で、間の説明ぶっ飛ばしてみえてくるのは「わたしは完璧でなければならない、完全に理解し血肉になってからでないとそういったことを言うべきではない」という「掟」があることに気づいたりするわけです。これも、単に浮かんでは消えてくだけの思考のひとつを採用してるだけ、なのにそこからはじまるストーリーはほんと無数の展開をはらんでますよねーほんとすごいな人間!&自分、まだまだ自分へのゆるしが足りないんだわね、きびしーッ)、

 

 

って、もう話戻さなくていいよね。

なんかみえてきました自分また。

 

 

でもこれで終わりじゃないのよ、その「掟」をさてどうするか、とネクストがあって、

ここでセラピーとかカウンセリングとかヒーリングとか、病院でもいいけどさ、その「掟」がつくられたことで発生した苦しみ、生きる困難さにアプローチすると、それが、その先の展開についていけないストーリーを解除していく、みたいな感じですかね、

 

つまり、話を最初に戻す、というよりも、何も書かれていない状態、白紙に戻すんだと。

 

一連の癒しや治療(からだの健康ももちろん)の仕組み、ってそれなんですな。

 

しかし、この自分ではどうにも破れそうにない掟、それだって思考のすんごいやつなんだしストーリーなんだから、どうにかしなくてもいいんじゃないの? むしろ、したらだめなんじゃないの? といえば、まったくもってその通りで、

そこでぶった切って、まさにいままで書いてきた原稿を丸めてファック&バイ、永遠に!(って、別にそんなの言わなくていいんだけども、これもいわゆるアファメーションだったりして) とゴミ箱に入れれば終了です、終わり、

というか最初っから頭のなかにしかないから。

 

ところが厄介なのが、その掟を守るにいたる理由、いやだ苦しいと思ってはいるのに持ち続けてしまう、いわゆる手放せない理由、というものがあったりする。

 

あるいは白紙にしたつもりだけどほんとにそうなってるのかどうかわからない、という新たな不安や、

捨てた、白紙にした、と言いつつ、単に蓋をして置き場所を変えてるだけだったりとか(見ないふりとか抑圧とか)。

そんなふうに思わせるものがいわゆるエゴですな。

 

それをほんとに白紙に戻すお手伝いをするのが、セラピスト等の仕事なんだとおもいます。

で、それに対してどんな視点で、どんな方法をとるかによって、役割と名称が異なる、と。

 

 

完璧になるまで言っちゃいけない、という掟がないと、自由ですな。

間違える自分をゆるす。

 

すんません、勝手に書いてるだけなのに、ちょっとらくになってしまいました(笑)。

けど、もうちょっと探ります。

 

 

とりあえず自分、やっぱりフリースタイルが好きだ。

 

 

というわけで、また。

今日もいい感じで〜

 

 

 

 

 

 

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
弱さ、強さ、測定装置、つまりは比較、ストーリー

 

何かあったりすると、よく「こころの弱さ/強さ」という見えない測定装置みたいなものが登場するじゃないですか。

それは自分/あなたのこころが弱いからだめなんだ、

もっと自分/あなたは強くならなくては、という具合に。

 

で、そのために、どうしたらいいかと考える、探す。

何かの本を読んだり、セラピーやセミナーに出かけたり、旅に出るひともいるだろうし、運動をはじめるひともいる。

その方法って、たぶん、無限にあると思うんです。

 

まだ強くなってない、と感じる限り、

だからもっと、と探し続ける限り、

それにともなって、新しい何かもみつかり続けると思うんです、たぶん。

 

だけど、そもそも、その弱さ強さをはかる装置って、ほんとは存在しないんですよね、

目に見えてさわって、その数値や硬度、強度を確認することができない。

 

もともと頭、思考のなかにしか存在してないので、

ほんとは弱くもなければ強くしたりもできない。

なんらかの感覚を、弱い/強い、という概念として、

もっとくだけていえば、そういうふうに呼ぼう、

ということにして採用しているだけ。

 

弱いこころもないし、強いこころもない。

だからほんとは、弱くも強くもなれない。

 

だって、もともとそんなものがないんだもの。

 

 

苦しさ、不快感、不安、という、何か自分にとってここちよくない体感が起こると、

それをなくしたい、という思考が発生して、

それをなくすためにはどうしたら、

あるいは、なぜ苦しいのだろう、という思考が発生して、

次、また次、と、そのときに選んだ(しっくりときた)思考によって、

「ここちよさを求めて」みたいなタイトルのストーリーがどんどん展開される。

 

「ここちよくない」を「ここちよい」に変えるために、あるいは「常にここちよくあり続ける」ために奔走する。

 

もしかしたら、ひとのすべての行動、営みって、

それが目的になってるのかもしれないですね。

 

で、そのバロメーターのひとつが「弱いこころと強いこころ」。

ほかには「満足/幸福指数」といったところでしょうか。

 

 

ほんとは存在しないものだから、とりあえずのゴールを決めたりすると、

そのときのなんらかのバロメーターが機能して「第1章<完>」となる。

で、最後にいちおう確認しておこうか、と「まとめ」とか「チェックリスト」の項目をつくったり。

 

 

と、新たな思考が出てくるたびにストーリーが紡がれてゆくので、

このテキストもどんどん長くなっていくわけですな(笑)。

 

 

で、まさにネバーエンディングストーリーなので、

ここでの本題に戻ってみると(まとめ)、

 

弱いこころも強い自分も、頭のなかにしか存在しない、

つまり、それ自体がない。

 

と、あらゆる場面でさんざん語られ続けていることを書いてみました。

いまさら自分が、、と思っても、あらためて気づくと、書いてしまうのよね(ゆるせ!)。

 

 

なんというか、何周かして、非二元のほうに戻ってきたせいか、

自分がほんとうにおそれていたものが何か、みえてきた気がしてます。

どんなにひどい体験でも、自覚できてるものはダミーで、

ほんとのトラウマと呼ばれるものって、自分では気づかない、その下にかくれているそうですが、

たしかにそうなのかも、と思います。

 

人間って、ほんとにすごいねー。

 

 

というわけで、とりあえず、

「弱いこころも強いこころもないんだから、ある、と思っちゃだめ」

につづく新しいストーリーに気をつけつつ。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ほんとの近所(?)の風景について

 

先日、ほんとは近所じゃない風景のことを書いたあと、じゃあほんとに近所の風景ってどんなだっけ、と思い、写真に撮ってみました。

 

といってもわざわざ撮りに、ではなくて、毎日のように通る場所なので、買い物帰りに「そうだ!」と思い出して撮ってみた、という感じなんですけども、最近ぐっとここちよさがましている気候のせいもあり、は〜やっぱり気持ちいいな〜という、そのまんまの感想で、ふんわりした気分のまま帰ってきてしまいました。

 

実は、じゃあほんとの近所の風景についてはどうなの? というのを書いてみよう、という目論見があったんですよね、近所って結局、物理的な距離のことよね、それっていわゆる時間のことよね、とか、この間別のことで思っていたアインシュタインのこともつながりそうだよな、とか、で、「ほんとに風景そのものをみて感じること」と「メタファーとしてみる」というのをやってみたらなんか出てきそうじゃね? と思ってたんですけど、ほかに考えていることもあって、最近離れていた非二元のことに戻ってみたりして、

結果的にひさびさにちゃんと時間をとって瞑想っぽいメソッドをやってみたのですが、

 

 

たとえばどんな苦しみもつらさも、やっぱり全部過去(時間を採用するならば)で、すべては記憶、結局のところ、ストーリーなんですよね、もちろん、こころ(これもいろんなとらえかたがありますが)、そしてからだも感情、痛みのようなものを感じている。

胸やおなかにある違和感、もやもやとしたもの、それだけでなくはっきりとしたいたみ、何かをずっと背負い続けているかのような肩の重さ、ことあるごとに起こる頭痛、腰や背中にも何かの感覚があるかもしれないし、そうした体感、そして言葉にできるものもできないものも、それらが過去の記憶、ストーリーから起こっていることであっても、いまそれを感じているのはもちろん事実、でも、、、

 

たとえば、どこからともなく起こってくる思考、感情、体感も含めて、それは自分本体ではなくて、ただ自分、という“場”にあらわれては消えてゆくものですよね、「この苦しみ」に対して「これをどうにかしなくては」という新たな思考、それが担い手となって<「この苦しみ」を「どうにかする」>というストーリーが展開されていく。

次は「ではどうしたらこの苦しみはなくなるのか」が担い、次の思考、また次の思考と連なって、物語が紡がれていく。

 

ストーリーを展開させず、ひとつひとつの断片を、つかまえず、つかまらず、シークエンスにさえしてしまわずに、ただ発生して消えてゆくのを見送るだけ、ほんとにこれだけのことなのだと、もっといえば、見送ることさえしなくてもいい、それこそ“時間”がたてば泡のようにして消えてしまうから。

 

いや、消える、というのともちょっとちがう、なんというか、そういったものはすべて別の空間(あえて)とか次元(あえて)にあるもの、という感覚にいまは近いです。自分本体ではないもの、という意味で(これもちょっとちがうかなーでもそんな感じ)。

 

自分という場(あえて)には、やっぱりなんにもなくて、静かで、おだやかで、けれどもあらゆるものが発生しては消えていく(って書くしかないんだけども、というか点滅とか、浮き上がってくるとか、流れていく、みたいな感じかも)、とにかく言葉ではとらえきれないし、とらえようとすればするほど離れてしまうんですねえ、それでいてありきたりの言葉をはめるしかないというもどかしさ、それがさらに遠ざけてしまうような。。

 

 

まだわたしとわたし以外、で分離しているし、ときに起こる一体の感覚(あえて)はあっても、「これをどうしたら?」という思考、このストーリーに限らず発生し続けるんだと思うのですが、

 

なんでしょうねえ、

思考がどういおうと、何かを紡ごうとも、

何かが起こり続けるだけなのですが、

 

 

と書いて、昨夜は寝たんです。

で、起きたらとりあえずいまのこたえっぽいものが出てました。

 

で、今日はこれからロスでのクラスメイトと勉強&シェア会なので、

まあ考えずに、起こるにまかせてみてみます(っていう表現もなんかなー、って思うそれもエゴ/思考、ほんっとめんどくせえ、、)。

 

 

というわけで、画像は、うちの近所です。

先約がなければこのベンチで本読んだりぼっさりします。

 

そして、上に書いた「ほんとに風景そのものをみて感じること」と「メタファーとしての近所の風景をみる」は、

やってみるとなんか出てくるかもなので、

興味があったらやってみてくださいませ。

 

 

ではまた。

いい感じの1日を〜☆

 

 

 

 

 

 

 

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“近所の風景”について

 

急な調べものや、届くのを待てない本があるときに、たいへん助かる本屋さんがあります。

 

自転車でだいたい20分くらい、目の前には海をみながら散歩したりすわったりできるところがあるので、帰りに下のお店でコーヒーを買って、本を読んだりぼっさりしたりします。

 

先日も本を買ったあと、そこでちょっと書きものをしていると、「すいません、話しかけてもいいですか?」と、わたしの父よりすこし若いくらいの紳士に声をかけられ、「この風景についてどう思いますか、どんなことを感じますか?」と聞かれました。

 

普段から、なぜかどこの街でも国でも見知らぬひとからほんとによく声をかけられます。

いきなり相談されたり、お菓子をもらったり、道を尋ねられるのはしょっちゅうだし(特技・逆走、というくらい方向音痴なのに)、電車のなかで突然手をにぎられて「あなたは幸せになる」と言われたり、横断歩道ですれちがいざまに、女のひとから頬にちゅっ、とされたこともあります。

 

自転車に乗っているときは、こどもからよくレースを仕掛けられるので、最初は負けてあげて、相手が満足している隙に思い切り抜かしてやります。

 

そういえばロスでは、わたしをみつけると、遠くからでも必ず声をかけてくれる黒人のホームレスのひとがいて、「りんご食べるかー?」とか「元気かー?」とか言われましたね、何かつらそうに見えたのかな。。

 

 

それはさておき、その紳士、近々ある冊子に寄稿することになったのだがお題が「近所の風景について」で、自分以外のひとは、この風景をどうとらえているのか知りたいとのこと。

 

残念ながら自転車で20分なので近所とはいえないです、と申し上げると、それでも構わないので、この景色について聞かせてほしいとのことで、感じていることを伝えようとしたのですが、あらためて聞かれると、なかなかぴし、っとくる具体的な言葉が出てこないんですよねえ。

 

実際、本屋さんに用がなくても、ときどきだけど、あえてそこを目指してぼっさりしに来たりおやつ食べたりしているくらいだから、もちろんここちよさを感じているのですが、なんか、こうだから、と、自分も誰かも「なるほどー」と納得できるような、はっきりした理由とか、考えたことがなかったな、と。

 

 

感覚って、ほんとは言葉にできないものだし、する必要があるとすれば、「伝える」という行為が発生するときくらいかもね、と思います。

 

それと同じで、自分が普段感じているすべてのことって、意識していないと、すべてあたりまえのものとして、気にもとめないし、自覚すらしようとしないよね、って。

 

 

たとえば、いま、新しくはじめようとしていることのモニタリングをさせてもらっているんですけど、何か改善したいことがあればテーマをもってきてください、と伝えても、特に思いつかない、とほとんどのひとがおっしゃいます。

 

でも、いろいろ言葉をかえて聞いてみると、そこではじめて、それが自分にとって結構大きなストレスになってる、と気づく。

ストレスだけじゃなく、楽しいとかうれしいとか、こう思ってたんだよね、と感じていることも。

 

 

そういえば、メディスンカードのなかに、

「毎日見ている風景のなかに、見過ごしていることがあるのでは?」

というメッセージがあります。

 

 

あの本屋さんの前の海がみえる場所は、たしかに毎日ではないけれども、なぜわざわざあそこへ行くのか、もっといえば、近所ではないのに行く理由ってなんだろうか、

 

と、自分の感じていることをちゃんと調べてみると、おお、と思ったり、みえてこなかったことがみえたりしますよね。

 

 

って、それこそ、すんごいあたりまえのことを、ひさびさに、ていねいに書いてみました。

 

 

でも、あたりまえに、自分もそのなかの風景に同化してしまっていると、ほんとにたくさんのことを見過ごしてしまうよねー。

 

 

というわけで、とりあえず結構片づけてはいる自分の部屋を、別の視点からあらためて眺めてみようと思いました。

 

 

画像は、紳士に「どう感じているのか」と問われた風景です。

 

ではまた〜☆

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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帰国〜

 

ロサンゼルス・レポートしようと思っていたのですが、日々盛りだくさん過ぎて結局全然書く時間がないまま帰国です。
たぶん自分、結構変化があったと思うんですが、変わってしまうと以前どうだったか、どれだけかなしかったり苦しかったりつらかったりしても、記憶はあったりなかったり、クラスでは結構な涙を流したものの、なんであんなに泣いたんだっけ、、と覚えてないことも多々で、まったくげんきんなものだと思いつつも、潜在意識ってすごいなあと、あらためて思っています。

そして、忘れることの大事さ。

まあ、追い追い書けたら諸々書いていきます。

とりあえず、メールの返信など遅れてすいませんですが、もう少しお待ちを!

というわけで、また。
日本まだ寒いらしいのでやだなーと思いつつ。

 

下の画像は、天使のマリア大聖堂の敷地の一角です。

今日も素敵な1日を☆

 

| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
9月〜近況ほか

8月下旬に未曾有の体調不良で動けなくなり、スケジュールも詰まっていたので自力で治さず漢方の先生のところに行くと、不整脈が出ているとのことで、よく生きてますね(笑)とかこのままだと死にますね(笑)等々終始笑顔で告げられ、とりあえず牛の胆石やら鹿の角やら麝香猫の成分やらの入ったもうほんとに魔法のようなものを処方してもらい、動けなくなったらそれを飲む、という日々で、なんだかもう牛、鹿、麝香猫にとりあえず、ほんとうに申しわけないしほんとうにありがとう、と、道を歩きながらこころのなかで述べると、目の前のお店の電子看板が突然ぱっとついて「OK」という文字が点滅したので、思いは届いたと受け取って、今日に至っていますニコニコ

そんなことも含め、まあほんとにいろいろいろいろ、今年の諸々の速度を実感するばかりですな。
特に癒しに関してはさらにいろいろ感じること気づくこと多々ありで、
以前書いた視点について(誰が誰の何を癒すのか、これは「わたし」もしくは「誰か」が「わたし」もしくは「誰か」の「何々」を、ではないです)など、今年の春くらいに想像していた今後のイメージがあっさり消失してしまい、戻ろうと思っても戻れず、また戻る必要もなく、、という感じで、でも、こういった方向へ動いているのは、やはり、ブレスワークがきっかけだなとあらためて感じています(またも書く書く詐欺で書いてませんがすんません&ブレスワークで不整脈、ということではないので念のため)。

今回の水星の逆行も結構影響受けたなという感じ&順行になった途端、わらわらとまた動き出すというわかりやすい感じで、ようやく抜け感ありますかね。

いやー9月はわたしにとって、ほんとにいろんなことが起こるまさにはじまりと終わりの月で、先週はなぜかうちのなかにたぶんコオロギの仲間がいて連夜鳴いてたし(声が非常にダイレクトである意味豪華でした)今年はもう終わりですけど、思うところより多い日々です。

そんなわけで、明日からたぶん月曜まで東京を離れます。
来月は来月で、またいろいろでしょうな、という感じですが、まあ、全部、ただ起こるだけ、ということで、また!

体調悪い方続出なので、ほんとにご自愛を。
過剰な信も不信もスルーして、どうぞ適切な対応を。

それでは残りの9月を堪能しつつ☆



| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
「対」と「男女」と「男性性女性性」についてのメモ

これから仕事で外出なんですけど、ブレスワークの感想ほかせめて下書きだけでも、、と思ってひさびさにブログにアクセスして、前回書いたやつを読んでみたら、ふと思うことがあったので、忘れないように自分へのメモとして&そんなわけで文章にできるほど落とし込めないけどどなたかへのヒントになるかも、ということでわかりにくくざっくりと。

早速、前回、都知事選のことを通してちょっと書いた「対」について。
何かへの「対」、「反」でもいいんですけども、なぜこれが起こってくるか、そもそもそれが二元なわけですが、けれどもこれはエネルギーとしてみるならば、ひとつに戻ろうとするちからなんだよね、ということ。

つまり、概念とか観念とか信念とか感情とかが介在することによって、そうした対立構造のストーリーにあっけなくなると。
というか、対とか反として起こってくる何か、これもエネルギーでしかないのだけれど、心情としての「動機」、これがそもそも二元に由来しているわけで、するとどうしても「戦」とか「争」といった次のストーリーへと展開されていくんですよね(というか、相手を倒さんとする動き、これはエゴ/マインドによるものですが、それだけだと言い切れるのかな、どうだろう、でも思考というエネルギーが引き起こす新たなエネルギーの発生という点では、やっぱりエゴが発端よね、というかつまりすべてはここに集約されますよね、エネルギーとしての動きとエゴ/マインドによる解釈ということ)。

とにかく起こってくるすべてのできごとには、人間の頭で考える常識的な概念、観念、信念、感情を呼び起こすストーリーとはまったく関係なく、ただ起こることが起こっているだけで、あらゆることは人間の頭が解釈したり想像したりして判断することによって、人間の思い感じる「できごと」に変換されるだけなのだ、とあらためて。


それともうひとつ。 ひとというかすべての命あるもの、としますが、とにかくわたしたちは何もせず、ただ存在するだけでいい、ということ、について。

もうこの文言自体にいろいろあるわけですけど(この文言の視線、背景にあるストーリーということ)、 それを抜きにしてもそうなんだと。

そのことを理解するのに、特に女性について、女性性と呼ばれるものの定義(潜在意識とか直観とか右脳的な性質など)を実生活に置き換えてみるとわかりやすくなるかも、ということ(すんません、ここほんとに自分用のメモです、機会があったら文章に落とし込みます)。

同時に男性というもの。この「男」と「女」と「男性性」と「女性性」、その両方を実生活に置き換えること、そしてこれもまた「対」についてのことなのかも(たぶん)。

と、「“わたしの”夏休み自由研究」のテーマという感じで、とりあえず時間切れなのでここまでで&ほんとに自分へのメモなので、薄ぼんやり受け取ってくださいませ。。でも響くものがあったら、それはたぶんほんとのこと!


ではではみなさま、熱中症などに気をつけつつ、
楽しい週末を☆


あ、フラワーエッセンスのお申し込み、再開してます。
そしてgmailの方、また届いてない報告ありましたので、
ご確認をよろしくです!


| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
都知事選とアーユルヴェーダの目薬

きのうは都知事選挙でしたけど、結果について一瞬気持ちが重たくなり、それにともなってちょっと不安が出てきたりしたのですが、ああまだこんな不安をもっていたんだなとリリースして気分を切り替え、今朝起きて、参院選のときとの空気感のちがいとか情報のことなど自分なりに考えたりして思ったのは、なんか、やっぱり、「対」ってあんまりよくないんじゃないのか、と。

何かが起こって、それがあきらかにだめなことだとして、それとは反対のことをしよう、という在り方。
それが悪いとかだめというんじゃないし、何が起点となるかは全然問題ではないと思うのですが、
現状を起点としたとしても、それに対するというよりも、ある意味そうした土台関係なしにどう在りたいか。

なんというか、そこにしかほんとの訴求力ってないんじゃないかな、と思ったりしました。

そう、新しいこと、希望みたいなものがみえてこないんですよね、
「対」には。

って、これは政治的なことだけじゃなくて、全然身近な日常のことです。
というか、その規模や種類に関係なく、あらゆることはあらゆることに投影、置き換えられるわけで、というか、もっと身近な自分のことにたとえてみるのがいちばんわかりやすいし簡単だし、それでしかないよね。

なんてことを、実は今朝早く目が覚めてしまって考えてみたりしたので、めずらしく午前中から書いてるのですが、ほんとは別のことを書くつもりで、それはアーユルヴェーダの目薬のこと。

これは選挙に対する投影でも置き換えでもなんでもなくて恐縮なんですけど(笑)、先日ひさびさに思い立って癒しフェアに行ってみたんです、けれどもなんか健康機器とか団体ばっかり目について、個人とか小規模のブースがあんまりなく残念だったなと。

前に行ったとき、たしかアフリカ人のひとのお茶屋さんとか、あとはケルト関係だと思うんですけど、手作りのワンドとか木切れみたいなものでリーディングしてたりとか、普段、目にしないものとかをみられるのが面白かったのに、そういう感じの出店がほぼなくて、あんまり楽しくなく。。

とりあえずお世話になっていたエッセンスのブースに寄ったり、ぶらぶらしていると、ネトラバスティをやっているブースを発見、わたしは慢性的な眼精疲労で、ひどいと連日頭痛になったりするのですが、決定的な対策がいまだみつからず。アーユルヴェーダの施術は食事も含めて受けたりはしていたものの、ネトラバスティをためしたことはなかったのです。

でも、ちょっと横になって、目にギー注がれてオッケーな恰好ではなかったのでどうしよう、、と思っていたところ、目薬があるのを発見、ためしてみませんか、ということでトライ。

成分がはちみつやハーブ、岩塩とのことで、茶色でどろっとしています。
結構沁みますよ、と言われてたしかに痛かったのですが、耐えられないほどではないし、時間が経つとすっきりしてきたので、とりあえず買ってみました。

で、家に帰ってネットで調べてみたところ、いくつか種類があって、ちょっとずつ効果がちがったりと、それぞれ特徴があるんですね、ただ総じてほとんどが劇沁みとか、ものすごく痛いと書かれてあって、いやそこまでじゃなかったよ、と思ったのですが買ったやつをさしてみるとめっっっっっちゃめちゃ痛い、 沁みる、じゃなく痛い、 大げさじゃなく痛い。

たぶんお店のやつは開封して時間が経っていたからじゃないかと思うのですが、ただただ痛いとしか言いようがないくらい痛い(笑)。そう、笑いが出てしまうほどに痛いのです。

涙ぽろぽろ、細菌などがいっしょに出てくるとのことなのですが、ネットの経験談にあったように、痛みがおさまるとたしかにすっきり、ちょっとこう、筋肉がゆるむ感じで、かすみもとれてくる気がする。

で、これ、たとえばすごい怒りがわいてきたときとかイライラするとき、あるいは気分が重たいとき、やる気がいまひとつ出ないとき、さしてみるといいんじゃないかと。
なぜならもう、痛くてしばらく動けず、思考も停止、ただじっとしてしまう、ほかに何もできないんですね(笑)。

ものすごい荒療治ですが、有無を言わせず頭を黙らせ感情を解放もさせ、しかも目にイイ。

ということで、ほんとうに痛い&しばらくべたべたしますが、視力が上がる効果もあるようなので、興味のある方はためしてみてください。





画像は癒しフェアでの戦利品、セージと梅もなかと、ためしてみなさいな、とおじいさんがくれたいちおう売り物の梅エキス、そして目薬です。
目薬は「アーユルヴェーダ」「目薬」で検索すると出てきます。ちなみにこれはエラニールクザンプというやつです。痛くないものもあるようです。

というわけで、また。

あ、最近また特にgmailへのメールが届かないということが起こっています。
もしもこちらからの返信が届いてないよ、という方、迷惑メールのフォルダを確認してみてください。

それでも来てないという方、再度ご連絡くださいませ。
お手数ですが、よろしくお願いいたします。


ではでは、おっと今日から8月!
目の前の何かがどうであれ、いい感じの月になりますよう☆




| ANANYA | text | comments(0) | - | - |
ワークやセッションというものの意味<後編>

さて、前編の続きです。

セルフワークやセルフヒーリングについて、これらの落とし穴というか、自分でやるよりも他者から受けたほうがいい場合と、自分でやれることの線引きについて書いてみます。

まず、潜在的に、ひとにたよってはいけない、という観念をもっているひとがとても多いです。
そして、ひとにたよりたくない、というケースも。

確かにメカニズムがわかれば自分でヒーリングなりワークすることはできるわけですが、ここで問題なのはその視点、やり方がエゴ/マインドに基づいている場合。

これはわたしのクライアントさんの傾向ですが、特にフラワーエッセンスを継続されている方、内観が上手な方がとても多くて、すごいなーとよく思います。
実際、エッセンスをつかったワークの特徴として、エネルギー、つまり周波数レベルで調整していくため、不要な感情の解放が起こり、すると気づきが起こりやすくなってきます。

自分の感情やほんとうの声を聞こうと、それまで外に向いていた視点を自分に向けはじめれば、さらにそれはくっきりとしてきて、たとえば忘れていた記憶が蘇ったり、具体的なことでなくても、何が自分を苦しめていたか、そのストーリーの一端がみえてきます。

このからくりがわかれば、さらに内観しやすくなるため、深くセルフワークができるようになってくるんですね。

ただ、問題なのは、解放、手放すという部分、そして新たなストーリーにはまり込んでしまうこと。

それはエゴ/マインドと本来の自分というもの(まあ、本来の自分、というものもいないっちゃいないんですがそれはおいといて)、つまり誰が誰に対してワークし、ヒーリングし、誰が何を手放すのか、その視点が曖昧なままセルフワークを続けると、内観というよりも、まさに迷宮のストーリーに入り込んでしまい、迷いや混乱、体験する必要のなかった苦しみを付加することになってしまう。

実際、核となっている部分へのアクセスは他者の手を借りてもなかなか難しいため、特に抵抗や抑圧が強かったりするとそこでストップ、そもそもエゴ/マインドはかくそうとするのが役目みたいなものですから、自分は何をやってもだめなんだとか、これだけやったんだからだいじょうぶ等々、結構簡単にその“ジャッジ”にひっかかってしまうんですね。

たとえば内観とか、言葉をつかって問いかけていくワークって、別に何か論理的なこととか分析みたいに思われてる方もいるみたいですが、そういったこととはむしろ対極で、たとえるなら、からまった糸をほどいていくのと同じ作業です。

本物の毛糸とか糸がからまっているのをほどくのって、すごいめんどくさいじゃないですか、けれども、わたしのセッションや特にワークショップで体感された方はおわかりだと思いますが、ほどけたら、もうカードとか引く必要がない。ほんとになんにもいらない、ただ自分をみてくだけ、糸をどんどんたぐっていくだけで終わり。

ほどけたときって、すとん、と胸におちた状態で、なーんだ、と思うこともあれば、自然に涙が流れてきたりもしますよね。

つまりこの時点で解放が起こり、手放すという行為をあらためて重ねる必要もない。あとはそこにできたスペースに、それこそ自然治癒力で必要なことが勝手に起こってくる。それまでのダメージが大きかったり、たとえば深いトラウマなどであれば、ヒーリングをするとなおいい。

ただ、これを自分で行うというセルフワークの落とし穴は、この、糸をたぐっていたつもりが、ほんとはそこにまったく関係ないはずの“別の観念”や“思い込み”を無自覚に挿入して新たに糸を足してしまったり、途中でぶっちぎってしまって、核の部分が残されてしまう、そしてそれに気づかないこと。

さらにいえば、ほんとはそこで終われるはずが、そこにあったできごとに対する思いや感情に気づけても、 今度はそれを手放したくない、気づきたくない、みたくない、という感情が付随している場合。
ここからが、前々回に書いた“言葉では難しい領域”だと、ANANYAが感じているケースです。

以上、内観というか言葉をつかったワークを例に書いてますけど、ツールやプロセスがちがうだけで、これはほかのワークやヒーリングのメカニズムでもあります。

まとめてみると、これもそのひとの信念体系や観念によるので一概にこうだ、とはいえないわけですが、それでも、ほんとにけがや何か病気にかかったときにどうするかとおんなじ。
その程度によって、自分での対応の段階もさまざまだし、できることは自分でやったらいいですし、それでだめなら病院など治療を受けに行くように、ぴん、ときたところを選んだらいい。

ただ、いちばんまずいなと思うのが、上に書いたような、もっと早くらくになれるところをいろんな観念や思い込みなどで遅らせてしまったり、さらに糸をからめてしまうこと。

実のところ、こうしたワーク、セルフでもそうでなくても苦手なひとは、単にやり方がよくわからないという場合も多いですが、抵抗しているケースがとても多いです。

前編でも書きましたけど、自分のなかにある感情や思いを知るのがこわい、知ってしまったらどうなるのだろう等々のおそれから、みないふりをしてしまう。

結局この状態だと、セルフでやっても、肝心なところは避けてしまいますよね、ある意味自分で自分を手術するみたいなことだから。

これは言葉、つまりマインドに直接はたらきかけるようなワーク以外の、たとえばエネルギーワーク等でも同じだと思います。同じやり方で行っても、そのワーカーやヒーラーによってあらわれてくることがちがいますよね。

結局のところ、言葉があろうがなかろうが、誰が何を理解し、誰が何にフォーカスしているのか。言葉だってエネルギーなのだから。。


と、いろいろ書いてきましたけれども、でもね、ぶっちゃけ、ワークもヒーリングも、全部エゴ/マインド、つまりストーリーだということ。
ここに気づけば、ほんとになんにも必要がない。
それがワークもヒーリングもほんとうにはいらない、という理由です。

とはいえ、気づき、目覚めが起こるまでは、、とこれはまた別の話になってくるのでひとまず。

どちらにしても、自分でやる場合は、一度、信頼できそうなひとのセッションを受けたりやり方を確かめたりと、それこそ、自己判断で走らないことが肝要かなと思います。

もっと、いろいろなケースや簡単なワークのやり方なども書いてみたいのですが、ちょっとブログでできる範囲ではないので、別のかたちでできたらな&セルフワークに特化したワークショップをやってもいいのかもね、と思いつつ、とりあえずこんな感じで。

長々と読んでいただき、ありがとうございました。
また近々、ブレスワークの感想など紹介できたらと思います。

ここちよい週のはじまりを☆


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フラワーエッセンスのお申し込み
7月分、締め切らせていただきました。
申し込んでくださった方、発送は来週になります。←すいません、今週(7/25〜)です。順次発送します!



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ワークやセッションというものの意味<前編>


やっと前回の続き、と言っても、特に前回分を読んでいただく必要もないかなと思うので、今回分を<前編>として、早速ワークやヒーリングというものについて、あらためて書いてみます。

たとえば、転んでけがをしたとします。
軽いけがなら水で洗ってバンドエイドを貼ったり、舐めとけば治る、というように、ほんとにそれだけでだいじょうぶだったりします。

心理的なことも同じで、たとえばあるできごとが起こり、ネガティブな感情が引き起こされた場合、「舐めとけば治る程度」が行動としてどんな感じかはそれぞれだと思いますが、たとえば考えても仕方ないので忘れるとか、楽しいことを考えるとか、誰かに聞いてもらうとか、カラオケとか運動とか音楽を聴くとかやけ食いとか、あるいはひたすら寝るとか、自分なりの手段で対応しますよね。

結局のところ、何がいやかといえば、苦しみやおそれなど嫌な感情を持ち続けること。
その感情がなくなれば、ぶっちゃけなんでもいいんだと思うんですよ。
ところが、その感情よりも、できごとが起こったこと自体にフォーカスして、それをなんとかしなくてはならない、と思い、あれこれ策を練りはじめる。

実はそれこそが苦しみのはじまりなんですけど、めちゃ長くなるのでとりあえず割愛。
とにかく感情や思考という領域でも、からだと同じように自然治癒力というか、ニュートラルな状態、つまり本来の状態に戻ろうとするはたらきがあるわけで、とりあえずなんとか立ち直れば/気分が変われば、それでよし、と。

だからたいていのひとは発散、気にしない、がまん、忘れるべしと、ワークだとかヒーリングの必要性を思うことなく暮らしているわけです。

ただ、そうした自分なりの対応だけでは無理なとき。
身体のけがであれば、血がちゃんと止まらないとか、膿んできたとか、目に見えて状態がわかるためだと思いますが、その段階にあわせてまた対応しますよね。血がだらだら流れているのを放っておくというひとは、なんらかの理由がない限り、いないと思うんです。

けれども、こころにおいては、まだだいじょうぶではないのにだいじょうぶなふりや、傷ついたままの感情を見ないようにしたりと、目でみることのできない感情やこころについては、なおさら蓋をしてしまう。
というより、自分が傷ついているという事実やその背後にある理由などをあきらかにすることに、そもそも抵抗がありますよね。

身体においても、結構病院嫌いなひとが多いと感じますが、むしろ自分では対応しきれない症状が起こるときほど、見ないようにしてしまう。
もしもとりかえしのつかないような病気だったらどうしようみたいに、やっぱりこわいんだと思うのです。

なかでもいちばん多いのは、気を紛らわす、とりあえずその場を乗り切るという感じだと思うのですが、 それが積もり積もっていくと、なんらかの影響が現実としてあらわれてくる、肉体的には症状が悪化するなど、とても顕著ですよね。

そんなとき、つまり自分だけでは回復できないときに、ヒーリングやワーク、とあえて名づけられる行為が必要とされてくるわけです。

そんなことわかってるよ、って思われるとも思うのですが、そのメカニズムがほんとにわかっていたら、それこそ、この感じなら舐めとけばOK、でもこの感じだとひとの手を借りたほうがいいなど、自覚的にそのやり方を選ぶことができてくる。
過度に依存することもなくなるし、ほんとはもっと早く対応していれば、みたいなことも避けられるだろうし、何より苦しみの感情で過ごす時間が少なくなると思うんです。

ところが、ここでひとつ言いたかったのは、その線引きです。
もっというと、セルフワークやセルフヒーリングについてのことです。

と、長くなってきたので、続きは次に


 

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